ある昼下がりの午後。そびえ立つ熊本城――の近くにある一本の小さな木。その幹にもたれ掛かっている一人の少年。堂々とそびえ建っている熊本城とは対照的に、そわそわしながら今か今かと落ち着かない様子だった。
――まだ……だよな……。
その少年――五代新太(熊本県熊本市立泉北中学校三年三組男子八番)は、もう何度目になるかわからない時刻の確認をする。待ち合わせは午後一時。今は十二時半。至極まっとうに考えるならば、まだ相手はここにこなくて当然なのである。そもそも、いくら人生初めてのデートだからといって、待ち合わせの一時間前にくるなど(つまりは三十分前からここにいる)、緊張のしすぎにもほどがあるというものだ。
そう、今日は彼女である時津理子(同女子十一番)との初めて二人きりででかける日――いわば初デートの日なのだ。いくら女の子から何度も告白されたことのある新太とはいえ、女の子と二人きりで出かけたことなどもちろんない。しかも、ずっと好きだった女の子との初デートなのだ。緊張するのも仕方がないというもの。
まだ理子は来ないだろうと踏んで、ちらっと身なりを確認する。といっても鏡などもっているわけはないので、着ている服装に変なところがないか再確認しているだけだ。この服装にしたって、普段読み慣れない雑誌を読み漁り、買い物に行った時の店員さんのアドバイスを参考に、何日も悩んで決めたもの。親友である和久章平(同男子二十一番)に相談することも考えたのだが、章平の私服は新太よりもひどいらしく、「おしゃれの“お”の字もない」と彼女に常々言われていたそうな。新太にしても、普段はTシャツにジーンズというラフな格好をしているので、人のことはとやかく言えないのも事実だが。
買い物に行った際(そんなおしゃれな店に行くことすら初めてだった)に買ったカーキ色のミリタリージャケット、中の白いTシャツこそは元々持っていた私物だが、そこの上にかけられたクロスのネックレスなど、生まれて初めて身につけたものだ。ジーンズにしても、最初は持っているから別にいいかと思ったが、せっかくですからと店員に押し切られる形で購入した新品を履いている。靴も昨日必死で磨いてピカピカにしたものだ。
けれど、これだけ気合いを入れた格好をしても、果たして理子は気に入ってくれるのだろうか。理子の好みが違っていたらどうしたらいいのだろう。いつもなら気にしない服装にすら神経を使うほど、自分は臆病だったのだろうか。そんなことを思い、小さくため息をついた。
いや、そもそも今日のデートだって楽しませることができるのだろうか。会話が続かなかったらどうしようか。今日のプランもそれなりに考えているけれど、それが意に添わなかったら? 理子が抱いているであろう自分のイメージと違っていて、幻滅でもされてしまったら? それで、“好き”という感情まで消えてしまったら?
そんなことを考えてしまっているうちに、大分時間が経過してしまったらしい。耳に、待ちこがれていた声が届いていた。
「ごめん! 待った?」
聞き間違えるはずのない声。ずっと待っていた恋人の声。思わず、声のした方向へ視線をはしらせる。
特徴的な二つのヘアピン。少しばかり外ハネした髪が、彼女の明るさを強調しているかのよう。服装は、白いブラウスに茶色のスカート。靴は、新太が履かないようなヒールのある黒いパンプス。いたって普通の女の子の格好。けれど、初めて見る彼女の私服姿に、ありきたりな言い方になるが、胸がときめいてしまった。
「走ってきたんだけど……。やっぱ、慣れないなぁ……。この靴」
「え?いつも履いているのじゃないの?」
理子の思わぬ一言に、つい質問してしまう。言ってしまってから、なんて無神経な質問だったのだろうと一人反省した。
「え? う、うん……。やっぱ、デートだしさ! 可愛い格好したいじゃない? せっかく好きな人と……その……一緒に過ごせるわけだし……」
もじもじしながら恥ずかしそうに言う理子を見て、なんだか急に可愛く思えてきた。いや、そうでなくても十分可愛いけれど。
「いや、全然……。むしろ俺の方があんまり……」
「そんなことないよ! 新太くんの服装いいと思うよ!」
いや、これはほぼ店員さんのコーディネートなんだけど。
「あ、でも新太くんの好みに合っているかな? この格好大丈夫? 嫌いじゃない?」
少しだけスカートを摘みながら、不安げな表情で新太を見る。けれど、そんな理子とは対照的に、新太の表情は次第に綻んでいった。自分がさっきまで悩んでいたことが、とても小さなもののように思えたから。
自分だけじゃなかった。不安だったのは、自分一人だけじゃなかったんだと。理子も同じことを思っていて、同じことで悩んでいたのだと。
それがどうしようもなく嬉しくて、そしてたまらなく愛おしい。
「うん。その服装好きだよ」
好きなのは、服装だけじゃないけどね。そう思ったけれど、その言葉は今は心の中に留めておくことにする。
新太の言葉に、「よかったー」と、理子はホッと胸をなで下ろす。どうやら、新太は服装気にいってくれるかどうか不安だったらしい。同じことで悩んでいた自分がこう思うのも変だけど、そんなことは些細な問題なのに。
「じゃあさ、そろそろ行こうか。」
デートはこれからなんだから。
「うん!」
にっこりと笑って首を縦に振る理子を見ながら、さりげなく手を差し出す。手をつなぐのはまだ先だと思っていたけれど、でも今つなぎたいから。
理子もにっこり笑いながら、その手をつないでくれた。その小さな手から伝わる温もりが、たまらなく愛おしくて、大切にしたいと思った。出来るかぎり、守ってあげたいと思った。
きっとこうやって少しずつ歩き出すのだろう。クラスメイト、もしくは部員とマネージャーという関係から、恋人へと発展していくのだろう。その課程で、いくつもの経験を積むのだろう。
それはまだ先のようで、きっと近い未来の出来事。
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