十一月二十六日。平日、午前六時。
俺の一日は、カーテンの隙間からこぼれる朝日を浴びて、布団を出るところから始まる。低血圧ではないため、比較的目覚めはいい方だ。そのまま布団の傍に置いてある眼鏡をかけ、近くにある時計を見ることが習慣となっている。ちなみに、この時計には目覚まし機能も付いているが、生憎そんな怠け者のための機能など使ったことはない。
「淳一、起きてるー?」
「起きてる、起きてる」
「着替えたら、さっさとリビングにいらっしゃい」
「はいはい」
起きてものの五分もしないうちに、すぐに部屋の外にいる母から声がかかる。俺が起きる時間はもちろん母も把握しているため、毎日このくらいの時間には必ず起こる朝の恒例行事といっていい。なぜわざわざそんなことをするのかと言うと、“早く食器片づけたいから、さっさとご飯を食べろ”という本音を隠した催促なのだ。それを理解しているから文句は言わないが、この口うるささはもう少し何とかならないものかと思ってしまう。
しかし、母の言うことは最もなので、素直に行動を開始する。最初にトイレへ行き、次に洗面所で顔を洗う。顔を洗うついでに眼鏡も水洗。そして部屋に戻って制服へと着替え、また洗面所で今度は髪を整える。意外と寝癖がひどいので、地味にこの作業が大変なのだ。
何とか髪型が様になったところで、母のいるリビングへ行く。行ったときには、朝食は既に出来上がっていることが多い。絶対に声をかけた後で、すぐに食べられるように準備をしているに違いない。確認したことはないが。
「……おはよう」
「おはよ。ほら、さっさと食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
まだ遅刻しない時間なのに、母は毎日同じ台詞を口にする。入学したての頃は「遅刻しねえよ」と一言反論していたが、最近は流すようにしている。これは母の決まり文句のようなもので、その言葉に大した意味はないことが分かったからだ。
なので、その言葉には何も返さず、「いただきます」と手を合わせ、朝食を食べることにする。基本的に白米と味噌汁、そこに漬け物があるのがいつもの食事内容だ。たまに焼き魚とか煮物が加わるときがあるが、それは前日の残りか、両親がやっている内科が休みのときくらいだ。後者は滅多にないことだが。
急ぐことなく朝食を食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせてから、食器を片づける。母からのお達しで、食器は各自流しに持って行くことになっている。一応俺は持って行ったついでに、ある程度食器を水につけておく。こうしていれば、後で食器を洗うのが楽だからだ。これも親孝行の一つである。
それから洗面所へ行き、今度は歯を丁寧に磨く。歯は大事しなさいという父からの教えから、最低でも五分は時間をかける。歯ブラシを縦にして、隙間も逃さずに磨く。口をゆすぎ、鏡で磨けているか確認してから、洗面所を後にする。のぞき込むようにして自分の顔を見ているのは、決して俺がナルシストだからではない。
部屋へ戻り、一応定期などの持ち物を確認してから、学校の鞄を持ってすぐに部屋を出る。朝に慌ててその日の準備をするなど、愚の骨頂だ。そういう支度は、前日のうちにやっておくべきである。増してや、学校に教科書やノートを置いておくなど馬鹿のやることだ。
「行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。気をつけていくんだよ」
俺が玄関から出ようとすると、大体父が見送りに出てきてくれる。毎日同じ言葉を口にするが、母とは違いその内容には意味がある。本気で“気をつけて”行ってこいということなのだ。だから今度は、「まぁ、気をつけて行ってくるよ」と返答をしてから家を出る。このとき、大体朝六時半。
家を出てから、最寄りの駅まで徒歩で移動する。駅までは大体十分前後。多少の運動は必要だと思っているので、この距離を歩いていくのは苦ではない。この時間は五月蠅いガキ共もいないし、店も開いていないので静かなものだ。むしろ心休まる時間である。
というのも、駅についたらこの穏やかな時間も終わりを告げるからだ。
『まもなく、西鉄福岡行きの普通電車が参ります。危険ですので、黄色い線の後ろまでお下がりください』
駅に着けば、俺と同じような学生、通勤途中であろうスーツを着た成人男性や女性、そして少なくはない高齢者により、駅の構内は少しばかりごった返している。ごった返しているだけならまだいいが、時々駆け込み乗車を試みる奴や、列に平気で割り込んでくる人間もいるから厄介である。そういう奴の足を踏みつけてやりたいと思ったことは、中学生になってからだけでも数知れない。
俺の利用する駅に、急行や特急は止まらない。利用できるのは、各駅停車の普通電車のみだ。なので、その普通電車が来た時点でベンチに座っていた人間も立ち上がり、既に出来上がっている列の後ろに並び出す。決して広い駅ではないので、このとき少々窮屈な思いをする羽目になる。割り込みはこういうときに発生するのだから、少々イラつきたくもなるというものだ。殺意を抱かないだけありがたいと思ってほしい。
電車が止まり、扉が開く。降りる人を待ってから、順に車内に乗り込んでいく。俺は朝課外の関係もあり、七時台の早めの電車に乗る。多少窮屈ではあるが、駅に着いた時点でホームに並べば、ほぼ毎回座席には座れる。譲り合い? 別に空いているのだから、座ったって文句はないだろう。学生だって疲れるのだ。このくらいのゆとりは持たせてほしいものである。
『まもなく発車します』
アナウンスを聞き流し、鞄に入っていた教科書を開く。別に勤勉なわけではない、ただ暇つぶしである。四駅ほどで降りるのだから大した時間ではないが、何もしないというのも落ち着かないので、こうしているだけだ。いつもなら図書館から借りた本を読むのだが、生憎それは昨日で読み終わってしまった。
いつもなら、文字に目を通しつつ、降りる駅が呼ばれるのを聞き逃さないように聞き耳を立てる。そうして学校へ向かうわずかな隙間時間を過ごすのだが、そのパターンが崩れる場合が一つだけ存在する。そして、それは何の前触れもなく、青天の霹靂のように突然訪れるのだ。
「あっ! 澤部だーッ! おはようおはよう!」
公共の場において大迷惑な大声で名前を呼び、少しばかりの人ごみをかき分けながらこちらの方へパタパタと走ってくる人間が一人。その声を聞くたびに、足か腹を蹴り飛ばしたくなる。何度もうるさいと言っているのに、どうしてこちらの言うことをきかないのか。これで俺よりも成績がいいのだから厄介である。頭脳が優秀だからといって、人として優れているとは限らないのだと、この女を見るたびに痛感する。あと、優秀な頭脳は、然るべき人間に与えられるとは限らない、とも。
「いやいや、奇遇ですなぁ。同じ電車に乗り合わせるなんて」
「うるさい。ギャーギャーわめくな。公共の場では大迷惑だと、何度言ったら分かるんだ」
「あー、ゴメンゴメン。ついつい」
ペロッと舌を出しながら、その人物――佐伯希美(女子7番)は形だけの謝罪をする。それで許されるとでも思っているのだろうか。舌を出したところで、少しも可愛くない。どこかのお菓子のキャラクターでもあるまいし。
「ねぇねぇ、何読んでんのー? ……って、教科書? 相変わらず真面目ですなー」
「別に。ただの暇つぶしだ」
「暇つぶしに教科書読むなんて、澤部くらいなもんだよ。やっぱ変人だー」
そういうお前の方が変人だ。という言葉は言わないでおく。変人と言われても、この女にとっては褒め言葉にしかならないことは、二年からの短く浅い付き合いでも容易に理解できる。褒めてるつもりなどないのに、変に喜ばれるほど気持ちの悪いものはない。
「そういえばさぁ、今度駅前に新しいお店ができるんだってー」
「それがどうした」
「興味ないのー? もしかしたら、静かに勉強できるおしゃれなお店かもよー」
「興味ない」
面倒だと、心の中で深く溜息をつく。こういったどうでもいい、何の利益にもならないやり取りを、たまにこの女に遭遇してしまったときにはする羽目になるのだ。本来ならば無視をしたいところだが、それはそれで永遠と無駄な話を聞き続ける羽目になる。なので、それをある程度ぶつ切りするためにも、一応の返答はすることにしているのだ。もちろん、会話が続かないような言葉を選んで。
そして迷惑なことに、電車で会ってから学校の教室に到着するまで、正味三十分ほどこれが続くのだ。朝から疲れること請け合いである。正直なところ、アルバイト代を出してほしいくらいだ。“佐伯希美の無駄話を朝から永遠と聞き続けるアルバイト”――時給は千円くらいで手を打とうか。実際は一日五百円ほどになるが。
「あっ、希美おはよう! 澤部くんもおはよう!」
教室に着けば、希美の友人である東堂あかね(女子14番)が真っ先に希美の方へ声をかけるため、このうっとおしいやり取りも一応一段落する。希美があかね達のところへと向かって行くのを横目に、俺は自分の席へと座る。この間、ほとんどの人間と口を聞くことはない。希美のように進んで俺に挨拶をする人間は、実際のところかなり稀有なのである。先ほどのあかねも、その稀有な人物の一人に当たるだろう。まぁこちらは俺にというより、クラス全員に声をかけるタイプなのだが。
席に座ると、早速朝課外の準備をする。今日の科目は数学で、俺の好きな教科だ。きちんと答えの決まっているところが、下手に色々考えなくていい。苦手科目はないが、強いて言うなら国語の多種多様な回答はあまり好きではない。あと、要約せよ、なんて問題ほど嫌いなものはない。そんなの、全部読めば済む話ではないか。
「淳一、おはよう」
席に座って少しすれば、俺に声をかけてくる稀有な人間がもう一人やってくる。その人物――宮崎亮介(男子15番)は、俺のたった一人の友人と呼べる存在の人間だ。
友人になったキッカケは、三年の中間テストの後くらいに、亮介が俺の後をつけていたことだ。俺の成績がいい秘密を知りたかった、というのが理由らしい。最初はなんてバカバカしいんだと思っていたが、話を聞いているうちにそうせざるを得ない切羽詰まった理由があったことを知った。それで勉強を教えることにしたのだが、それ以来話す機会も増え、次第に一緒にいることが心地よくなっていった。宣言はしていないが、亮介は俺の中で家族と同じくらい大切な存在である。恥ずかしいので、おそらくこれからも言わないだろうが。
「ああ、おはよう」
だからだろうか。亮介と会話するときは、自然と口調が穏やかになる。
「亮介、今日の課外の問題分かったか?」
「うん。けっこう時間かかっちゃったけど。これも、淳一がいつも丁寧に教えてくれるからだよ」
ありがとう。という言葉を、亮介は恥ずかしげもなく口にする。これは、素直に尊敬するべきところだろう。俺は、そういう礼の言葉や好意的な言動、増してやお世辞などは言えない人間だ。そんな俺からしてみれば、何の躊躇いもなくそう言えるところは、一種の長所だと思っている。これも言ったことはないし、これからも言わないだろうが。
「そういえばさ、駅前に新しいお店できるって知ってる?」
「ああ、朝から佐伯がうるさく言っていたやつか」
「多分それかな。あ、今日は佐伯さんと一緒に来たんだ」
「来たくて来ているわけじゃないんだがな」
希美のときは流していたが、そのお店のことは多少知っている。確か、女の子が好みそうな甘味を豊富に揃えている喫茶店のようなところらしい。淳一が普段から利用しているその駅は、青奉中学校の生徒以外にも利用している学生が多くいるため、おそらくそんな学生をターゲットにしたお店なのだろう。
「そのお店がさ、来月頭にオープンするんだって。しかも、初日は限定でサービスするらしいし、しばらくは何か色々安くなるんだって。外装も中々可愛いらしいし、しばらくは女の子でその辺ごった返しているかもね」
「ゲッ……! てことは、俺の帰り道が女で溢れかえるかもしれないってことか?」
「そういうことだよ。しばらくは人ごみをかき分けなきゃいけないかもね」
「はぁ……」
なんで俺がそんな苦労をしなくてはいけないのだ。その店の経営者に文句を言いたい。同じ年の女というのは、どこか節操がないので基本的に好きではないのに、これでは嫌でも関わらなくはいけなくなるではないか。幅の広い道に横並びで歩く集団を見て、何度後ろからどつきたいと思ったことか。つまりしばらくの間、そんな衝動と戦わなくてはいけないということか。いやいや、何でだよ。確か、登下校中の寄り道は校則違反だろう。
そこまで話したところで、朝課外開始のチャイムが鳴る。このとき、朝の七時半。
こうして俺の平日の朝は、穏やかに、たまに慌ただしく、そして以前にはなかったクラスメイトとの他愛のない会話から始まるのだ。
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「でさー! 今度その店に行こうってことになって……って、聞いてるー?」
「聞いてる聞いてる」
なぜ、こんなことになっているのか。そんなこと、俺が一番聞きたい。行きどころか、帰りまでこの女と一緒とは。一度だけ俺から誘って帰ったことはあるが、それは用事というか文句を言うためであって、そんなことは例外中の例外だ。そもそも、俺は四六時中誰かと一緒にいることが好きではない。亮介は例外だが。
俺の隣に座っている希美はそんなことを知ってか知らずか、一人延々と何か話している。行きと同じように、本を広げながら、俺はその話を聞き流していた。ちなみに、この本は昼休みに図書館から借りてきたものだ。
「……何読んでんの?」
「お前の興味の対象外」
「澤部に、私の興味のあるなしが分かんの?」
「少なくとも、歴史に興味がないことは分かる」
ああ……と、希美は感嘆なのか納得なのか分からない返事をする。俺の言っていることが正しいのか、希美がそれ以上聞いてくることはなかった。正確には、歴史を題材にした小説なのだが、それは敢えて黙っておく。
「そういえばさ、今日宮崎くんは一緒じゃないの? たまに一緒に澤部の家に行っているじゃない」
「今日は部活の指導。引退したけど、後輩のことが気になるんだと」
「ふーん。まぁ宮崎くん、テニス上手いもんね」
当たり前だ。三年間ずっとレギュラーなんだから。という言葉は呑み込んでおく。そんなことは、希美にも分かっているだろう。クラスで一番運動神経がいいということは、一組では周知の事実なのだから。
「……ねぇ、澤部。今度あの店行こうよ、駅前のやつ」
「はぁ?! 何で俺があんな店に行かなきゃいけないんだ!!」
「ぷっ……! 澤部くん、ここは公共の場ですよー。大声は慎んでくださーい」
突発的な希美の提案に、思わず大声が出る。俺の反応が面白かったのか、希美は手で口を押さえながら、おどけた口調で注意をしていた。反論したいところだったが、周囲の幾人かが俺のことを見ていることに気付いたので、そこはグッと抑えることにする。
「どうせ東堂とかと一緒に行くんだろ? なんで俺が……」
「そんなの決まっているじゃん。女の子がたくさんいるお店で、澤部がどんな反応をするか見たいからだよ」
「お前な……」
馬鹿にしているのか、と言いたいところだったが、今度は公共の場ということをギリギリで思い出したので、それは踏みとどまる。恥の二の舞はゴメンだ。
「俺のこと……からかってるだろ」
「うん」
「はっきり言うな」
「あと、あまりに会話をぶつ切りにされるから。でも、ちゃんと聞いていたんだね。聞いてなかったら、約束取り付けられたのにー。つまんないのー」
口を尖らせながら、希美は本当につまらなさそうにそう呟く。まったく、俺はお前のおもちゃではない。と、言いたいところだが、言ったところで何も解決しないので黙っておいた。
「ねぇ、行こうよ行こうよ。女の子うんぬんは置いといても、食べ物がおいしいかもしれないよ。それに、彼女と一緒の男だって来るんだから、何も恥ずかしいことないって。結香も、弓塚くんと行くって言ってたし」
「俺は、お前と付き合ってなどいない。それに、あのバカップルと同レベルと思われても迷惑だ」
「ほらほら、そういうところが器が小さい。もっと広い心を持たないと」
「相手のことにおかまいなく、会話の内容がぽんぽん変わるお前にだけは言われたくないな」
文句を一つ言ったところで、電車が止まる。やれやれ、やっと着いたか。俺は広げていた本を鞄に直し、足早にホームへと降り立つ。後ろの方で、希美も同じように電車から降りていた。
改札を出れば、俺は左に曲がる。希美は右に曲がるから、ここでようやくこの女との会話も終わるのだ。まったく、本当にアルバイトとして金銭が欲しい。多分、参考書代くらいは稼げるだろうに。
「ねぇ……澤部」
改札を出たところで、希美に呼び止められる。自然と足が止まり、視線を希美の方へと向ける。そこには、いつになく真剣な表情の希美がいた。彼女の背後にある夕日が、やけに眩しい。
「澤部ってさ、大分丸くなったよね」
「はっ……?」
「私、今の澤部、いいと思うよ」
「……なんだ気持ち悪い。頭でも打ったか?」
「ふふっ、そうかもねー」
真剣な表情から一転、いつものようなおどけたような表情に戻る。帰宅途中の人でごった返している中、希美は大きく手を振っていた。
「じゃあねー澤部! また明日ねー!」
こちらが返答する間もなく、希美は人ごみの中へと消えていった。踏切を渡り、家へと帰るのだろう。少しだけその方向を見つめ、俺も自分の家の方向へと歩き出した。
『澤部ってさ、大分丸くなったよね』
希美に言われた言葉が、頭の中で反芻している。この俺が丸くなった? 何を言っているのだ、あの女は。本当に頭でも打ったのではなかろうか。ただでさえ、頭のネジがどっか外れているような奴なのに、さらにネジが飛ぶようなことになりはしてないだろうか。
ただ――心のどこかでは、否定しきれない自分がいた。確かに、前とは違う気がする。少なくとも、帰り道に誰かと会話をするなんてこと、以前の俺なら絶対にしなかった。同じように、誰かのことを無条件に褒めることも。
どこから変わったのだろうか。希美に文句を言って、以来ライバル関係が成立したときだろうか。それとも、亮介の事情を聞き、以来友人として接するようになったことだろうか。人と関わることで、自身も変化したのだろうか。
ああ、でも、それも悪くないかもしれないな。
家に着くまでの間、そう思い表情がほころんでいることに気づき、慌てて口元を引き締めていた。
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