「うんしょ、よっこいしょ」
コンクリート打ちっ放しの、無機質なビルの中。両手いっぱいの荷物を抱え、寿美和子担当官はゆっくり歩いていた。今向かっているのは、普段自分ら担当官が使っている仕事場。昨日担当していたプログラムが終わり、これから報告書を仕上げにいくのだ。ここまでが担当官としての仕事であり、美和子にとってはいつもと変わらぬ日常である。
背負っているリュックには、プログラムの資料がパンパンに詰まっており、小柄な美和子がふらつくほどに重い。両手に持っているスーパーのビニール袋の中には、報告書を仕上げるまでの、パンやおにぎりをメインとした食事と、五百ミリペットボトル数本分の飲み物。正味三日はかかる予定なので、これだけあっても足りないかもしれない。
担当官が使う仕事場は、大体無人状態だ。プログラムに出ていたり、後始末に負われたり、何もないときは来る必要もない。大企業の仕事場なら、いつも人で溢れかえっているのだろう。こういうところでも、この仕事は特殊なのだなと思う。
長い廊下をひたすら歩く。人一人通らない、静かな廊下を。カツンカツンという足音がやけに響き、何気ない自身の呼吸音すら耳に入る。幽霊やホラーが苦手な人からすれば、一人では絶対に通りたくない場所だ。
――まぁ一番怖いのは、幽霊でも妖怪でもなく、人間なんだけどね。
夜に口笛を吹くと蛇が出る、という言い伝えを知りつつ、軽く口をとがらせる。別に何かの曲でもない。ただ気まぐれに音を奏でているだけ。
そうしている内に、目的の場所へと到着する。ガラス張りのドアの向こう側は真っ暗。予想通り、今は誰もいないらしい。一人でやりたいので好都合だと少しだけ表情を綻ばせつつ、全員に持たされている鍵を使い解錠した。
ガチャリという金属音と、キイという軋んだ音。ドアを開けて、即座に電気をつける。暗闇に人工的な光が差し、部屋の中を照らしていた。そこあるのは、何の変哲もないスチール製の机と、キャスター付きの椅子。綺麗に並べられた机の上は、煩雑に書類が散らばったもの、逆に何も置かれていない綺麗なもの、整理整頓されているものと、それぞれの主の性格を表すかのように多種多様だ。
その中で、何も置かれていない机へと歩いていく。椅子に座る前に、ドサリとリュックを机の上に置いた。両手に抱えていたビニール袋は、とりあえず足下へ置いておく。
「さてさて、やりますか」
気合いを入れて腕まくりをし、リュックから筆記具と資料を取り出す。担当官内でも、ワープロを使って報告書を作成する人間が増えているが、美和子は専ら手書きだ。別に機械を嫌っているわけではなく、苦手でうまく扱えないからである。あと、手書きの方が記憶に残るというのも大きな理由ではあるが。
誰もいない夜の仕事場で、たった一人ペンを動かす、十代と間違えられるほどの小柄な女性。その横顔は真剣で、年相応の大人の表情をしていた。
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作業を始めて数時間後、何かお腹に入れようかなと一息ついたところに、ガチャリとドアが開かれていた。
「やっぱりか」
美和子がいることを予測していたのか、入ってきた人物は特に驚く様子もなく、こちらに向かって歩いてくる。見慣れたその人物に向かって、美和子も軽い調子で挨拶した。
「栗ちゃん、こんばんみー!」
「だから、栗ちゃんはやめろ。気色悪い」
親しみをこめた愛称で呼ぶと、その人物――栗井孝は露骨に嫌そうな顔をする。けれど、美和子がそう呼んでいる理由を知っているせいか、それ以上の言及はしない。いつものことだ。
「栗ちゃんも報告書ー? 何なら、一緒にやるー?」
「違う。俺は、明日からだ。とりあえず、準備のために来ただけ」
「なーんだ」
栗井となら一緒に仕事してもいいと思ったが、明日からプログラムならそんなに長居はしないだろう。自分ほどではないにせよ、栗井もプログラム中はほとんど休まない。今日くらいは早々に寝ないと、身体がもたないだろうし。
「……お前は、相変わらずだな。いつからやってる?」
「つい二、三時間前に始めたとこー」
「随分書いたようだが、まださわりくらいだろう」
「まだ一人も書きあがってないよー。とりあえず、流れを書いただけー」
「にしては、細かく書いてるようだが」
一応、プログラムの最中にメモの意味合いも含めて、全員分の報告書は作成している、だが、正式に提出する一人一人の報告書は、こうして帰ってから書くことにしている。ただ、今のところまだ着手していない。その前に、全体の確認から。もちろん記憶はしているが、何も知らない上層部への報告書なので、微入り詳細に。一度だけ「細かすぎる。もっと要点を絞って簡潔に」と言われたが、知らぬふりして同じように書き続けている。
三日間のプログラムで、三十人ほどの中学生が死ぬのだ。せめてその生き様くらい、きちんと残さないと失礼だろう。
「当たり前だのクラッカーですよ。栗ちゃんだって、丸一日以上はかけて書いてるじゃん」
「お前ほどではない」
そうは言うが、この栗井という男。なんだかんだで割と真面目な性格をしている。以前、ちらっと報告書を見せてもらったが、要点がきちんとまとまっているし、何より字が綺麗で読みやすい。見せてもらった時は手書きで作成していたが、現在はワープロで作っているらしい。ワープロの方が効率的にできるということと、資料を整理しやすいというのが理由らしい。別に手書きでも全然よかったのに。残念。
「ほら」
そんなことを考えていたら、目の前に何か置かれる。見れば、それは小さな茶色の小瓶だった。
「どうせ三日ほど徹夜するんだろう。差し入れ」
「さっすが栗ちゃん! 気が利くぅ!」
「だから、栗ちゃんはやめろ」
「だって呼びやすいし、親しみがあっていいじゃん」
軽口を叩きながら、置かれた小瓶に手を伸ばす。蓋を開け、中身を一息に飲み干した。栄養ドリンク特有の、炭酸を含んだ甘ったるい味。まどろみかけていた頭が、少しだけスッキリする。
「ぷはー! 頼っちゃダメって分かっているけど、やっぱ徹夜のお供はこれだよねッ!!」
「そんなグビグビ飲むもんじゃないからな。とりあえず、ここに残りは置いておくから」
呆れた口調でそう言いつつ、栗井は隣の机の上に同じ物を二本置いていた。そこの机の主は、確か現在長期療養中だったはずだ。理由は知らないが。
「差し入れありがとー! 栗ちゃんも、明日から頑張ってねー」
「頑張るのは、俺じゃないがな。毎度言っている気がするが、根詰めすぎるなよ」
愛称に突っ込むのは止めたのか、栗井はさらっと流す。そのまま荷物をまとめ、すぐに部屋から出て行った。閑散とした室内には、美和子一人だけが残される。
「さーてと、いっちょやりますか!!」
両腕をぐーんと上に伸ばし、首をグルグルと回す。そうして気合を入れ直し、再びペンを手に取る。
時刻は、間もなく午前零時になろうとしていた。
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