雨の日は嫌いだ。地面は濡れるし、服も濡れる。行動も制限されるし、いいことなど一つもない。こんな迷惑なときでも、小学生は元気に遊んだりするのだから、子供というのは不思議なものだ。
そんなことをぼんやり考えながら、神山彬(福岡県立沼川第一中学校3年1組男子5番)は、窓の外に向けていた視線を家の中へと戻す。見慣れた部屋に、誰もいない空間。耳には雨音が届いている。すっかり慣れてしまったこの変わり映えしない世界に、今いるのは自分だけ。
小さい頃から多忙を極める両親(父はどこかの会社の重役、母は看護師)は、家にいないことが多い。そのため、彬はいわば“鍵っ子”というやつで、いつも家に一人でいた。幼稚園のときこそ、寂しさのあまりに母親にすがってしまったことがあるが、さすがにもうそんなことを言う歳ではなくなったので、今ではおとなしく留守番をしている。そのおかげか、家事は一通りこなせるし、一人でいることにも慣れてしまった。
これが部活にでも所属していれば、また違っていたのだろうが、あいにく彬は、どの部活にも入ってはいない。毎日放課後、部活で縛られるなんてごめんだった。運動部特有の暑苦しい空気も苦手だし、文化部の少しなかり閉鎖した雰因気も苦手だ。特に突出した能力があるわけでもない彬が、勧誘されるなどということもなかったので、入学してから今まで、学校が終わればまっすぐ家に帰っている。友達もいない彬にとって、こんな生活が当たり前だった。
家に帰れば、いつも思うことがある。それは、いつか交わした約束のこと。
『いつか、必ず連れてくるから。』
そう”姉さん”に宣言してから、もうどれだけの月日が流れたのだろう。あのとき交わした約束は、今だに果たせていない。今日も、昨日も、一昨日も、“彼女”に言うことはできなかった。言えばきっと、“彼女”は“姉さん”に会いに来てくれる。それが分かっているのに、今だにこうしてうだうだしているのは、単に自分に言い出す勇気がないだけ。
――いつになったら…言えるのだろう?
ピンポーン
そんな思考を遮るかのような、インターホンの音。少しだけ顔をしかめながらも、彬はその場を動こうとはしなかった。父親の立場故か、妙な輩が家を訪ねてくることも少なくない。そのせいか小さい頃から、『むやみにインターホンに出ないように。』と言い含められてきた。彬にとっては、わざわざ玄関に行くのが億劫なだけなのだが。
ピンポーン
しつこいなと思いながらも、その場を動かない。二回鳴らす輩もいるからだ。
ピンポーン
――んだよっ!メンドくせぇな!
さすがに三回目となると、インターホンの音の方が迷惑だ。大変重い腰をあげ、玄関へと向かうことにした。
二階にある自分の部屋を出て、すぐに目につくのは右手にある上へ上がる階段と、それに隣接する下へ降りる階段だ。この家は三階立てなので、上へ上がる階段も、下へ降りる階段も存在する。三階には両親の寝室があるのだが、それぞれ別々に部屋がある状態だ。そんな右手にある階段には目もくれず、隣接している階段を使って、ゆっくりと下へと降りていく。
雨は今だに降り続いている。その雨音は、ずっと耳に届いている。ゆっくりと階段を降りていく間も、その音は止まず、同じ調子でリズミカルな音を立てる。雨は嫌いだが、その音は嫌いではなかった。
玄関にある重厚な作りのドアにある、スコープから外をのぞきみる。玄関から一直線上にある門の前に、一人の人物がいるのが分かった。
最初に目に入ったのは、黒い服だった。スーツかと思ったが、その割にはネクタイを締めていないし、白の面積が少なすぎる。学生服だろうと気づいたときには、彬は目を見開いていた。
雨が降っているにもかかわらず、傘を差していないその人物。彬の目に狂いがなければ、それはクラスメイトだった。至って普通の体格に、短い髪。彬とさほど変わらない背丈の人物。
雨に打たれているそのクラスメイトは、同じ修学旅行の班になっていた若山聡(同男子21番)だった。
聡は、きょろきょろと辺りを見回している様子だった。端から見たら、泥棒に間違えられそうなくらい挙動不審だ。なぜ聡が彬の家を知っているのかをさておいても、目的が彬本人であることは明白だ。ただ、大して親しくもない聡が、なぜわざわざ学校が終わってから家に訪ねてきているのか。その理由は、まったくと言っていいほど思い当たらなかった。
このまま無視してやろうかとも思ったが、雨に打たれている聡が少しばかり不憫にも思えたので、とりあえず出て行くことにした。なぜ訪ねてきたのか――そのことにも、少しばかり興味があったので。
彬の背丈より大分高いドアを両手で押して開ける。右腕に二本の傘を持って、外へ出る。雨の日特有の湿っぽい匂いが鼻につき、雨が地面を打つ音がより一層耳に入っていた。
玄関から門までの間。距離にしたら三メートルくらいだろうか。その先には、確かに若山聡が立っていた。彬の姿を見つけるやいなや、たちまち眉を潜める。
「居るんだったら、さっさと出てこいよ。」
あまり聞いたことのない声。普段の声とは少し違う、不愉快さを隠さない声。それを意に介さず、傘を差して聡の元へと歩み寄る。
「何の用だよ。」
言いたいことを簡潔に述べる。聡の不機嫌であることなど、彬にとっては関係のないことだし、そっちが勝手に来たのだから、謝る筋もない。それより、こんな雨の日に、しかも傘も差さずに来た聡の行動の真意の方が重要だった。
「忘れ物。」
先ほどと同じ調子で、聡はこう答える。しかし、彬にはまったく思い当たる節がなかった。
「忘れ物?そんなのした覚え…」
「いいからさ、とっとと中に入れてくんねぇ?さすがにこれ以上濡れんのやだし。」
なんでお前を家に上げなくちゃいけないんだ。さっさと帰れと言いたいところだったが、さすがにそれはひどいかと思い、とりあえず門を開けた。聡の言う”忘れ物”が何なのか、それも気になっていたので。
三メートルほどの道を歩き、玄関の戸を開ける。相変わらず、この扉は少々重い。自身が非力なだけかもしれないが、何とかならないものかと場違いなことを考えていた。
「忘れ物って何だよ。」
玄関の戸を閉めるやいなや、聡にこう問いただす。すると聡は、おもむろに学校指定の鞄を開け、中から一枚の書類を取り出した。そして、無言で彬の方へと差し出す。その一枚の紙切れには、こう書かれてあった。
“三者面談のお知らせ”
「忘れ物って…これかよ?」
こんな紙切れ一枚のために、聡はずぶぬれになりながらここまで来たというのか。
「こういうのは、早いほうがいいから。」
そんな彬の気持ちなどおかまいなく、聡は右手に取った紙切れを彬の胸元に押しつける。
「…いらねぇよ。」
その手を押し返しながら、低い声でそう告げた。こんなもの、いらない。必要ない。意味がない。
「いらないことはないだろ。俺ら、もう中三だぞ。日程とか早めに言わないと、親の仕事の都合とか…」
「いらねぇって言ってんだろ!!」
柄にもなく大声で、聡の言葉を拒絶する。その声は、あまりに広いこの家では、やけに大きく反響した。
「来たことねぇよ。今まで一回も。」
小学生のときだって、幼稚園のときだって、親がくるような行事には、一度だって顔を出したことがない。何回後ろを振り向いても、何回廊下を覗いてみても、両親の姿があったことはない。三者面談とか、そんな大事な行事にすら、自分の都合で勝手に日程決めるくらいなのだ(一度だけだが、電話で済まされたことがあるくらいなのだから)。
「だからいらねぇんだよ。言ったって、どうせ無駄なんだから。」
言ってもどうせ来ない。言っても、その日程以外で予定を組んでしまう。それがわかりきっているから、もう言わないことにしたのだ。言って、来れないと分かって、それで失望するよりは、始めから言わないでおいたほうがずっといい。
「そんなの、わかんねぇだろ。」
そんな彬の言葉に、聡は至って冷静に切り返していた。反論しようと思ったが、その前に聡が続きを口にするほうが早かった。
「今まで来なくても、次はくるかもしれないだろ。親だってさ、本当は行きたいんだよ。けどさ、やっぱ仕事の都合とかあって、それで来れなかったりするんだよ。でもさ、心の中で、“次こそは”とか、思っているんだよ。」
――そんなの、綺麗ごとじゃないか。
「少なくとも、俺の親はそうだよ。」
――お前の親はそうかもしれないけど、俺の親は違うんだよ。
「それにさ、俺はこれを届けるためにここに来たんだ。お前が受け取ってくれなきゃ、俺がここに来た意味がなくなるだろ。お前が受け取った後どうしようが、正直俺の知ったこっちゃない。お前に渡す目的だけは果たしたからな。ちょっとでも俺をねぎらう気持ちがあるなら、せめてここは受け取れよ。」
そう言うなり、再び彬の胸元に“それ”を押しつける。先ほどよりも強い力で。
――そんなのお前の理屈じゃないか。なんでそんなこと言われなくちゃいけないんだよ。勝手に来て、勝手に押しつけて、あげく果てには説教かよ。知らねぇよ、お前の気持ちなんて。
腹の中では矢継ぎ早に文句を言っていたが、口では大きなため息を出すにとどめた。今更何を言っても、聡は主張を曲げないだろうし、彬が受け取るまでは本気で帰らないつもりだ。それが雰因気から容易に察せられた。
渋々といった感じで、“それ”を受け取る。聡が帰ったら即ゴミ箱行きだが、とにかく受け取ればこのやっかいなやりとりが終わる。
「用件は済んだろ。とっとと帰れ。」
「あとさ、傘貸してくんね?」
図々しいにもほどがあるだろう。そんな気持ちから、聡を睨みつける。けれど、そんな彬の視線にはおかまいなく、聡はさらっと続きを口にした。
「さすがにこれ以上濡れるわけにもいかねぇし。明日必ず返すからさ。なぁ、頼むよ。この通り!」
そう言うなり、両手を顔の前でパンッと合わせて、頭を下げていた。先ほどの図々しい態度とは一転、妙に低姿勢だ。
――お前が勝手に来たんだろ。お前がこれ以上濡れようが、俺の知ったこっちゃないんだけど。
このまま追い出してやろうかと思ったが、それもあまりに可哀想かと思い、傘を貸してやるかと思い直す。しかし、引っかかるところがあった。
「お前…明日どうすんだよ。学生服の予備とか持ってんのか?」
「え?あるわけないだろ。明日までに乾かなかったら、半乾きの状態で学校行くしかないな。」
彬は学生服を、一応予備として二つ持っている。けれど、大概の生徒は一着のみだろう(二着も買えるほど安い代物ではないのだ)。これで明日まで乾かなくて、聡が休む――もしくは半乾きの状態で来られたら、仲のいい横山広志(同男子19番)や霧崎礼司(同男子6番)に何事かと問いつめられるに違いない。特に、勘のいい広志にかかれば、あの土砂降りに打たれたことまで察することは明白だ。となると当然、その理由を聞く。聡の家が学校からどれくらいの距離かは知りはしないが、少なくとも学校が終わってから降るまでにはかなりのタイムラグがあった。ただでさえ、修学旅行で同じ班になってしまっている。面倒事は避けたい。
「…制服、貸してやろうか。」
彬の一言が意外だったのだろう。聡は目を丸くしながら「はっ?」と、心底不思議そうな表情をしていた。
「このまま帰って、明日休まれでもしたら、俺もなんか迷惑。横山とか霧崎に絡まれるのもメンドくせぇ。俺予備持ってるし、お前とは背丈あんま変わんないからサイズ合うだろ。ついでに服も貸してやる。ちょっとそこで待ってろ。用意してくるから。」
何か言おうとする聡を無視して、そのまま二階へ上がる。まったく、何で俺がこんなことを――そんなことを思いながらも、部屋へ入ればすぐに準備にとりかかる。
学生服の予備は、押入れの中にたたんでおいてあった。それを、手身近な袋に入れる。次に自分のタンスをあけ、まだ一回も来ていない服を抜粋し、一応変な組み合わせになっていないかをザッと確認してから、たたんで近くにおいておく。どこまで着替えればいいのか考えた挙げ句、下着はさすがに貸せないなと思い、服の上下と靴下までにとどめておく。まぁ下着まで濡れているなんてこともないだろう。一応後で聞いてはみるが。
――何やってんだか、俺は。
勝手に押し掛けてきた相手のために、決して安くはない制服を貸して、挙げ句の果てには替えの服まで貸そうとしている。普段なら絶対ここまでしないし、もちろん過去にしたこともない。やはり若山聡という人物は、短気な礼司よりも、割と面倒事を避けたがる広志よりも、彬にとっては扱いにくい存在だ。あの変な度胸の大きさは、何とかならないものだろうか。
あんまり待たせるのも文句を言われそうなので、学生服と替えの服を持って、さっさと玄関へ戻ることにする。組み合わせに文句を言うようであれば、そのときは本当に追い返してやろうと密かに決意する。
階段を降りると、聡は先ほどを同じ姿勢で立ったままだった。座ればよかったのに、妙なところ律儀なものである。
「ほら。」
聡の前に、着替えを差しだしてやる。しかし、聡はすぐには受け取らなかった。
「気持ちは有りがたいけど…いいよ。」
「何でだよ。せっかく人が…」
「いや、このまま着替えても意味ないし。」
そう言われて、やっと聡がずぶ濡れだということを認識する。短い髪からも指の先からも、ポタポタと滴が落ちていた。一体どれだけ雨に打たれたというのか。
「…ったく、しょうがねぇなぁ。」
渋々と言った感じで、着替えと制服をその場に置き、一階にある奥の浴室へと足を運ぶ。そこの棚から、一枚のバスタオルを取り出した。一枚くらい洗い物が増えても問題はないだろうし、両親は気づきもしないだろう。
「ほら。」
浴室から出たところで、聡に向かってタオルを放り投げる。そこで聡も、ようやくそれを受け取った。
「そこで着替えるのも何だから、ザッと拭いてから上がれば。そこ、使っていいから。」
そう言って、後ろの浴室をくいっと親指で指し示す。そして、自分は玄関の右手にあるダイニングへと歩いていく。
「いや…なんか悪いな…。ありがとな。」
本当に、先ほどまでの態度はどこへやら。妙に神妙な聡の言葉の返事はせずに、そのまま通りすぎてキッチンのあるダイニングへと入る。
――なんか調子狂う…
ダイニングの冷蔵庫を開ける。大きめの冷蔵庫には、彬が一人でも大丈夫なように、ある程度の食料は常に収められている。そこには彬の好物であるコーラ(元はアメリカの飲み物らしいが、第三国でも飲まれているらしく、そこから仕入れてきたものだ)も、いつもの場所にきちんと置かれてあった。
コーラを取り出す際、一本ではなく二本取りだそうとしている自分に気づき、慌てて元に戻す。
――本当に、何やってんだか。
ここ最近、聡は何かと話しかけてくる。それは三年になったとき、出席番号が並んでいた礼司だって同じことをしてきたが、数日返答しなかっただけでそれをしなくなった礼司とは違って、今だに聡はそれを止めない。どれだけ冷たくあしらっても、聡は彬に話しかけてくることを決して止めない。それどころか、こうやっておせっかいにも、忘れ物とやらを家まで届けにくる始末だ。
『彬くんのことを分かってくれる人、きっと現れるよ。』
いつか“姉さん”が言ってくれたことが蘇る。まさか――それが、聡だとでもいうのだろうか。
――そんな馬鹿な…
きっと今だけだ。修学旅行で同じ班だから、円満にしようと話しかけているだけだ。修学旅行が終われば、きっと話しかけることすらしなくなる。今までだって、友達とやらができたとしても、時が経てばみんな離れていく。それどころか、家柄で近づいてくるような輩もいたくらいなのだ。次第に面倒になってきて、今ではこうやって一人でいることが当たり前になっている。
そう、こんなに面倒なことも、きっと今だけ。
「あの〜、神山?」
背後から声を聞こえ、コーラを飲みつつ振り向く。着替え終わった聡がおずおずといった感じでこちらを見ていた。本当に、借りてきた猫のようなおとなしさだ。先ほどの図々しさとふてぶてしさはどこへやら。
「服、ありがとな。でさ、贅沢なこと言うようで悪いけど…。濡れた制服入れる袋…借りてもいい?」
前言撤回。やっぱりこいつは、図々しい。
「本当に贅沢な奴だな。」
もはや反論も面倒なので、近くにある袋を聡に投げてよこす。聡が慌てた様子で、それを受け取った。
「…これ、借りていいのかよ?有名ブランドの袋じゃん!」
「は?別にいいよ。ついでに言うと、返さなくていいから。」
「え?でも…」
「濡れた袋の使い道なんてないだろ。返された方が迷惑だ。」
彬の言葉に最もだと思ったのか、聡は頷きながらそれを受けとる。そして、再び浴室へと戻っていった。
コーラを、再びぐいっと流し込む。コーラの炭酸が、喉を直接刺激する感覚が心地いい。今度は全て飲み干してしまい、瓶の中は空になっていた。
――本当に…調子狂う…
空になった瓶を見つつ、深く息を吐く。
「あの〜神山…?」
ふいに聡の声が聞こえ、そちらを見やる。また何か言うかと思い黙っていたが、聡は一向に口を開こうとしない。
「んだよ。まだなんかあんのか?」
「いや、何かあるというか…。何もないというか…。」
ならじっと見るなよ。気持ち悪い。まるで親の機嫌を伺っている子供みたいだぞ。と心の中で呟く。
「なんもないなら帰れよ。玄関の脇に立ててある傘、適当に使っていいから。」
「あ、あぁ…ありがとう…。まぁ、帰るけどさ…。」
聡は何か言いたそうに、口をもごもごしている。さっきはあれだけ偉そうなことを言っておきながら、今更何を躊躇っているのか。
「言いたいことあるならさっさと言えよ。お前らしくもない。」
聡が妙に遠慮している姿なんて、礼司が穏やかにニコニコ笑う、もしくは広志が妙にハイテンションであることに匹敵するくらいあり得なくて、かつ気持ち悪い。
一瞬の沈黙の後、聡が少しばかり低い声でこう言った。
「なんでさ、神山っていつも不愛想なの?」
その思わぬ一言に、時が止まった。
「もっと周りと関わり持てば、家に一人でいなくてもよくなるんじゃねぇの?」
――…
「こうやってさ、俺のことも気遣えるんだから、悪い奴じゃないって分かるよ。もっと関わればさ、礼司や広志だって、きっとお前のこと受け入れてくれるのに、もったいないよ。」
――…
「お前、本当はいい奴なのに。」
――何を言っているんだ、こいつは。いい奴?俺が?
「…お前は馬鹿か。もしくは破滅的に節穴か。」
いい奴だなんて、今まで一回も言われたことなどないのに。たかが制服を貸したくらいで、たかが着替えを貸したくらいでいい奴なら、世の中悪い奴なんていなくなるではないか。
「これで馬鹿って言われるなら、俺は馬鹿でいいよ。」
あっけらかんと答える聡を見て、本当に馬鹿だと思った。
――お前のいい奴の基準は低すぎるだろ。というか、馬鹿と言われたことに関して怒るだろ。普通。
「…用件は済んだろ。とっとと帰れ。」
「へいへい、帰りますよ〜。」
オドケて見せる聡が、ダイニングの入り口から離れていく。やれやれ、やっと聡から解放される。慣れないことをしたせいか、妙な疲労感が押し寄せてくる。聡が玄関から出たら、鍵をかけてさっさと自分の部屋に戻ってゆっくりするにかぎ…
「神山ー!」
突然響いたあまりに大きい聡の声に、思わず舌打ちが出た。
「うるせぇ!まだなんかあんのかよ!」
「服ありがとー!また明日なー!」
彬が何か言う前に、聡は素早く玄関から出ていったようだ。重いドアが開く音と、地面を打つ雨の音が一瞬だけ大きく聞こえた後、バタンという音と共にシンとした静寂が訪れる。耳に届く雨の音は、心なしか大きくなったように感じた。
聡が出ていった途端、はぁと深くため息がこぼれる。そして持っているコーラを飲もうとしたとき、既に中身が空なことに気がついた。
――嵐のような奴だな。ホント…
まったくもって、若山聡という人間は分からない。説教したり、妙に低姿勢だったり、かと思えば図々しかったり、自分のことをいい奴だとか言ったり、普通の人なら怒るような場面でもケロッとしているような奴。少なくとも、彬が今まで出会った人間には、あんなタイプはいなかった。
だからだろうか。分からないのだ。どのように対処したらいいのか。聡のことを、彬は何も知らないのだから。
――あいつは、一体どんな風に生きてきたんだ?どんな家族に囲まれて、どんな人と関わって、どんな出来事が起こって、どんな…
いつのまにか聡のことを理解しようと考えている自分に気づき、思わず自嘲した。まったく、本当に調子が狂う。
玄関の鍵をかけていないことを思い出し、冷蔵庫からコーラを一本取り出し、栓を開けた後、ダイニングから出て行く。少しばかり濡れた玄関を見やり、靴を履いてドアの鍵をカチャリとかけた。
――あ、何で俺の家を知っていたか。聞くの忘れた。
この些細な出来事が起こったのは、彬と聡が所属する三年一組がプログラムに選ばれる――わずか一ヶ月前のことだった。
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