My precious children

1995年6月13日

 

 壁にかけられた時計が、ボーンボーンと静かに響いている。ふと顔を上げれば、時刻は午前零時を指していた。やけにうるさく感じるその音に、私は眉を潜める。いつも聞いている音なのに、今はなぜかひどく不快に聞こえた。

 日を超えた。“昨日”は終わって、“今日”が始まろうとしている。いや、“昨日”は、“昨日”にとっての“今日”に当たるのだろう。じゃあ“今日”も、“明日”には“昨日”になって、そのうち“過去”になっていくのだろうか。――そんなことをふと思った。

 机に伏せていた顔を上げる。“あれ”から、どれくらいの時間が経ったのだろうか。もう数時間は経過しているだろうか。そう、“あれ”が起こったのは――時計の針が午後九時を回ったくらいだっただろうか。玄関のチャイムが鳴って、急いで台所からそこへ向かって――それまでは、何事もない日常のはずだった。

 

『じゃあ、行ってくるから。あさってには帰ってくるよ』
『お土産買ってきなさいよ〜。高いお金払っているんだからね!』
『へいへい』

 

 三日ほど前に出掛けていた息子の姿。いつもと変わらない、成長期の男の子らしい背中。きっと、あの子が帰ってきたのだと思っていた。たくさんのお土産話と、家計から絞り出したなけなしのお金で買ったであろうお土産と共に。

 意気揚々と玄関の鍵を開けた。息子が帰ってきたと信じて疑わなかったから、最初は何が起こっているのか理解できなかった。 そこに立っているのが息子ではなく、黒いスーツに身を包んでいる大人の男性であることも。その胸元に、大東亜共和国の役員の象徴である桃色のバッジが光っていたことも、なぜかその男性の後ろにいる兵士の存在のことも――

 

『おめでとうございます。あなたの息子さんの所属するクラスが、このたびプログラムに選ばれました』

 

 状況が分からない私に向かって、大人の男性らしい低くて渋い声で、目の前の男性はそう告げる。その瞬間、頭をトンカチで殴られたような――いや、トンカチなんてものではない。もっと大きくて、もっと重くて、そう――殴られた瞬間、何も分からなくなる。そのくらいの衝撃が私を襲った。

 

『つきましては、ここに承諾のサインをお願いします』

 

 淡々とした口調でそう告げる男性に向かって、私は何も言えずにいた。いつもなら文句の一つも言えただろうに、つっかかることだってできただろうに、この時ばかりは頭が真っ白で、男性の言っていることも、自分がするべきことも、何もかもが分からなかった。

 

『どうかされましたか?』

 

 私が微動だにしないことに気付いたのか、男性が優しく声をかける。

 

『本当……ですか?』

 

 こじ開けるようにして口から出た言葉は、我ながら何とも間抜けな言葉だった。反抗するわけでもなく、承諾するわけでもなく、ただ確認するだけの言葉。否定してほしいという、かすかな願望が込められた言葉。

 

『はい。なので、ここにサインを』

 

 あっさりと肯定する男性は、再び同じ言葉を繰り返す。その瞬間、男性の後ろにいる兵士たちが動いていた。私が何かしたら、おそらく彼らは攻撃してくるのだろう。そう思わせるような素振りだった。この国の警察や兵士が民間人を射殺することは、何も珍しいことではない。

 

『あの……あの子は……もう帰ってはこないのですか……?』
『優勝すれば、帰ってこられますよ』

 

 だからサインをお願いします。そう言わんばかりに、私の目の前に書類を差し出す。それが最後の通告であるかのように、後ろの兵士たちが私に向かって何かを向けた。それは、おそらく銃なのだろうと。ぼんやりとした頭の中でも理解できた。

 そして何も分からないまま、私は書類にサインをした。目の前の男性を問いただして、中止してほしいと叫ぶこともできず、私はただ言われた通りのことしかできなかった。私がサインをした書類を、満面の笑みで受け取った男性はその後『では、失礼しました』と、丁寧に挨拶をしながら去っていった。最初から最後まで、私の頭の大部分は停止したままだった。

 それから、おそらくもう数時間以上は経過している。私の頭の大部分は、今だに停止したままだ。そんな中でも、少しずつ、ほんの少しずつ現実を呑み込んでいる。呑み込んでいくうちに、今度は激しく後悔の念に駆られた。承諾なんてしなければよかったのだと。

 

 息子は、プログラムに選ばれた。

 優勝しないかぎり、あの子は帰ってこない。

 優勝すれば、あの子は帰ってくる。ただし――他のクラスメイトの命を犠牲にして。

 

 ゼロではない。帰ってくる可能性も、もちろんある。あの子は特別秀でた子ではないけれど。成績も中くらいだし、運動神経も格段優れているわけではないけれど。それでも――ゼロではないのだ。

 

 私は、あの子にどうして欲しいのだろう?

 

 帰ってほしい。それは事実だ。愛するわが子に死んでほしいと願う親なんて、この世のどこにいるのだろうか。いつもは憎まれ口を叩くような息子だけど、反抗期とやらで最近干渉することを嫌がる息子だけど、それでも私にとっては自慢の息子なのだ。お腹を痛めて産んだ、可愛い我が子なのだ。

 

 帰ってきてほしい。できることなら、帰ってきてほしい。

 

 でも、だからといって、他のみんなを殺してまで帰ってきてほしいのだろうか。あの子には私という親がいるように、他の子にもそれぞれ親が存在する。ほとんどの親は、私と似たような気持ちを抱いているに違いない。その人達の気持ちを踏みにじって、我が子だけ帰ってきてほしいというのは、親の傲慢というものではないのだろうか。

 

 そう、分かっているのだ。でも、それでも、私は――

 

「ママ?」

 

 そんな考え事をしている私の耳に、女の子らしい高めの声が届いた。振り向けば、息子とは六つ離れた娘がいた。

 

「どうしたの? なんかママ、悲しい顔してる……」

 

 子供というのは、時に鋭い一面がある。そういえば私が体調が悪いとき、あの子はよく「母さん?なんか顔色悪いんじゃないのか?」と声をかけてくれることがあった。自分の子供ながら、私にはないものを持ち合わせているようだ。

 心配そうな表情で近づいてくる娘に、私は小さく頭を撫でてあげる。柔らかい髪の感触が、少しだけ気持ちを落ちつけてくれる。

 

「大丈夫よ。ごめん、起こした?」
「ううん。お兄ちゃんが帰ってくるまで、起きているって決めてるから。」

 

 ズキンと胸が痛む。気を抜けば流れそうに涙をこらえ、私は必死で笑う。気遣ってくれる娘に、これ以上の心配をかけないために。

 この子には、まだ何も伝えていない。まだプログラムのことすら習っていないこの子に、何から説明すればいいのだろう。いつもはハッキリ物事を告げる性分なのに、それをすることができずにいる。

 ありのままを伝えるには、この子はまだ幼すぎるのだ。

 

「今日は……ね……。なんか向こうで色々あって……まだ帰ってこれないみたい……よ……」

 

 つっかえながら出る言葉。完全な嘘ではない。向こうで何かとてつもないことがあったことは――事実だから。

 

「そうなの? なーんだ、せっかくお土産期待してたのにー」

 

 残念そうにそうぼやく娘を見て、また胸がズキンと痛む。まだ何も知らないこの子は、兄が帰ってくると信じているのだ。明日には帰ってきて、いつものように会話が出来ると信じているのだ。死んでしまうことなど、微塵も思っていないのだ。

 いつかは本当のことを言わなくてはいけない。生きて帰ってくるにしても、死んでしまったとしても――

 

 死ぬ……? あの子が死ぬの……?

 

 “死ぬ”、それは――いなくなること。二度と憎まれ口を叩かれることもなくなること。私の体調が悪くなっても、心配することもないということ。どんどん成長するわが子の姿を、二度と見られなくなるということ。私の作ったご飯を、腹いっぱいかきこむこともなくなること。

 

 死んでしまうの……? いなくなってしまうの……?

 

 脳裏浮かぶのは、最後に見た息子の姿。意気揚々と出ていく姿。プログラムに選ばれることなど、おそらく微塵も知らなかったであろういつもと変わらない――元気な姿。

 

 もう、帰ってこないの……?

 

 私は、あの子の出ていく姿をちゃんと見ただろうか。去っていく背中を、この目でちゃんと見ただろうか。私は普段から、あの子と真正面から向かい合ってきただろうか。あれが、最期になるかもしれないのに――

 

 もう……会えないの……?

 

 いなくなってしまうあの子の姿が脳裏に浮かぶ。去っていくわが子の姿がはっきりと浮かんでくる。その不吉な映像を消そうと、頭を左右に大きく振った。

 

 でも……でも……本当は……

 

 気づけば、私は無意識のうちに、去っていこうとする娘の腕を掴んでいた。

 

「ママ?」

 

 そんな私の行動に、娘は不思議そうな顔をしながらも立ち止まる。あどけないその表情に、また胸が締め付けられた。

 

 この子も、中学三年生になったら選ばれてしまうの? そうやって私の元からいなくなってしまうの?

 

 そんなの、そんなのは――

 

「ママ?」

 

 気づけば、私は娘を抱きしめていた。何も考えられずに、ただ娘を抱きしめていた。両腕に治まる幼い我が子を抱きしめながら、涙が止まらなかった。

 

「ママ? ママ? どうしたの?」

 

 そう問いかける娘の言葉に返事もできず、私はただ泣き続ける。息子がこの光景を見たら、「泣いたりするなんて、母さんらしくないんじゃないのー?」なんて言うに違いない。らしくないと思いながらも、涙を止められなかった。どうすればいいのか分からなかった。

 

 時計の音は鳴り終えている。静寂に包まれたこの部屋に、私のすすり泣く声だけが響いている。娘は何も言わずに、ただ私の両腕の中にいた。私の成すがままに、娘はこの腕の中にいた。その存在を確かめるかのように、私は一層強い力で娘を抱きしめた。

 帰ってきてほしい。できることなら、帰ってきてほしい。どんなことがあったにせよ、仮に他の子を殺してしまったにせよ、帰ってきてほしい。もう一度私の前に、元気な姿で現れてほしい。生きて、私のところに帰ってきてほしい。

 

 でも、心のどこかでは分かっている。

 

 あの子はきっともう――帰ってこないだろうと。

 

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 プログラムに選ばれた親の気持ちを書いてみよう、というところから出来た話です。名前は出していませんが、この人物が誰の親かというのはきちんと決めて書いています。ヒントは散りばめていますので、誰か予想してみて下さい。
 実は結構前から書いていたのですが、これを出そうかどうかをずっと悩んでいまして。二周年を迎えたことでえいっと出してみました。これで、少しは共感して頂けたのなら嬉しいですね。書きながら、私自身がけっこう泣いてました。
 プログラムは、選ばれた本人はもちろんですが、その家族にとっても衝撃ですよね。もし私がこの国に生まれて、自分の子供が選ばれてしまったら――と思うと、やはりゾッとするものがあります。

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