プロローグ〜ある少年の話〜

1994年 1月3日

 

 師走の忙しさを超え、新年を迎えた。年始のお参りといった、古くからの習わしも一段落した。多くの人間は、明日から始まる学校や会社のことを考え、束の間の休息を取っていることだろう。もしかしたら、明日から忙しくなるから、今のうちに家族サービスをしておこうと、奮闘している親もいるのかもしれない。

 

 それらを加味しても、今少年がいる空間は、あまりにも静かなものだった。

 

 物音どころか、人の気配すらほとんどない。今歩いているところにしても、一体いつ掃除したのであろうというくらい、隅に大きな埃が溜まっている状態だ。ここが、常に清潔さが求められる“病院”という場所であるせいか、いつも以上に気になってしまう。それとも――それだけここが、その病院から隔離されている、まったく別の空間だということなのだろうか。

 

 隅に溜まっている埃から目を逸らし、少年はそのまま歩き続ける。少年の向かう先には、一つの病室があった。その札には、会うべき人物の名前が記されている。間違えようもないとは思ったが、一度だけその名前を指でなぞって確認した後、静かにドアをノックした。

 

 コンコンと小さく二回。返事はない。もう一度ノックする。それでも、返事は聞こえてこない。

 

「入るよ」

 

 一言断りを入れ、ドアを開けた。引き戸になっているそのドアを、ゆっくりと横にスライドさせ、少年は初めてその病室の中を見る。一応容体については聞いていたし、ある程度覚悟はしていたけど、それでも中を見た瞬間、病室にいる人物が視界に入った瞬間、少年は言葉を失った。

 

 まるで人形であるかのように、その表情は“無”に近く、何の感情も映し出していない。今視界に入っているその人物がまとっている空気は、少年の記憶にあるどれにも当てはまらないほど、ひどく重々しく沈んだもの。この人は、こんなに感情が見えない表情をするような、こんな重々しい空気を持つような、そんな人物ではなかったはずだった。

 なぜなら、あまり人に心を開くことのない少年が、見舞いに来たいと思うほどの人物なのだから。家に不在がちな両親以上に信頼し、心の底から慕っていて、誰よりも大切に思っている人物が、こんなに息が止まるほどの重い空気をまとうはずがないのだから。

 

 一度だけ、声をかける。その人物は、返事もしない。たったそれだけでも、少年は今まで感じたことのない苦しみを覚える。胸が、痛いくらいに締め付けられる。

 

 いつもなら、必ず返事をしてくれるのに。

 いつもなら、必ず名前を呼んでくれるのに。

 いつもなら、明るい笑顔を見せてくれるのに。

 

 大声で名前を呼びたくなる衝動を抑え、静かに病室に入る。そのままその人物がいるベットの近くまで歩み寄った。近くにある椅子に腰かけ、今度は声をかけずに、じっとその人物を見つめる。その人物は上半身を起こしたまま、ただ窓の外を見つめていた。いや――もしかしたら、ただ視線をそちらに向けているだけで、その視界には何も映ってはいないのかもしれない。その空虚な瞳には、微動だにしないその人物の頭の中では、一体どんな映像が映し出されているのだろうか。

 

――何が……あったんだよ……。帰ってきてくれて嬉しいはずなのに……生きているのに……なんで素直に喜べないんだ……

 

 思わず、拳をギュッと握りしめる。あまりに強く握りしめたせいか、手のひらに痛みがはしり、指先に少しだけ血が滲んでしまっていた。それでも、行き場のない感情をどうしていいのか分からず、少年は拳を握り続ける。それだけでは押さえきれなくて、少年はさらに唇を噛みしめていた。

 もう二度と会えないと思った人が目の前にいて嬉しいはずなのに、姿形は会いたかった人物そのものなのに、なぜか悲しい気持ちになってしまう。全てを奪われて、中身がほとんど空っぽになって、まるで人形のように動かなくなってしまったのだから。今まで見せていた元気な姿も、いつもかけてくれる優しい言葉も、人格や感情も全て無くなってしまったのだから。あの悲惨な――プログラムという悪夢によって。

 

 その人物に、一体何があったのか。どうしてここまで変わってしまったのか。進んで人を殺すことなどしないその人物が、どのような過程を経て優勝まで至ったのか。

 そのときの少年は、まだ知らない。今このときに浮かぶ疑問の答えを知るときが――永遠に訪れないことを。

 

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