小さなボタンのかけ違い

 

「ま、学ちゃん……?」

 

 小野寺咲(女子4番)は、視線の先にいる冨澤学(男子12番)の姿を見て、驚愕していた。それは、小倉高明(男子3番)から助けてくれたという安堵感よりも、はるかに咲の心の中を占めていた。

 咲と学は、青奉小学校に通っていた頃から知っている、いわば幼馴染だ。男子が比較的苦手な咲にとって、緊張せずに話せる唯一の男子であり、弟のように可愛い存在。このクラスにおいて、薮内秋奈(女子17番)真田葉月(女子8番)の次に近い存在。それだけに、彼のことはそれなりに知っていたつもりだった。だからこそ、余計に信じられなかった。

 争い事が嫌いで、からかわれても反論しない。穏やかで優しい性格。剣道部に入ってからは、少しばかり逞しくなったものの、それでも小学生の頃からの温厚な性格は変わっていない。

 そんな学が、いくら咲を助けるためといえ、背後からいきなり人を殺すなんて。そんな残酷なことを、咄嗟とはいえ出来てしまうなんて。咲にとっては、それが何よりも信じられないことだった。

 

「咲ちゃん……。さっきの叫び声は、咲ちゃんだったんだね……」

 

 そんな咲の困惑など知る由もないのか、学はひどく――そう、いつも以上にひどく冷静な声で、ただそれだけを口にした。その間にも、咲の方へと歩み寄っていく。

 

「学ちゃん……。どうして……どうして撃ったりなんか……したの……?」

 

 混乱しているせいなのか、聞くべきかどうか悩む前に、思ったことを尋ねてしまった。けれど、それは学にとって気にすることではないらしく、すぐに答えは返ってきた。

 

「だって……これはプログラムだから。それに、咲ちゃんが言ったんじゃないか。助けて……って」

 

 歩みを止めることなく返ってきた言葉。淡々としていて、落ち着いていて、そして人としての温度を感じない言葉。こんなに学が怖いと感じたのは初めてだ。思わず、後ずさりしてしまいたくなる。逃げそうになる。

 しかし、助けてもらったのは事実だ。逃げるなど失礼だし、本来ならばお礼を言わなくてはいけない。けれど、咲の口は、それとは別のことを口にしていた。

 

「た、確かにそう言ったけど……。でも、プログラムだからって……。そんな理由で……?」
「立派な理由じゃない。だってこうしなきゃ、いつかは自分が死ぬんだよ。……ああ、撃ったのは小倉くんだったのか。後ろ姿だけじゃ分からなかったよ」

 

 学の言っていることは、プログラムのルールにおいては、至極真っ当な理由だ。けれど、それは自身の生存のみを目的とし、かつ人のしての感情を捨てて、初めて導き出される理由だ。咲はそれを受け入れられるほど、感情を捨てられてはいない。だから、学の言っていることが理解できない。

 学は、間違っている。そんな理由で、人を殺してはいけない。学と近い自分が、優しい彼を知っている自分が、それをきちんと教えなければ。正さなくては。そんな使命感からか、咲は学の言葉に対してこう反論していた。

 

「それは違うよ。どんな理由があるにせよ、人を殺しちゃダメなんだよ。確かに……私は助けてって言った。でも、それは殺してほしいって意味で言ったんじゃない。小倉くんを引き離してくれれば、それでよかったのに……」
「それを、僕にやってほしかったの? それを、僕ができたと思うの? できたとしても、それで丸く収まったの? 結局のところ、同じ結果になっただけじゃない? 咲ちゃんの言っていることは、所詮きれいごとにすぎないんだよ」

 

 突き放すような言葉に、咲は何も言えなかった。確かに、非力な学に、高明を引き剥がせた可能性は低い。仮にできたとしても、高明が素直に引き下がりはしなかっただろう。むしろ学を殺そうとするかもしれない。そうなってしまえば、この結末は変わらなかったかもしれない。むしろ、学が死ぬという、もっと悲惨な結末になった可能性だってある。

 それでも、学にそんなことを言ってほしくはなかった。そんなことができるような、残酷な人間になってほしくなかった。きれいごとだと言われても、それを貫いてほしかった。

 

「咲ちゃん」

 

 いつのまにかすぐ近くにまで来ていた学が、咲に視線を合わせるかのように目の前に座っていた。右手に持っていた銃を、咲からは見えない背中に差しながら。

 

「咲ちゃんは、僕がなんでこんなことするんだ、とか思っているんでしょ。非力で、人にからかわれても何もしない弱い僕が、人を殺すなんてできっこないって、思っているんでしょ。でもさ、咲ちゃんが僕の何を知っているの? 小学校からの知り合いだから? それなりに会話するから? それって、咲ちゃんが勝手に知った気になっているだけじゃないの?」

 

 違う、そんなことはない。そう言いたかった。だって、学は優しい子だから。優しいから、もめごとは避けるだけなのだと。それは弱さではないのだと。少なくとも自分は、そんなことを思ったことは一度もないのだと。

 

 けれど、なぜか口にする前に、腹部に鈍い痛みを感じた。何か悪いものでも食べたかな。場違いにもそう思ったが、続いておとずれる強烈な痛みと、生温かい液体が流れる感覚。痛みの元へと視線を動かせば、そこには自分の腹にくいこんだナイフがあった。それを持っているのが学で、そして彼に刺されたんだと、はっきりそう認識したのはすぐのことだった。

 どうして――そんな疑問が浮かぶ間もなく、学はこう続けていた。

 

「それに……僕はずっと嫌だったんだ。“学ちゃん”って呼ばれること……」

 

 刺されていないはずの心臓が、ズキンと音を立てて痛んだ。なぜだろう、ここは刺されていないはずなのに。刺されたところよりもズキズキと痛んでしまうのは、どうしてだろう。

 

「咲ちゃんは僕のこと、弟代わりとして見てたでしょ……? 自分にはお兄さんしかいないから、下の兄弟に憧れていたんでしょ……? だから僕のこと弟扱いして、自分の自尊心を満たしていたんだよね? 僕みたいに同い年でも年下っぽく見える人間は、弟代わりの格好の相手だった?」
「ち、違うよ……! そんなことはッ……!」
「何が違うんだよ! 弟扱いしたことはないって、僕の目を見て、はっきりそう否定できるのッ?!」

 

 言葉につまった。まぎれもなく、学の言っていることは本当だからだ。確かに、咲には歳の離れた兄が一人。弟や妹はいない。だから、弟や妹がいる人が羨ましかった。自分もそんな存在が欲しかった。学をそんな風に見たことも、それが大きく関わっている。いや、弟代わりとして見ていたことは、否定することのできない事実だ。

 

「僕だって……男だ。同級生の女の子に、いつまでも弟扱いされて……嬉しいわけがない……! ずっと対等に見てほしかったッ……! 同い年の男として、他のみんなと同じように!」

 

 顔を上げれば、目の前の学が泣いている。久しぶりに見る、彼の泣いた顔。いつ以来だろう。人の前で、学がこんなに泣くのは。どんなにからかわれても、どんなに意地悪されても、小学校以来泣いたところは見ていないはずなのに。

 その表情を見た瞬間、また胸がズキンと大きく痛んだ。

 

「でも……もういいんだ……。もう……そんなことどうだって……。だって……」

 

 だってもう、その相手を殺すのだから。もう二度と、そんな風に呼ばれることもないのだから。

 

 ああ、そうなのか。学の本心が分かった途端、なぜか死ぬことへの恐怖や、殺されることへの怒りは湧いてこなかった。代わりに生まれたのは、ただ純粋な後悔と、学に対する謝罪の気持ち。

 

――ああ、そうだったんだ……。私、ずっと学ちゃんのこと……傷つけていたんだ……。

 

 咲の目からも、涙がこぼれていた。これは、先ほどとは違う涙。恐怖や嫌悪感からくるものではなく、後悔や謝罪からくる涙。

 なんて馬鹿なのだろう。ずっと一緒だったのに。ずっと近くにいたはずなのに。こんなことにも気付かないなんて。

 

――違う、そうじゃない。

 

 一緒ではなかった。近くになどいなかった。こんなことすら気づかないほど、遠いところにいた。学が涙を流してしまうほど辛いことにも、まったく気付けないくらいの距離にいた。そんな距離が生まれたのは、まぎれもなく咲のせいだ。何が幼馴染だ。何がクラスの中では近い存在だ。

 刺された痛みよりも、心の方が痛かった。この痛みを、学は何年も抱えていたのだ。それも知らず、知ろうともせず、無邪気に話しかけてくる咲は、学にとって誰よりも憎い存在だっただろう。

 なら、ここで学に殺されるのは、せめてもの贖罪で、ある意味必然なのだろう。学がもう辛い思いをしないためにも。そして――学が生きて戻るためにも。

 

「そっか……。ずっと私……傷つけてきたんだね……」

 

 死が近づいているせいなのか、刺されたところが痛むせいなのか、うまく話すことができない。それでも、咲は必死で謝罪の言葉を口にしていた。

 

「ごめん……ね。ごめんね……。私、ひどいこと……してきたんだね」

 

 身体が重い。自分で自分を支えられない。けれど、学にこの身を預けてしまえば、彼の服を汚してしまう。必死で口を動かしながらも、咲は自身の身体を、かろうじて力の入る両腕で支えていた。

 

「そう……だよね。私だって……もっと上に見られたいって……思っていたもん。馬鹿だよね……。年下に見られることが、どんなに嫌か……知っていたはずなのに……」

 

 視界がかすむ。意識が途切れ始める。呼吸もままならない。それでも、咲は必死で謝り続けていた。

 

「ごめん……ごめんね……。まな――」

 

 学の名前を口にしようとして、思いとどまった。嫌だと言っている呼び方を、またしてしまうところだったから。

 でも、なんて呼んだらいいのだろう。思えば、出会ってから今まで、ずっと同じ呼び方をしてきた。それが嫌だと言われた今、どんな呼び方なら、彼を傷つけずにすむのだろう。

 

 “学ちゃん”なんて、もう言えない。けれど、“学”なんていう呼び捨ても、何か違う。

 

 意識が朦朧とする中、咲が出した答えは、あまりに素っ気なくて、あまりに他人行儀で、あまりに単純なものだった。けれど、これ以上の答えは浮かばなかった。

 だから、せめて優しく呼ぼう。彼が、罪の意識を感じることのないように。

 

「ごめん……ね……。本当に……ごめんね……。……冨澤……くん……」

 

 支えていたはずの両腕に力が入らなくなり、身体が地面へとすいこまれるように倒れていく。咲の意に反して、目の前にいる学の方へと。

 学が思わずナイフから手を離し、その身体を支えたときには、咲の呼吸は止まっており――心臓も完全に停止していた。

 

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「なんで……」

 

 たった今死んだ小野寺咲(女子4番)の身体を支えながら、冨澤学(男子12番)はそう呟いていた。

 

「なんで僕のこと……責めなかったの……?」

 

 頬から伝う、温かい涙。手から伝わる、冷たくなっていく体温。時が経つほどに理解していく、今のこの状況。一言では到底言い表せない、泣かずにはいられない――ぐるぐると絡まった複雑な気持ち。

 

「ねぇ……答えてよ……! 僕は、咲ちゃんのこと刺したんだよ! 殺したんだよ! 自分勝手な理由で! 咲ちゃんは何もしなかったのにッ! ねぇ! どうして!」

 

 答えはない。当然だ。だってもう、咲は死んだ。他でもない、学自身が殺した。生きて帰るために。ここで死なないために。

 

 五十嵐篤(男子2番)を殺したとき、決めたはずだった。もう躊躇わないと。相手が誰であろうと、容赦なくやると。だからこそ、相手が誰かも分からないまま、背後から撃つこともできた。その相手が小倉高明(男子3番)であるということも、咲が高明に襲われているということも、叫び声の主が咲だということも、全て撃った後で気づいたことだ。そして生き残るためには、高明だけでなく咲も殺さなくてはいけない。だから、近づいたときからそのつもりだった。

 それに、咲に言ったことは全て本当だ。ずっと、弟扱いされることが嫌だった。何度も言おうと思った。けれど、言えなかった。それは、咲が悪意を持ってそう呼んでいるのではないと知っていたから。むしろ好意的に、親しみをこめて呼んでいるのだと分かっていたから。たとえそれが、学の望まない感情から来るものだったとしても。

 

「僕は責められるつもりで……嫌われるつもりで言ったのに……! むしろそう言ってくれれば、こんなに心が痛むこともなかったのにッ……! 躊躇なく止めを刺すことだってできたのにッ……! なんで、なんで咲ちゃんは……」

 

 本当は分かっていた。言えば、咲は素直にそれを聞き入れ、そう呼ぶことを止めてくれただろうと。それを責めることもなく、呼び方は変わっても、きっと咲は学のことを受け入れてくれただろうと。たとえ、少しばかり距離が変わったとしても。

 言えなかったのは、単に自分に勇気がなかっただけのこと。そして心のどこかで、咲に甘えていたからだ。いつかは、その呼び方を止めてくれると。何も言わなくても、咲なら分かってくれると。馬鹿な話だ。何も言わないのに、心の中で思っていることが相手に伝わるわけがない。

 

『ごめん……ね……。本当に……ごめんね……』

 

 咲は、最期まで謝っていた。けれど、本来謝らなくてはいけないのは自分の方なのだ。自分が言えば済むはずだったことを責め、身勝手な理由で咲の命を奪った。殺すための言い訳を作って、自分はさも被害者であるかのように。死にたくない――全てはただその一心だけで。

 

――謝るのは僕の方なのにッ……! もう躊躇わないって誓ったのにッ……! なんで……僕は……こんなに……

 

 もう躊躇わないと誓ったはずだった。なのに、今でもこんなに気持ちが揺れ動いている。高明を殺したことには何の後悔もない。けれど咲を殺したことだけは、まるでナイフで刺されたかのような痛みが、ずっと心臓のあたりに渦巻いている。

 

「咲ちゃん、ごめんね……。本当は、分かっているんだよ……。咲ちゃんの言っていることが正しくて、僕が間違っていることは……。でもね、僕は、それでも死にたくないんだ……。ごめんね……。本当にごめんね……」 

 

 誰にも届かない謝罪の言葉を口にしながら、学はしばらくそうしていた。もちろん、すぐにその場を離れなくてはいけないことは分かっている。それでも、そうせずにはいられなかった。せめてもの懺悔なのか、離れたくないという甘えなのか。それすらも分からないまま、ただそうしていた。

 そして、耳にカサッというかすかな足音が届く。足音は、どんどんこちらの方へと近づいてくる。この現場を見て、なおも来るということは、少なくとも仲間を作ろうという優しい人ではないだろう。やる気の人間なのだろうか。それとも、学にとって近しい人なのだろうか。刺されるまで説得しようとしてくれた、咲のように。

 ゆっくりと顔を上げ、その方向へと視線を向ける。先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、一人の少女が立っていた。

 

「橘……さん……」

 

 涙で滲むその視界に映っていたのは、同じ出席番号である橘亜美(女子12番)。女子とほとんど会話をしない学にとって、その中でも比較的関わりのある人物だった。

 

女子4番 小野寺 咲 死亡

[残り17人]

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