悪魔の手

 

「ハァハァ……!」

 

 放送からまだ一時間も経過していない頃。一人の少女は、ある者の魔の手から逃れようと、必死に走り続けていた。

 

――なんで……! どうしてよりによって、あの人に見つかっちゃうの……?!

 

 その少女――小野寺咲(女子4番)は、時折後ろを振り返りながらも、ただ走り続けていた。まだ姿の見えるその人物から、どうしたら逃れられるか、頭の中で必死に考えながら。

 相手がやる気かどうかなど関係ない。やる気ではないかもしれないが、この際そんなことはどうでもいい。なぜなら、相手がどのような立場であろうと、咲にとっては害のある人物であることは確かだからだ。

 

「おいっ!! なんで逃げるんだよ!」

 

 相手も、咲に負けず劣らずの必死さで、こちらに向かって走ってくる。その声色に、懇願よりも苛立ちが滲み出ているのは、咲の思い過ごしではないだろう。

 

――捕まったら、何をされるか分かったもんじゃない! 絶対に逃げ切らなきゃ!!

 

 こんなのあんまりだ――。走りながら、心の中で己の運の悪さを嘆いた。いくらなんでも、一番会いたくない人に会うなんて。

 

 出発したときは、学校近くのどこかに隠れて、後から出てくる仲のいい籔内秋奈(女子17番)真田葉月(女子8番)とうまく合流するつもりだった。しかし、校門近くにあった曽根みなみ(女子10番)の遺体に驚いて逃げてしまい、二人を待つことができなかった。その後、待たなかったことを後悔し、禁止エリアに引っかからないように二人を探し続けていた。特に、秋奈は今日体調が悪かった上に、いつも持ち歩いている薬も忘れてしまったと聞いていたため、なおさら心配だった。できれば、東堂あかね(女子14番)のように信頼できる人に会えたらいいなと、そんなことを思ってもいた。

 そうやって探している間に、プログラムはどんどん進んでいた。幸いにも、まだ仲のいい二人は呼ばれていない。けれど、人数はもう半分近くにまで減ってしまっている。いつ、秋奈や葉月が殺されるか分からない。だからこそ、危険を承知で移動を続けていた。

 そんなことをしていれば、積極的にプログラムに乗っている人に見つかるかもしれない。そのことは覚悟していた。あの人に見つかるかもしれないと、心の片隅では分かっていたのかもしれない。けれど、まさか一番最初に出会う人物が、このクラスで最も会いたくないあの人だとは。いくらなんでも運がなさすぎるだろうと、神様に恨み言の一つも言いたくなった。

 

「待てって! 俺は、別に殺すつもりなんて……」
「嫌ぁ! 来ないでよ!!」

 

 大声はダメだ――。そうと分かっていても、叫ばずにはいられない。それほどまでに、咲は追いつめられていた。

 足がもつれる。呼吸困難に陥るほどに息切れをしている。このままでは、いずれ追いつかれてしまう。咲の力や支給武器では、相手に対抗することもできない。そうなってしまえば、おそらく殺されてしまうか、そうでなくても咲にとって恐ろしいことになるだろう。そうなる前に誰か――この際やる気の人間でもいい。この状況をどうにかしてくれるのならば――

 

「……いいかげんにしろよ! この女ぁ!!」

 

 いきなり大きくなっていく足音。焦る間もなく怒号が聞こえたのと同時に、後ろから押されたかのような衝撃。その勢いのまま、前のめりに倒れてしまう。相手に突き飛ばされたのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。

 

「こっちが優しくしてりゃ、いい気になりやがって!!」

 

 先ほどとは違う、苛立ちを露わにした声。反射的に身体が萎縮してしまう。恐怖という名の感情が、咲の身体を蝕んでいく。

 

「……あぁ、ごめんな。怒鳴ったりして。でも、小野寺さんが悪いんだぞ。俺は殺す気ないって言っているのに、逃げたりするから」

 

 咲の反応で怖がっているのと察したのか、先ほどとは違う猫撫で声でそう告げる相手――小倉高明(男子3番)は、息を切らしながら、こちらの方へと近づいていく。

 恐怖で腰を抜かしてしまったせいなのか。うつ伏せから座った状態に体勢を変えることはできたものの、咲は立ち上がることができずにいた。早く。早くここから逃げなくては。高明から逃げなくては。頭ではそれが分かっているのに、身体がまったくいうことを聞いてくれない。

 

「どこかぶつけたのか? 可哀想に。痛いだろう?」

 

 咲が立ち上がれないのを、どこかぶつけたからと勘違いしたのか。高明がこちらの方へ手を差し伸べる。もちろん、その手を取るようなことはしない。高明から距離を取りつつ、咲は何とか立ち上がろうとしていた。そんな咲の行動を察したのだろう。高明は大股でこちらへと近づき、こう口にしていた。

 

「ああ……いいよ。無理して立たなくて。俺は別にここでもかまわないし。まぁそれに――」

 

 そう言いかけたと思った瞬間、上からの重力が増した。そのまま、仰向けに押し倒されてしまう。その重力に逆らおうとしたが、両腕を強く抑えつけられてしまい、それは簡単に阻止されてしまう。

 

「このままの方が都合がいいし……」

 

 吐息がかかるほどの距離。咲の眼前に、高明の顔があった。その瞳に、ギラギラした狂気を滲ませながら。

 

「……ッ! 離して……ッ! 離してよ!!」
「ああ、そんなに抵抗しないで。怪我なんかさせたくないんだ。怖がらなくても大丈夫。俺も初めてだし、優しくするからさ」

 

 抵抗する咲をなだめるかのように、高明は優しくそう告げる。その声色はねっとりとしていて、全身から鳥肌が立つほどの不快感を味わう。言っている内容は優しい。だが、狂気を滲ませながらそんなことを言われても、“大丈夫”だなんて思えるはずがない。

 咲も中学生だ。世間で言われる常識や知識は一通り身につけている。今、高明が何をしようとしているのか。分からないほど子供ではない。だからこそ、必死で高明から逃れようと暴れていた。

 

「嫌ッ!! 離して!! どっか行ってよ!!」
「……暴れるなって言ってんだろ!!」

 

 眼前の表情が変化したと思った途端、鼓膜が破れそうなほど怒号が響く。それで、また咲の身体は委縮する。それを見た瞬間、怒りの形相だった高明の表情がまた変わった。それは、気持ち悪いほどの満面の笑み。

 

「そうだよ。そうした方がいい。誰かに見つかったら、俺たちあっという間に殺されるから。せめて終わるまでは、死にたくないだろう?」

 

 優しい声。優しい言葉。けれど、その腹の中にはどす黒いものが渦巻いている。気遣う素振りを見せているが、本心では自分の都合のいいように事を進めようとしている。咲の気持ちなど、微塵も考えずに。

 

「なぁ、俺さ。小野寺さんこと、ずっと前から好きだったんだ」

 

 告白しているせいなのか、嫌悪感すら覚えるほどの甘い声で高明はそう言った。そんな自分に酔っているのか、咲の返事など待つ間もなく、すらすらと続きを口にする。

 

「小野寺さん可愛いし、俺の好みの顔だしさ。でも、ずっと言えなかったんだ。ほら、小野寺さん。いつも薮内や真田と一緒だっただろ? 先生に頼まれることも多かったみたいだし、上手く言うタイミングが掴めなくてさ」

 

 高明の言うことは、正しかった。なぜなら、部活や先生への用事、葉月の所属している女子テニス部への応援と称して、咲は高明のことを徹底的に避けていたのだから。ストーカーとまでは言わないが、高明は何かにつけて咲に話しかけ、時には馴れ馴れしく肩に手を置いたりして身体的接触を図ろうとした。そんな高明と二人きりとなることだけはゴメンだった。怖かった。

 高明は粗暴で口も悪く、二年時からクラス内で問題児として扱われている。妹尾竜太(男子10番)のように暴力を振るうことは少なかったものの、八木秀哉(男子16番)を顎で使うし、咲の幼馴染である冨澤学(男子12番)のこともからかったりする。しかも、こちらが耳を塞ぎたくなるような話題を、わざとなのかと思うほどの大声で話す。そんな人間が仮に普通に告白してきたとして、それをこちらが普通に断ったところで、あっさりと引き下がるわけがない。

 

「正直さ、プログラムに選ばれたって分かったとき怖かったんだ。竜太もすぐ死んじまうしさ。でもさ、逆に考えたんだよ。ここでは、何をやっても許される。偉そうに説教する教師も親もいねぇ。どうせ死ぬなら、最後くらい好きなことやってやろうって」

 

 そこまで言った途端、高明はわざわざ咲の耳元まで顔を近づけて、最後にこう囁いていた。

 

「なぁ、どうせどっちか、もしくは二人とも死ぬんだぜ。最後くらい、いい思いしたいだろう?」

 

 鳥肌と嫌悪感、そして恐怖が身体中をかけめぐる。高明の魔の手から逃れようと、拘束されていない足をバタバタ動かす。しかし、ここは男女の差。そして、咲は放送部という文化部、高明は仮にも水泳部という運動部。力づくで逃れられる可能性は、限りなくゼロに等しかった。

 

「止めてよッ! 私は、あんたのことなんか大ッ嫌いなのッ!! お願いだから、早くどっか行ってよッ! 私、秋奈や葉月を探さなきゃいけないの!!」
「大丈夫、何も怖くないって。俺、こういうことには詳しいから」

 

 咲の抗議の言葉を無視し、高明は事を進めようとする。何とか拘束から逃れようと、足だけでなく、手も必死で動かしていた。しかし、高明はまったくそれを意に介さない。今度は怒号を発することなく、咲の身体に集中している。

 

「嫌ッ!! 離して!! 触らないでよッ!!」

 

 悦に浸っているのか、咲の抗議の声も、高明の耳には届かない。それでも何とかしようと手を、足を、ジタバタと動かす。けれど、そこは男の力なのか、高明はビクともしない。そんな必死の抵抗も空しく、咲の体力の方が限界に近付いていた。ジタバタと動かしていた足も、少しずつその動きが緩慢になっていく。

 

――嫌だッ……! こんな……死ぬよりもひどいことされるなんて……!

 

 目の前の顔を見たくなくて、咲はギュッと目を閉じた。こみあげる涙が、目じりからこめかみを伝って地面へと流れ落ちる。何も考えないように、意識を現実から引き離す。その脳裏に浮かぶのは、少しだけ気になる彼の存在。

 

『小野寺さん、顔色悪いけど大丈夫? 日誌は俺がやっとくから、今日はもう帰りなよ』

 

 優しくて、いつも頼れる彼。背も高くて、お兄さんみたいな存在。彼は、間違ってもこんなことはしない。相手が嫌がることは、どんな状況であっても絶対にしない。もうすぐ死ぬからという理由で、高明のように襲ったりしない。

 好きかどうかは分からない。どこかふわふわした気持ち。けれど、告白してくれたのが彼だったなら、少なくともこんな思いはしなくてすんだはずだった。嫌悪感ではなく、どこか幸福な気持ちを抱いたはずだった。そうでなくても、きっとこの場にいれば、高明を引き剥がしてでも助けてくれるだろう。

 

――嫌ッ……! お願い……助けて……!

 

 現実逃避をしたせいか、心の中で強く願っていたせいか、思ったことが自然と口から出ていた。一瞬高明が咲から顔を引くほどの、あらん限りの大声で。

 

「嫌ぁ、助けて!! 助けてッ!! ……加藤くんッ!!」

 

 パンッ

 

 叫んだ声と同時に、渇いた音が周囲に響く。そして、咲を抑えつけていた手の力が一瞬増したと思ったら、すぐに緩んでいた。少し遅れて、生温かいものがポタリと落ちてくる。頬に落ちたそれは、重力に従って地面へと流れて行く。

 思わず目を開ける。すると、何か大きなものが咲の方へと倒れてきていた。危険を感じ、反射的にそれを避ける。それはそのまま地面へ倒れ、ドサッと大きな音を立てた。それから物音一つ聞こえなくなり、周囲に静寂が訪れていた。

 倒れたのが高明であると認識したのは、それから数秒後のことだった。

 

――えっ……? まさか死んだの……? ど、どうして……?

 

 うまく状況が呑み込めずに、咲はただ高明の身体を凝視する。見れば、高明のうなじの部分に、小さな穴のようなものが一つ開いていた。その身体の下に、少しずつ赤い液体が広がっている。おそらく、背後から誰かに撃たれたのだ。

 

――だ、誰か助けてくれたの……? もしかして、加藤くん……?

 

 視界の端で、人影が動く。その人影は、こちらの方へと近づいてくる。咲を心配してくれているのか。咲に何か話しかけようとしているのか。それとも――咲も殺そうとしているのか。

 相手が誰であろうと、どんな意図があろうと、お礼を言わなくてはいけない。そんな気持ちから、咲は人影の方向へと、身体を向けていた。そうして視界に入る人物は、咲にとってただのクラスメイトではなかった。同じクラスになる前から、小学校のときから知っている人物。比較的男子と会話することの少ない咲にとって、気軽に話せる唯一無二の人物。そして、弟のような存在。

 

「ま、学ちゃん……?」

 

 冨澤学。銃を持った彼が、咲のわずか数メートル先に立っていた。

 

男子3番 小倉高明 死亡

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