靄のかかった未来

 

『あれ? 細谷、一人なのか?』

 

 あれは、いつかの日のこと。たまたま忘れ物を取りに教室に戻った、暑い夏の日のこと。広い教室に、たった一人で佇んでいた少女。いや、佇んでいたというよりは、不機嫌そうな顔で手を動かしていたといった方が正しいのか。

 

『……まあね』

 

 こちらの質問に対する返答は、何とも素っ気ないものだった。けれど、別に驚きも、不愉快に思ったりもしない。不機嫌でなくとも、彼女はいつもこんな感じだ。質問には端的に答え、決して愛想などふりまかない。歯に衣着せぬ言い方をし、一部の人間には少しばかり怖がられている。実際、友人も少しだけ苦手だと、以前に漏らしていたくらいだから。

 何気ない日常の、何気ない出来事。本当に偶然の、意図しない展開。もし、ここにいたのがただのクラスメイトだったなら、そのまま教室を去ったかもしれない。いや、そもそも最初に声すらかけていないだろう。まだ残っていたということに驚いたのは事実だが、反射的に声をかけた理由はただ一つ。そこにいる相手が、自分がほんの少し好意を寄せる、たった一人の女の子だったからに他ならない。

 

『何か……手伝おうか?』

 

 だから、自然とこんな言葉が出てくる。ほんの少しでも、君の助けになりたくて。ほんの少しでも、君に近づきたくて。ほんの少しでも、君に好印象を持たれたくて。いつもはしない気遣いなんてものを、咄嗟にやってしまうのだ。

 我ながら、何とも女々しい考えだな。なんて、自嘲したりもするのだけど。

 

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「細谷……」

 

 古賀雅史(男子5番)は、たった今息を引き取った彼女――細谷理香子(女子16番)の頬にそっと触れる。その身体は、まだ温かい。けれど、時が経てばその分、少しずつ冷たくなっていくのだろう。それが“死”というもので、いずれは皆がたどり着く終着点。

 

「痛かった……だろうに……」

 

 彼女の死に顔は思っていたよりも穏やかで、まるで眠っているかのようだった。腹部から流れる血がなければ、身体の至るところにある銃創がなければ、きっと誰もがそう思ってしまうほどに。どこか見とれるくらい、美しいと思ってしまうほどに。

 それでも、彼女は死んでいる。綺麗でありながら、どこか無機質な物に見えてしまうのは、きっとそこに命が宿っていないからなのだろう。

 

『古賀……くん……。あの……怪我は……』
『そう……よかった……』

 

 痛かっただろうに。苦しかっただろうに。最期まで彼女は、そんな素振り一つ見せなかった。ただ雅史の身を案じ、八木秀哉(男子16番)には気をつけろという警告を端的に伝えた。余計な事一つ言わず、泣き言一つ漏らさず。全ては、これから生きるであろう雅史のために。死にゆく自身のことなど、どうでもいいと言わんばかりに。

 どうして、ただのクラスメイトである雅史のために、そこまでできるのだろうか。どうして、こんなに穏やかな表情をしているのか。雅史には分からない。誰かに看取られたからだろうか。東堂あかね(女子14番)辻結香(女子13番)といった友人らの方が、最期を看取る相手としてはずっと良かっただろうに。

 

『生きて……ね……』

 

 それとも――ここに雅史がきたからだろうか。他の誰でもない、自分だったからこそ、こんな表情をしているのだろうか。理香子は、友人であるあかねや結香よりも、雅史に会いたかったのだろうか。

 いや、そんなはずはない。それは、自惚れというものだ。彼女が自分をどう思っていたかなんて、もう知ることができない。同じ想いかもしれないと思っていても、一体何をもって証明できる?

 いくらそれなりに会話をしていても、いくら日直を一緒にやったとしても、それは証明にすらならない。そういう事実が存在するというだけ。そういった過去があったというだけ。

 存在するのは、過去の出来事であって、現在に至る気持ちではない。

 

『生きてね……。生きて……幸せになってね……』

 

 理香子がどんな気持ちを抱いていたのかなんて、今となっては知りようがない。事実として存在するのは、この耳で聞いたことだけ。だからこそ、思い出すたびに胸が締め付けられる。心に重くのしかかる。彼女が口にした最期のあの言葉が。

 

 好きな女の子の最期の願いだ。彼女のことを想うなら、叶えるべきなのだろう。今生きている全員を殺してでも、優勝者として元の生活に戻るべきなのだろう。それが、生きてほしいと願ってくれた彼女に対する、今できるせめてもの誠意の見せ方なのだから。

 けれど――それはあまりにも辛い。“好きな女の子を最後まで見つけることすらできず、みすみす死なせてしまった”という十字架を背負いながら、これから何十年も生きていかなくてはいけない。向こうに戻れば、それなりに交友関係はある。親もいる。生き続けていれば、これから出会う人もいるだろう。もしかしたら、また別の誰かを好きになるかもしれない。

 でも、それを希望に帰るほど、自分は前向きではない。先のことは分からない。けれど、失ったものの大きさは、痛いほど理解している。その痛みは、先の希望を靄のように霞ませる。

 

――それはきっと、俺が自分が思う以上に、身勝手な人間だからだ。好きな子の願いすら、叶えられないほどに。

 

 夜に考え事をしていたとき、後悔は欠片もないと思っていた。けれど、いざ現実を目の当たりにすれば、浮かんでくるのは後悔ばかりだ。あのとき、あっちの方に進んでいれば。もっと早く移動していれば。もっと銃声の方角に足を向けていれば。こうなる前に、彼女を見つけられたのではないかと。

 そうすることに、何の意味もない。そうしたところで、結末は何も変わらない。過去に戻るという不可思議な現象でも起こらない限り、目の前の現実は覆らない。

 無意味なことはしない主義だったはずなのに。どうして自分は出来もしないことを、何度も何度も繰り返し後悔してしまうのだろうか。生きるための手段も講じず、死なないための回避行動も取らず、同じことを延々と考えてしまうのだろうか。

 

――それは多分、俺がもう……

 

 カサッ

 

 何度目かになる後悔を繰り返していると、耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな物音が、背後の方から聞こえる。それが、雅史の思考を少しだけ現実へ引き戻す。

 

 音の主に、動きはない。こちらに向かってくる様子も、去ろうという雰囲気もない。先ほどのかすかな物音を聞いていなければ、背後に人がいることにまったく気づかなかっただろう。それくらい、そこにいる気配が感じられないのだ。

 やる気のある奴なら、近づくなりなんなりして殺そうとするはず。仲間を作ろうとしているのなら、声をかけてくるはず。雅史が怖いのなら、そのまま逃げるはず。

 殺そうとせず、逃げもせず、声もかけない。何もせずに、ただそこにいるだけ。だから、主は何となく分かってしまった。いや、そんなことを考えるまでもなく、雅史には誰か分かっていた。

 

「久しぶりだな、学」

 

 背後の方で、ガサガサッという草の音が聞こえる。動揺しているのだろうか。まさか、気づかれていないと思っていたのだろうか。

 そういうところは、甘い。けれど、それは、彼が以前とあまり変わっていないということでもある。ここまでプログラムを生き抜いてなお、おそらく人を殺してもなお――狂ってもいなければ、全てを捨てたわけでもない。

 そんな感想を抱きながら、未だ返事をしない背後の友人を思い、雅史は小さくフッと笑った。

 

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