追憶@

 

 あれは、丁度一年くらい前の、雪がちらつく冬の日のこと。

 

「また帰り遅くなっちゃったよ……」

 

 須田雅人は、電車を降りて、ポツリとそう呟いていた。腕時計の時刻は、既に八時を回っている。辺りはどっぷりとした暗闇で、店や街灯の灯りだけが、帰るべき方向の道しるべだった。

 

――もっと効率よくやらないと……終業式を迎えても学校に来ることになりそうだな……

 

 帰りがここまで遅くなった理由。それは、この前の生徒会選挙で選抜された新役員の面々で、年明けに行われる「三年生を送る会」の話し合いをしていたからだ。三月で卒業する三年生を、在校生全員で送り出す恒例行事。生徒会になった新役員が、一番最初にすることになる大仕事。雅人自身は役員ではないものの、実行委員をする機会が多いためか、今回も必然的に参加することになっていた。

 新生徒会が編成されてから日が浅いせいか、話し合いはなかなかまとまらず、気づけば下校時刻ギリギリになる毎日。遠方から来ている雅人がそんな時間に学校を出れば、どんなに急いでも最寄り駅に着くのは八時過ぎ。本来なら、ここから家の近くまで走っているバスに乗るところなのだが、このくらいの時間になると一時間に二、三本くらいしかない。運が悪ければ、三十分近く待ちぼうけをくらうことになってしまう。

 

――気は進まないけど……とにかく親に連絡しないと……

 

 これから起こることを予感し、盛大にため息をついた後、近くにある公衆電話の受話器を取る。十円玉を入れてから、家の番号をプッシュ。何度かのコール音の後に、ガチャリという電話を取る音が聞こえる。

 

『雅人ッ!! あんたまたこんな時間になってッ!!』

 

 耳をつんざくほどの大声で、電話の向こう側にいる母は怒鳴り散らす。もはや慣れてしまったせいか、特に驚くこともなく謝罪の言葉を口にし、迎えをお願いする。ひとしきり怒鳴った後、母は「いつもの公園近くで待っていなさい。すぐに行くから!」と告げ、そのまま電話を切っていた。

 ふぅと一息ついた後、すぐさま母との合流場所に向かって歩き出す。既にどっぷりとした暗闇に包まれているこの時間。灯りの少ないところで、たった一人待っているのは正直怖い。できることなら、早く明るいところへ行きたかった。

 

 母との待ち合わせ場所である公園は、駅の近くの商店街を通り抜けてすぐのところにある。大きなアーケードの下にある商店街は、夜でも人工的な光のおかげでとても明るく、そのせいかどこか落ち着く場所でもあった。

 短い横断歩道を渡り、足早にその商店街へと向かう。商店街に足を踏み入れた後は、速度を緩めゆっくり歩いていく。どんなに急いでも、母が待ち合わせ場所に来るまで、二十分ほどかかる。その間、明るくて人目のある商店街の中にいた方が、何かと安全だ。母にもそう言われていたので、散策するかのようにゆっくりと目的地へ向かう。

 時間も時間であるせいか、シャッターの閉まっている店がほとんどだ。しかし、その間を縫うかのように、いくつか赤ちょうちんの店が点在している。おそらく、夜に営業する居酒屋というやつなのだろう。まだ未成年である自分には関わりのないところだが、店から離れても聞こえる活気ある声に、どこか安堵感を覚えていた。

 

――こんな遅くなのに、みんなすごい元気だな……。

 

 聞こえてくる声は、何だかとても楽しそうだ。父のように朝早くから仕事をしたサラリーマンが、一日の疲れを癒すためにこうして居酒屋に集まったりするのだろうか。お酒を飲み、会社員同士で交流したりするのだろうか。まだ子供である自分には未知の世界であるせいか、あの赤ちょうちんの向こう側の光景に、どこか憧れを抱いていた。

 

――俺も大人になったら、ああいう店で飲んだりするんだろうか……。

 

 今はまだ未成年なので、親の同伴なしでは店に入ることすらできない。あと五年ほど経てば、一人でも堂々と入れるようになるのだろうが、あの中は一体どのようになっているのだろう。父は会社の飲み会で遅くなったとき、ニコニコ笑いながら帰ってくることが多いが、笑いたくなるほど楽しいところなのだろうか。そうだとしたら、あの声の陽気さは、ああいう店にとっては当たり前なのだろうか。

 店から漏れる声を聞きながら、少しだけ勇気づけられたような気がした。あと少しだ。あともう少しだけ頑張れば、中学校を卒業できる。そしたら、もうプログラムに選ばれることはない。そうなれば、大人になることも、あのような店で誰かとお酒を飲み交わすこともできる。今より世界も広がって、もっと自由も手に入れられる。生きていれば、いくらでも可能性は広がっているのだから。

 

 先ほどよりも少しだけ軽くなった足取りで、商店街の中を歩いていく。そうしていたら、ふとある居酒屋が目に入った。そこは、他と同じように赤ちょうちんを出しており、木製の引き戸が目を引く、ごく普通の居酒屋だ。大人になったら行ってみたいなと思う、そんな風情あるお店。何度も通った場所だから、おそらく何度も目にしているはず。なのに、初めてちゃんとその店を認識したような気がする。

 そんなことを思いながらその店を見ていると、突然ガラッと引き戸が開いた。ガヤガヤという人の話し声と、忙しいのだろうかバタバタという足音らしきものも聞こえる。人の話し声の中には、盛大に笑う大声も混じっていた。

 そんな店内から出てきたのは、見慣れない一人の男性。茶色みがかった短髪で、店の人だろうか腰にエプロンを巻いている。この季節だというのに長袖一枚という格好。そして、居酒屋という場所には似つかわしくないほど――とても若い。

 

――俺と同じくらい……? いや、まさか……

 

 一瞬頭に浮かんだ可能性を、即座に否定する。もし自分と同じ中学生だったなら、居酒屋で働けるわけがない。というか、中学生でアルバイトを許可している学校なんて、まずほとんどないだろう。青奉中学校においても、アルバイトは原則校則で禁止されている。唯一許可されているのが朝の新聞配達であり、それも学校側に申請しなくてはならない。中学生ではないとすれば、高校生なのだろうか。高校生くらいになれば、居酒屋でアルバイトもできるのだろうか。そんな素朴な疑問から、雅人は無意識にその人物をじっと見つめていた。

 店の前で何か作業をしていたその男性は、ふうと一息吐いて背伸びをする。そして、いきなりこちらに視線を向けてきた。マズイ。じっと見られていることに気づいたのだろうか。そんなバツの悪い思いから、雅人はサッと視線を逸らしていた。

 できればそのまま店に戻ってほしかったのに、その男性はどんどんこちらに近づいてくる。

 

――ヤ、ヤバイッ……! 俺、そんなにジロジロ見てたかな……?!

 

 思わず逃げ出しそうになるが、それはそれで失礼だ。ここは素直に謝ろうと思い、意を決して彼の方へと身体を向ける。

 

「あ、あのすみませんッ!! ジロジロ見てるつもりはなかったのですが――」
「お前ッ……青奉中のやつかッ……!!」

 

 謝罪の言葉を口にしようとした途端、予想だにしていなかったことを相手から告げられる。恐る恐る視線を上げれば、彼の目は、雅人の左胸にある校章に注がれていた。

 

「あ、はい……。そうですが……」
「学年とクラスは?!」

 

 思わぬ話の展開に、謝罪も忘れてポカンとしてしまう。どうしてそんなことを聞かれているのだろう。初対面で、互いの名も知らない者同士。そんな相手から開口一番に問われたのが、学年とクラス。一体何がどうなって、そんな質問が出てくるのか。必死で状況を整理しようにも、目の前の男性の切羽詰まった表情が、次第に雅人に焦りを生み出していく。

 

「えっと……二年一組……」

 

 そのせいか、相手からの質問に素直に答えてしまっていた。別に聞かれても困ることではないが、やはり問われる理由が分からない。そのせいか、言い知れぬ不安が胸の内に広がっていく。

 そんな雅人の気持ちを知ってか知らずか、目の前の男性は「特進クラスかよ……」と小さく呟いていた。見れば、彼は険しい表情をしており、唇をぎゅっと結んでいる。少ししてから、険しい表情から真剣な表情へと変化し、声を潜めてこう言っていた。

 

「頼む。誰にも言わないでくれ」

 

 そう言って、彼は頭を下げた。言われている内容と行動の意味が理解できず、返事もしないまま、またポカンとしてしまう。そんな雅人を見て不安に思ったのか、彼は顔を上げ、重ねてこう言っていた。

 

「俺がここにいたこと、絶対誰にも言わないでくれ。これがバレたら、俺の家族は……もう……」

 

 訳も何も言わずに、彼はただそう懇願していた。その声は、まるで必死に絞り出しているかのように、とてもか細い。雅人が中学生であると知りながら、躊躇うことなく頭を下げる。そんな彼を見ていると、なぜか年下を相手にしているような錯覚を抱いてしまう。

 本来なら、そう頼む理由を問うべきなのかもしれない。けれど、雅人より身長が高く、年上かもしれない男性が、一介の中学生である自分に頭を下げて頼むこと自体、並々ならぬ事情があると察するに十分だった。そしてそれは、初対面の自分が踏み込めることではないのだということも。

 だからこそ、事の半分も理解できないままであったが、雅人は首を縦に振っていた。その瞬間、真剣だった彼の表情が、少しだけ柔らかくなっていた。

 

「絶対だからな」

 

 念を押すかのようにそう告げた後、彼は足早に店へと戻っていく。扉を閉めるピシャリという音で、雅人はようやく我に返っていた。勝手に硬直していた身体から、フッと力が抜ける。

 

――何だったんだろう……

 

 並々ならぬ事情があることは察したものの、彼があそこまで懇願していた理由は分からずじまいだ。校章を見ていたことも、ああ言われた意味も、一組だと告げただけで特進クラスだと分かった理由も――

 

――もしかして……俺と同じ学校だったり……? アルバイトしてたから、誰にも言わないでってこと……?

 

 しかし、学校で彼を見たことはない。生徒会の手伝いや実行委員で、それなりに学校行事とは深く関わってきた。故に、ある程度の人間とは面識がある。仮に学年が違ったとしても、まったく見覚えがないのは不自然だ。同学校であるならば、おそらく一度は目にしているはずなのに。特に彼のような茶色みがかった髪など、一目見たら絶対に忘れないはずだ。

 

――まさかなあ……。卒業生かなんかだろう。でも、そしたらなんであんな必死に……?

 

 あの人がどうしてあそこまで必死だったのか。結局のところ分からない。ただ、あそこまで懇願されるほどの事情があること、そしてその事情に雅人が介入できないことは、あの短いやり取りでも理解できてしまった。故に、約束を齟齬にしてまで、誰かに言う気にはなれなかった。

 母が迎えに来る公園近くまでの道すがら、雅人の頭にはあの男性の言葉が何度も蘇っていた。何度考えても、疑問は微塵も解消されなかったし、理由はこれっぽっちも分からなかった。

 

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 それから数日後。雅人は二年五組に向かっていた。五組のある生徒に頼まれていた物を届けてくれるよう、生徒会担当の滝口先生に言われたからだ。

 

『頼む。誰にも言わないでくれ』

 

 あの時の出来事は、なぜかずっと頭の中に残っている。ああ言われているのだから、正直忘れてしまってもいいはず。なのに、あの時の切羽詰まった顔が忘れられなくて、無意味だと分かっていながらずっと考え続けている。

 

――考えてもしょうがないんだけどなぁ……。誰にも言わないでくれって言われたからには、相談するわけにもいかないし……。

 

 結局のところ、思考は堂々めぐり。考えても何一つ分からず、ため息をつくだけ。友人の有馬孝太郎には「最近ふさぎこんでいるけど、何かあったのか? 俺でよければ話聞こうか?」と言われたけど、さすがに約束した手前素直に相談するわけにはいかず、「いいや、何でもないよ。ちょっと考え事」と言って誤魔化している。

 そうこうしている内に、いつのまにか五組の教室に到着していた。とりあえず、まずは頼まれたことをきちんと終わらせないと。そう気持ちを切り替え、扉から教室の中を伺い、目当ての人物に声をかけた。

 

「宍戸ー! ちょっとごめん!」

 

 雅人の存在に気づいた宍戸が、それまで会話をしていた人たちに断りを入れて、こちらの方へと向かってくる。息をはずませて駆け寄りながら、彼はいつもの調子で声をかけてくれた。

 

「おお、どうした? お前がこっちまで来るの、珍しいな」
「ちょっと滝口先生に頼まれてさ。これ渡してくれって」
「あ、頼んでた資料! ほら、最近送る会の話し合い、煮詰まってるじゃん? 先生に、引き継ぎにもらった資料より昔のやつとか残ってたら貸してほしいってお願いしていたんだ。わざわざありがとな」

 

 へらっと笑いながら、宍戸は感謝の言葉を口にする。その笑顔につられるような形で、自然と雅人の表情も綻んでいた。

 五組に所属している宍戸は、現生徒会会長だ。明朗快活で、人あたりのいい人格者。統率力に長けており、少し前の生徒会選挙では対立候補に圧倒的大差をつけて当選した。しかし、それを鼻にかける傲慢さもない。それ故か、彼を慕っている者も多い。例えていうなら――孝太郎に少し似たタイプの人間だ。

 

「しかしまぁ、センセーもひどいよなー。自分で持って来いっての。須田は雑用係じゃないってのに」
「別にいいよ。大したことじゃないし」

 

 いつもの調子で、ここまで持ってきた雅人のことを労ってくれる。そんな何気ない気遣いが、とても嬉しい。向いていないのに、実行委員やら生徒会の手伝いなどにしゃしゃり出てくる雅人のことを、疎ましいと思っている人間は少なくない。宍戸のようにあっけらかんと分け隔てなく接してくれる人間は、実はそんなに多くないのだ。

 少しばかり他愛のない会話をした後、自分の教室に帰ろうと宍戸に「じゃ、また」と告げる。そして教室に背を向けようとした時、ふとある人物が視界に入ってきた。

 

 見覚えのある茶色みがかった髪。どこか――あのときの彼に似ている人物が、教室の奥の席で、机に突っ伏して眠っていた。静かに背中が上下するだけで、起き上がる気配はまったくない。

 雅人の視線に気づいたのか、宍戸は不思議そうに首をかしげながら、こう問いかけてくる。

 

「須田、どうした? 田添に何か用でもあるのか?」

 

 田添? 宍戸が口にしたその名前は、雅人にとってまったく聞き覚えのないものだった。

 

「田添……? あの、寝ている人が?」
「そうそう、うちのクラスの田添祐平くん。なんだ、知り合いか?」

 

 宍戸の質問に、反射的に首を振る。“田添祐平”という人間とは、まったく関わりがない。あのときの彼が、“田添祐平”であるという確証もない。

 

「いや、見覚えのない人だったから、ちょっとびっくりして……」
「あー、須田くらい色々やってると、大半の奴の顔くらい覚えていそうだもんなー。あいつ、髪の色だけでも割と目立つし、驚くのも無理ないかー」

 

 雅人の反応に理解を示しながら、宍戸は説明を続ける。

 

「でもまぁ、知らなくても無理ないわ。あいつ、あんま学校来ねぇもん。特にここ最近」
「そうなのか……?」
「出席日数ギリギリらしいぜ。しかも、来ても誰とも話さねぇで、ああしてずっと寝てんの。俺も最初は気になって声かけたんだけどよ、すげぇ素っ気ないから、あんま関わりたくねぇのかなって」

 

 見覚えのない生徒。めったに学校に来ないという事実。そして、来ても誰とも関わらない――。

 数日前の行動と、ある種整合性の取れた彼の立ち振る舞いに、少しずつ疑問が瓦解していく。

 

「……ここだけの話。あいつ、隠れてバイトしてるんじゃないかって、専らの噂だぜ」

 

 雅人の耳に顔を近づけて、ヒソヒソ声で宍戸はそう告げた。考えていたことを言い当てられたような気がして、少しばかりビクリとしてしまう。

 

「えっ……? 誰かバイトしているところ見たのか……?」
「そういうわけじゃねぇけど、出席日数ギリギリしか学校来ない理由なんて、不良か、バイトに明け暮れているかくらいじゃん? 不良って感じには見えないから、アルバイトでもしてるんじゃないかって。ほら、不登校なら、ずっと来ないわけだしさ」

 

 どこか的を得た彼の言葉に頷きながら、視線はずっと寝ている人物の方へと注がれている。騒がしい教室の中にいながら、彼が起きてくる気配は未だにない。そこまで深い眠りに陥るほど疲れているのか。それとも、周囲が煩わしくて顔を上げないだけなのか。

 

「まぁ、だからよ。あんま関わんない方がいいぜ。お前とは真逆のタイプだよ、あいつ」

 

 そう忠告してくれる宍戸の言葉を聞きながら、「う、うん……」と生返事をしていた。学校にほとんど来ず、来てもああして寝ているだけ。確かに、自分とは正反対のタイプの人間だろう。今後のことを考えれば、接点をもたない方がいい。内申点のためにクラス委員をやっているというのに、こんなことで評価が悪くなったりすれば、元の子もない。

 そう分かっていながら、どこか気になって仕方がなかった。宍戸に別れを告げ、自分の教室に戻る道中、そのことがずっと頭の中をもたげていた。

 

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『そういうことなら仕方ないけど、あまり遅くならないようにしなさいよ』

 

 出かける直前に母から言われた言葉を思い出し、緊張をほぐすかのように一度だけ深呼吸をする。雅人は今、最寄り駅のすぐ近くにいた。目の前にあるのは、見慣れた商店街。ただし、あの時と違って今はまだ明るく、人気も多い。会社帰りのサラリーマンはもちろん、自分と同じ学生らしき制服の人間もちらほら見かける。

 今日は終業式。学校は午前中で終わり、明日からの冬休みに浮き足出す皆に混じって、一度は帰宅した。一時はどうなることかと思った送る会の話し合いは、宍戸の尽力もあって、何とか終業式前にある程度まとまった。故に、しばらくは学校に行く必要がない。そして、この後特に予定もない。しかし雅人は、私服に着替えてもう一度家を出ていた。新たに構成された生徒会メンバーで親睦会をすることになったという、人生で初めて親に嘘をついて。

 あれからずっと気になっていた。だからこそ一度、彼ときちんと話し合う必要があると思った。もし誰かに見られたり聞かれたりしても、しばらくは学校に行かないのだから先生に漏れる可能性は低いだろうし、運が良ければ年が明ける頃には忘れてくれるかもしれない。どんなことが起こったとしても、全部自分の胸の内に秘めれば、おそらく大事になることもないはず。

 とりあえず、店が開く前に訪ねてみた方がいいかと思い、こうして明るい時間に例の居酒屋へ行ってみることにしたのだ。

 

――といっても、居酒屋が何時に開くのか知らないんだけど……

 

 居酒屋が開けるには、随分早いこの時間。もしかしたら、まだ彼は来ていないのかもしれない。そう思いつつ、一応確認しようと目的地に向かって歩を進める。どんなに多く見積もっても、駅からお店までは十分もあれば着くだろう。

 アーケードの照明は消されていて、天井のガラスから少しだけ日の光がこぼれる。夜の人工的な明かりとは違う、自然の柔らかい光。開いている店も多く、活気ある人が大勢いる。売っているお店の人、買う地元の人。夜とはまったく違う、昼の商店街の顔。

 そんな商店街の中を、ゆっくりと歩いていく。緑茶を多数置いている、お茶の専門店。肉まんが名物の、中華料理屋。お洒落な服が目を引く、服飾店。夜には閉まるこれらの店も、今は開いており、お店の人が道行く人に積極的に声をかけている。そんな声かけを「すみません」とかわしつつ、目的の居酒屋へと向かう。

 

――昼間だと……なかなか見つけづらいな……

 

 当然ながら、今はどこの居酒屋も開いていない。故に、赤ちょうちんはもちろん出ていないし、場所によってはシャッターが下ろされている。あのときは、赤ちょうちんと扉を見て足を止めたので、正確な場所を把握していたわけではない。必然的に、キョロキョロしながら探すことになる。

 

――ある程度は歩いたところにあったと記憶しているんだけど……。見たのは数週間前だし……。

 

 不審者に見えないように装いつつ、目的の店を探し続ける。しばらくして、それらしいお店が視界の中に入ってきた。

 

「ここ……だったかな……?」

 

 運のいいことに、シャッターは下りていなかった。赤ちょうちんこそ出ていなかったが、木製の引き戸はあの時見たものとそっくりだ。ただ、それ以外の佇まいが曖昧で、かつ以前見たときとは雰囲気が少し違って見える。そのせいか、いまいち確信が持てなかった。

 その店の前には、“準備中”という小さな看板が置かれている。しかし、中の明かりがぼんやりと透けて見え、人の気配も感じられることから、誰かが中で作業しているようだった。

 

――ど、どうやって声をかけようか……?

 

 確信が持てない上に、本人がいるかどうかも分からない。いない場合は、日を改めるつもりではある。ただ、何度も足を運ぶと変に覚えられてしまうので、できれば今日中に本人に会いたいところだ。

 しかし、仮に運良く本人がいたところで、素直に応じてくれる可能性も低い。ある意味弱みを握ってしまっているこちらの存在は、向こうからすれば警戒すべき対象以外の何者でもないのだから。

 それでも、やはり一度きちんと話を聞いておくべきだと思った。どういう事情かは分からないが、放っておいていいはずがない。もし本当に彼が「田添祐平」で、校則違反だと知りつつアルバイトをしているのだとしたら、きっとそうしなくてはならない切羽詰まった理由があるはずだ。そしてそれは、一中学生がどうこうできる問題ではない。きっと、誰かの助けが必要だ。同じ中学生である雅人にできることなどほとんどないだろうが、事情を知っている人が一人いるだけでも違うはず。何かあったら相談に乗ったり、そうでなくてもただ話を聞いたり、それくらいなら自分にだってきっと――

 

 意を決して、扉の引き戸に手をかける。ここまで来たら、もうなるようになれと思い、一気に扉を開けた。ガラガラガラッという音が、思いのほか周囲に響き渡る。鼓膜を大きく揺らす引き戸の音に混じって、誰かの声が聞こえてきた。

 

「あっ、すみません。まだ店開けてない――」
「す、すみません!! ちょっと話をしたい人がいるんですが!!」

 

 決意が鈍らない内に、大声で用件を告げる。恐怖からか、無意識のうちに目をギュッとつぶってしまった。予め連絡も入れずに、突然押し掛けることなんて、雅人の人生で初めてのことだ。そのせいか、余計に緊張していた。

 しばらくその状態でいたが、返事が聞こえない。だから、恐る恐る目を開けた。目が光に慣れた頃に、どこか聞き覚えのある声が耳に入る。

 

「お前……この間の……」

 

 目を開けた視界の中には、一人の人物。あの時見た、自分と同い年ほどの、茶色みがかった髪の男性。

 その人物の表情は、驚愕と不快さに彩られていた。

 

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