追憶A

 

 目的の人物であった彼――宍戸の言ったことが正しければ、田添祐平という名のその人物。その彼は、あの時と同じ格好で、手にはメニュー表らしき紙を数枚持っていた。

 

「……一体何の用」
「えっと……話があって……。た、田添くんに、どうしても聞きたいことが……」
「な、なんで俺の名前……」

 

 思わず祐平の名前を口にした途端、彼の眉がピクリと動いた。まるで、都合の悪いことを知られたかのように、先ほどよりも不快さを露わにした。

 

「まさか、こそこそ嗅ぎまわって調べたのか……?! それで、俺のこと脅そうと……」
「そ、そんなつもりじゃ――」
「じゃあ、どんなつもりでここに来た?」

 

 大きくはないが威圧感のある声と、有無を言わせぬ重い空気。刺すような視線に、全身が硬直する。まるで、蛇に睨まれた蛙のようだと思いながら、勇気を振り絞って口を開いた。

 

「は、話がしたいんだ……。ちゃんと理由を知りたくて……」
「話だぁ?!」
「あんな風に言われたけど……な、納得できないから……! 事情があるなら……ちゃんと聞きたい……し……。そもそも、うちの学校はアルバイト禁止だし……。中学生が居酒屋でバイトなんて、年齢的に考えても問題だし……」

 

 相手の威圧感に気圧されつつも、絞り出すかのように言葉を続ける。そんな雅人の様子を見ながら、祐平はわざと聞かせるかのように大きくため息をつく。それで落ち着いたのか、先ほどよりも少し小さい声で、再び話を始めていた。

 

「聞いてどうすんだよ。聞いて、納得できたら黙っててくれるのか? そもそも、一体何になるんだよ? 俺はお前に、知られたくないことを知られただけで、得なことは何もない。なんだかんだ言っても、結局は自分が知りたいだけなんだろ? もし親切だって言うなら、聞かない方がこっちとしてはありがたいんだけど」
「べ、別にそういうわけじゃ――」
「お前の言っていることは、そういうことなんだよ。人の事情に首を突っ込んで、土足で踏み荒らしていくだけ。言ってしまえば、噂の真意を確かめたい野次馬根性みたいなもんだ。はっきり言って、迷惑」

 

 言葉に詰まる。祐平の言っていることは、至極真っ当な正論だ。事情を知れば、雅人としては納得できるし、納得できれば学校に告げ口もしない。むしろ、進んで秘密を守ることに協力もできる。

 けれど、既にアルバイトをしているという秘密を知られた祐平からすれば、これ以上の立ち入りは御免だろう。アルバイトをしなくてはいけない差し迫った事情を知ったとしても、ただの中学生である雅人にできることはほとんどない。そんな相手に知られても、祐平としては特段得るものはない。むしろ、さらなる弱みを握られたに等しい。

 それでも――雅人は知りたいと思った。ただの野次馬根性だと思われてでも、本人からきちんと事情を聞く必要があると思った。何もできなくても、悩みがあったり、助けが欲しい時、話を聞くことくらいはできるはずだ。家族ではない。友人でもないかもしれないけど、せめて同じ学校の同級生として――

 

「いてっ!!」

 

 今一度説得しようとした雅人の耳に、すっとんきょうな声が届く。同時に、目の前にいる祐平が、なぜか痛そうに頭を押さえていた。

 

「こら、祐ちゃん。わざわざ来てくれた相手に対して、そんな態度を取るなっての」

 

 祐平の背後に、いつの間にか別の人物が来ていた。雅人よりは背が高く、祐平よりは背の低い、白髪混じりの男性。風貌から察するに、おそらく祖父くらいの年代の人だろう。やや痩せているように思えるが、見た感じとても元気のいい、エネルギッシュな人のようだ。祐平と同じTシャツを着ているところから、ここの店長か何かだろうか。

 

「おやっさん……。いきなり頭どつくのは止めてくれよ……」
「心配いらん、お前はそれ以上馬鹿にはならんから」

 

 痛そうに頭を押さえている祐平に向かって、“おやっさん”と呼ばれた男性は軽い口調でそう言っていた。そんな二人のやり取りを、雅人はただポカンと見つめていた。コントのような二人のやり取りに、自然と緊張していた身体の力が抜ける。

 そんな雅人に向かって、“おやっさん”と呼ばれたその男性は、ハキハキと話を始めていた。

 

「んで、あんた。名前は?」
「あっ、えっと……須田雅人と言います……」

 

 質問に答えながら、そういえばまだ名乗っていなかったことを今更ながら思い出した。名乗らずに事情を話せというのも、なんというか大分失礼だったなと反省した。

 

「祐ちゃんと同じ学校?」
「は、はい……。クラスは違いますが……」
「そうかそうか。つまりは、祐ちゃんと同い年?」
「え、ええ……まぁ……。多分……」

 

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、戸惑いながらも答えていく。少なくとも、この人は前向きに話を聞いてくれている。それが分かるからこそ、雅人は素直に答えを口にしていた。

 

「おやっさん……。そいつのことなんかどうでもいいじゃねえか。それより開店準備――」
「おお、そうだそうだ。まだ開店前だった。祐ちゃん。せっかくだから、その子とちゃんと話してきな」

 

 一刻も早く雅人とのやり取りを終わらせたいであろう祐平を後目に、“おやっさん”はさらっとそんなことを提案する。あまりに突然そんなことを言うものだから、雅人も祐平も固まってしまう。数秒の硬直の後に、祐平が大声で反論していた。

 

「いや……いやいやいやッ!! 何言ってんだよ! 意味わかんねぇよ!」
「何を言っている。雅人くんは、お前のために、わざわざここまで来てくれたんだぞ。なら、きちんと事情を説明しないと」
「なんでだよ……。そいつと話すことなんか、何もねえよ」
「ないわけないだろ。あるから、ここに来ているんだ。それなりの誠意は見せないと」

 

 誠意って……。とポツリと呟く祐平に向かって、“おやっさん”は諭すかのように、こう付け加えていた。

 

「それに、その子が興味本位でここに来たわけじゃないってことくらい、祐ちゃんだって分かっているだろ?」

 

 その言葉に、祐平は反論しなかった。その反応は、少なからずその言葉に同意したということを示している。野次馬根性で来たわけではないことだけでも分かってもらえたようで、そのことに雅人は少しホッとしていた。

 

「ほら」

 

 黙ったままの祐平に向かって、“おやっさん”が何かを放る。五百円玉らしきものが宙を舞っているのを視界の端でとらえたのとほぼ同時に、祐平は器用に右手でパシッとつかみ取っていた。

 

「俺の奢りだ。そこの公園で、何か温かい飲み物でも飲んできな」

 

 それだけを言って、“おやっさん”は店の奥へと消えていく。その場には、雅人と祐平だけが残された。

 

――あっ……。えっと……この場合はどうしたらいいんだろう……?

 

 せっかく話すきっかけを作ってもらったのだから、何か話した方がいいかと話題を思案していたが、結局何も浮かばず、ただ沈黙を守る形になってしまった。普段は聞き手に回ることが多いだけに、自分から話題を振ることは滅多にない。自分から話を振るのって、実はけっこう難しいのだなと、場違いなことを思った。

 しばしの沈黙の後、盛大なため息が聞こえる。その方向へと視線を向ければ、祐平がエプロンを外し、雅人の方へと向き直っていた。

 

「コート取ってくるから、ちょっと待ってろ」

 

 それだけを告げ、祐平も店の奥へと姿を消した。

 

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 ほどなくして戻ってきた祐平と共に、店を出る。互いに言葉を発することなく、目的の公園へと向かっていた。雅人がいつも母との待ち合わせの目印にしている、あの公園へと。

 

「何にするんだよ」

 

 公園に着いた途端、入り口横にある自販機を前に、祐平はそう問いかけてきた。

 

「え……? い、いや、俺は別に……」
「人の親切を無にする気かよ。そういうの、一番失礼なんだぞ」

 

 咄嗟に断ろうとした雅人に向かって、吐き捨てるかのように祐平はそう言った。話をしに来ただけで、別に飲み物をご馳走になろうと微塵も考えていなかったこちらとしては、素直に受け取っていいものか。その迷い故の断りだったが、それが祐平には失礼なように見えたらしい。

 店内でのやり取りでも思ったが、以前会ったときとは、随分印象が違う。あのときは、雅人が黙っててくれるようにわざと下手に出ていたのだろうか。そう考えると、おそらくこっちの方が素なのだろう。

 

「じゃ……じゃあ……ココア」

 

 とはいえ、彼の言っていることは最もなので、ここは素直にご馳走になることにした。また店に戻った時、“おやっさん”には改めてお礼を言おうと秘かに決意した。

 そんな雅人を後目に、祐平は五百円玉を入れ、ココアのボタンを押す。ガチャンという音と共に出てきた缶を、雅人に向けて放り投げていた。こちらが礼を言う間もなく、祐平は出てきたお釣りを自販機の中に入れ、迷うことなくボタンを押す。見れば、買ったのはブラックコーヒーらしい。大人だなと、場違いなことを思った。

 飲み物を買った後は、どちらからともなく公園へと入る。教室よりも少しだけ広いであろう、こじんまりとした公園。入口のすぐ左には、三つの鉄棒。手前から奥に向かって、高さが低くなっている。少し歩けば、左手にはブランコがあり、右手には滑り台。滑り台の下には砂場があり、そこには二人の子供がいた。

 手がかじかむほどの寒さのせいか、公園にはその二人しかいない。二人一緒になって、砂場で山を作っている。砂を集めては山を作り、崩れないようにパンパンと叩いて形を整える。飽きずに繰り返しているその子らを見ていると、何とも懐かしい気持ちになった。最後に砂遊びをしたのは、一体いつだっただろうか。

 

「何してんだよ」

 

 子供らに目を奪われていたせいか、いつのまにか足が止まっていたらしい。祐平に声をかけられ、慌ててその方向へと視線を向ける。見れば、祐平はブランコ横にあるベンチに座っていた。雅人が座れるように、一人分のスペースを空けた状態で。

 急いでそこへと駆けて行って、一言「ごめん」と謝罪してから、祐平の右隣へと腰掛ける。男二人並んで座るにはベンチが小さいせいなのか、それとも祐平の身体が大きいせいなのか、少しだけ窮屈さを感じた。

 

「で、何を話すって?」

 

 コーヒーの缶を開けながら、祐平は不貞腐れたかのような言い方で、そんなことを口にする。言い方からして、やはり話すことを了承したというわけではないらしい。

 

「えっと……、田添……くんがアルバイトしている理由とか……」
「気持ち悪りぃから、呼び捨てでいい。同い年なんだし。お前は確か……須田だったよな」
「う、うん……」

 

 どういう糸口から話を始めようかと思案したが、結果的に他愛もないストレートな言葉しか浮かばなかった。もっと他に言い方はなかったのかと思ったが、考えても仕方ないと諦め、このまま話を進めることにする。

 

「特待生のお坊ちゃんには分からないだろうけどな。世の中には、親の稼ぎだけじゃ生きていけない人もいるんだよ」

 

 グイッとコーヒーをあおりながら、祐平はそう吐き捨てる。今だに缶を開けるタイミングを掴めない雅人は、冷えていくココアを両手で持ちながら、当然の疑問を口にした。

 

「で、でも……田添はまだ中学生じゃないか……。高校生ならまだしも、中学生の子供に頼るのはどうかと思うし……。それに、アルバイトじゃなくても家を助ける方法はいくらでもあるはずだし……。例えば、私立じゃなくて公立に行くとか……」

 

 私立にしがみついている自分に言えたセリフではないが、アルバイトをしなくてはいけないほど経済的に立ち行かなくなっているのなら、まずは公立へと転校するのが定石だろう。彼の家がどれだけ貧窮しているか分からないが、確実に金銭面における負担は軽くなるはずだ。雅人が私立に行きたいと親に懇願したときも、学費が高いからという理由で特待生という条件が付いたのだし。

 雅人の疑問は想定内だったのか、祐平は軽くため息をついてから、再びグイッとコーヒーをあおる。一気に飲み干して空になったのか、右手で器用に缶をもてあそんでいた。

 

「……まぁ、そうだよな。それが、普通の考えなんだろうよ」

 

 納得したかのような、けれどどこか諦めたかのような、何とも言えない声色が、雅人の心をかき乱す。まるで、「分かっているけど、どうにもならないんだよ」と、言外に言われたような気がしてならなかった。

 

「でも……どうしても俺は私立に居続けなくちゃいけないんだ。アルバイトをしてでもな」
「な、なんで……」

 

 含みのある言葉に、なぜか心臓が大きく鳴る。それは、祐平の言い方から並々ならぬ事情があることを察したのか。それとも――

 

「……プログラム」
「えっ……?」
「ほら、あるだろ。毎年五十クラス選ばれて殺し合いするってやつ。あれに、選ばれないため」

 

 祐平の口から出た、“プログラム”という言葉。同級生の誰もが知っていて、そしてほとんどの人間が無関係だと思っている、この国の一つのシステム。雅人が何よりも恐れ、なりふり構わず特待生で居続ける理由。

 驚いた、はずだ。けれど、思ったよりも動揺しなかったのは、心のどこかで予感していたからなのだろうか。故にどんな反応を、どんな顔で返したらいいのか分からず、ココアの缶を見つめることで表情を悟られないようにした。

 

「プロ……グラム……」
「噂くらい、聞いたことあるだろ? 福岡では、私立は一度も選ばれていないってやつ。それが、俺があの学校にしがみついている理由だよ」

 

 もちろん、知っている。自分も、同じ理由でここにいるのだから。

 

「それは……田添が選ばれたくないから……?」
「えっ……? あっ、いや……俺じゃなくて、親がな」

 

 質問が想定外だったのか、一瞬戸惑った後、祐平は答えてくれた。その答えは、雅人の想像とは違う、予想に反した――考えの及ばない内容だった。

 

「田添の……ご両親が……?」
「まあな。といっても、別に最初からこんなんじゃなかったんだよ」

 

 雅人の反応が意外なせいか、それともこれから話すことを思い出したせいなのか、どこか自棄を含んだ笑いが耳に届く。

 

「俺んちさ、元々五人家族だったんだよ。トラック運転手の親父と、病気がちなおふくろと、弟二人。そこまで裕福な家じゃないけど、それでも五人暮らすにはまぁ何とかなるってくらいには、一応金もあったわけ。小学校六年生の時に、プログラムのことを聞かされて、私立に行こうってことになって。金はかかるけど、まぁ何とかなるだろうって俺も深く考えずに受験してさ。ここが学費一番安かったから、とりあえず入学したわけよ。入ってしまえばこっちのもんだって思ったからさ」

 

 まるで何でもないことであるかのように、わざと明るく軽い口調で祐平は話し続ける。けれど、その口調とは裏腹に、きっと内容はそんなに軽いものではない。彼がこんな口調で話すのは、これから重苦しくなるであろう空気を少しでも和らげるためでしかないと、嫌でも理解できてしまう。

 なぜなら、彼は確かに言った。“元々五人家族だった”と――

 

「……でもさ。ちょっと前に……親父が事故で……」

 

 そこまで言ったところで、言葉が切られる。はっきりとは口にしなかったけど、その先は言わなくても理解できた。

 

「……そこで、初めて知ったんだよ。親父が、俺を私立に行かせるために、無理して働いていたことをさ。そりゃそうだよな。一人私立に行かせているんだから、そのくらいしないと……さ……」

 

 また、言葉が切られる。見れば、祐平は空を仰いでいた。口は真一文字に結ばれていて、目に何か光っていたような気がしたが、見ないふりをした。

 

「いくらかのお金は入ったけど、それでも四人暮らしていくには全然足りない。おふくろは身体が弱いから、できても短時間のパートまでだ。そもそも、一番下はまだ幼稚園だしな。だから、俺が代わりに稼いでいる。居酒屋なのは、割がいいからと、ここなら確実にお前のような青奉の学生に会わないから。まぁ、一番はおやっさんが事情を知ってくれて、雇ってくれてるからなんだけど」
「おやっさん……知っているのか……?」
「まあな。でなきゃ、中学生が居酒屋でバイトなんてできないだろ。一応、朝の新聞配達もやってるけど、こっちはちゃんと許可取ってるからな」

 

 そこまで言うと、話は終わったとばかりに祐平は立ち上がる。

 

「……そういうわけだから、これ以上俺に関わらないでくれ。こんな生活も、中学までだからさ。高校はアルバイトのできる公立に進学するつもりだし。それに、このこと告げ口したら、俺だけじゃなくて雇ってくれたおやっさんにまで迷惑がかかる」

 

 少しばかり強い口調で、祐平はそう口にした。雅人が返事しなかったせいか、重ねてこう言おうとしていた。

 

「別に黙っていたって、お前には何の利害もないだろ? だからさ――」
「……怖いんだ」

 

 そんな祐平の言葉を遮る形で、雅人は口を開いていた。

 

「選ばれる可能性なんて、限りなく低い。そんなものに、自分が選ばれるわけがない。そう思っていても、心のどこかでは不安なんだ。だって、現実に毎年五十クラス選ばれている。選ばれている“誰か”は、この国に何百人といる。その“誰か”に自分がならないという保証なんか、どこにも存在しない」

 

 開ける機会を失ったココアの缶は、もうすっかり冷え切っている。それを両手で持ちながら、感情のままに口を滑らしていく。

 

「選ばれてしまったら、最後の一人にならない限り死ぬことになる。でも、自分がその最後の一人になれる可能性なんて、きっと限りなくゼロに近い。選ばれるってことは、ほぼイコール死ぬってことなんだ。自分がそうなってしまうかもしれないことが、たまらなく怖かった。だから、選ばれない方法があるんだとしたら、それにしがみつきたくなる。選ばれなければ、死ぬこともないから」

 

 誰にも言わなかった、自分の心の内。プログラムが怖くて怖くて仕方がなかったこと。選ばれたらどうしようという不安に苛まれ続けたこと。そうならないためにはどうしたらいいのか、ずっと考えていたこと。

 

「だから選ばれない方法を必死で調べて、私立の噂を聞いて、元々そのまま近くの学校に進ませるつもりだった親を説得して、何とか特待生としてならいいって言われた。勉強して合格して、入学した後も必死で勉強して、内申点を稼ぐために向いていない実行委員をやり続けて、何とかこの学校に居続けている。それも全部、プログラムに選ばれないため。死なないために」

 

 だから、藁をもつかむ思いで、私立の中学校へ進学したこと。親から出された特待生という条件を、必死で守ろうとしていること。なりふり構わず、この学校にしがみついていること。傍から見れば、無意味かもしれないことをやり続けていること。

 事情を知る者が見れば、いや事情を知らなくても、きっと自分は滑稽に映るだろう。それでもかまわなかった。みじめだろうと、無様だろうと、死ななくてすむのならそれでよかった。

 だって、まだ死にたくない。生きていたいのだから。

 

「……おまえ」
「田添の親の気持ち……分かるよ。怖いんだよな。もし何もしないまま、選ばれてしまったらって。だったら、無駄かもしれないけど、何かしていた方がずっと楽なんだ。無意味でもいい。そうすることだけが、少しだけ不安を取り除いてくれるから」

 

 もしかしたら、その行為が却って裏目に出てしまうかもしれない。いつか選ばれてしまったとき、後悔するのかもしれない。それでも、ただじっと中学三年生になるのを待つよりかは、こうしていたかった。もし何もしないまま、自分が進学した公立の学校が選ばれてしまったら、それこそ一生後悔しそうだったから。

 

「そっか……」

 

 突然の雅人の告白に、祐平は驚きながらもそれ以上は何も言わなかった。面食らった顔で、所在なさげに右手の缶をもてあそんでいる。少ししてから、改まった表情でこう切り出していた。

 

「なら……俺の気持ちも分かるだろ……? だから、このまま放っておいて――」
「お、俺に、何かできることないか?!」

 

 穏便に話を終えようとする祐平の言葉を遮るかのように、大声で雅人はこう提案していた。その言葉が意外だったのか、今度こそ祐平は「はぁ?!」という呆れたような声を出していた。

 

「一体何言ってんだよ?! 別に俺はそんなのいらない――」
「う、うちは裕福じゃないからお金の援助とかできないし、俺のおこづかいも大したことないから、そういうことは無理だけど……。で、できることがあれば何でも言ってほしいんだ……! たとえば勉強を教えるとか、何かあれば知らせるとか、そういうことなら……。同じ学校なんだし、そういうのは俺が一番――」
「だから、そういうのいいって!! 大体、おまえだって色々大変なんだろうが。別にそういうのして欲しくて、こんな話をしたわけじゃねぇし!!」

 

 雅人の言葉に、祐平はどこか焦ったような返事をする。迷惑というより、本当にまったく施してもらうつもりはなかったのだろう。事情を話したのは、あくまで雅人に納得してもらい、このままの生活を続けるため。救いを求めたわけではないのだから。

 

「おーお、若いっていいねぇ」

 

 感情的な二人とは対照的な、どこか気の抜けたような声が聞こえる。その方向へ視線を向ければ、”おやっさん”が公園の入り口近くで仁王立ちしていた。

 

「おやっさん……。あ、もう開店時間か。すまねぇ……」
「すみません……」
「いいってことよ。しかしまぁ、祐ちゃんにも友達ができたようで、よかったよかった」

 

 「別に友達じゃないし」と不貞腐れたように答える祐平をよそに、雅人は自身の腕時計へと視線を落とす。見れば、時刻は五時をまわっていた。どうやら、開店時刻は五時だったらしい。既に日も暮れ、公園にある街灯だけが周囲を照らしている。砂場で遊んでいた子供たちも、いつのまにかいなくなっていた。そこまで日が暮れていたことに、今更ながら気づく。

 時間も時間だし、そろそろ雅人も帰った方がいいのだろう。祐平も、家のためにアルバイトをしなくてはならない。だから、話はここで終わりかと思った。事情は知れたし、自分と同じ理由で私立に進学した人がいたことは、不謹慎かもしれないが少し嬉しく思った。けれど、何もできないまま別れることに、一抹の寂しさと無力感を覚えた。

 

「せっかくなんだから、助けてもらえばいいじゃないか」

 

 そんな感傷に浸っていた雅人の耳に、“おやっさん”の言葉は少し遅れて届いていた。

 

「はっ……? いや、おやっさん。助けるって、俺と同い年のこいつに、何をどう助けてもらうんだよ……」
「さっき、その子が言ってたじゃないか。勉強教えたりとかするって。そういうのは、俺たち大人にはなかなかできないことだからよ。確か祐ちゃん、この間の期末も赤点連発じゃなかったっけ?」
「それはそうだけど……って! おやっさん!! こいつの前で、何暴露してんの?!」

 

 慌てた様子で抗議する祐平をよそに、ガハハと“おやっさん”は豪快に笑う。あっけらかんとしていて、冗談めかした言葉を口にし、どこか余裕のある佇まい。これが、何十年も人生を歩んできた“大人”なのだと、妙に納得していた。

 なんか、敵わないな……。場違いながらも、雅人はそう思った。

 

「友達ってのは、いいもんだぞ。親にも、兄弟にも、俺みたいな大人にも言えないことが、友達だったら言えたりするもんだ。持ちつ持たれつ、助け合って過ごす青春! お前らの年頃には、そういう関係がすごく大事だって、大人になってから身に染みるもんだぞ。大人は、なかなか友達作れないからな。事情を知ってくれたんなら、尚更だ」
「いや、そういうの俺はいいって……」
「いいとかそういうことじゃない。今のお前には、必要なんだよ」

 

 真剣な表情で、そうはっきり告げる“おやっさん”に、祐平はなぜか反論しなかった。てっきり、「別に友達なんかいらない」って言うのだろうと思ったから、少し意外だった。

 

「とりあえず、今日はこの辺にしときな。もう店も開けたことだし。祐ちゃんには、今日もガシガシ働いてもらうからな。それからえっと、須田雅人くんだっけ? じゃあ、マサちゃんでいいかな?」
「はい……あっ、えっ? マサ……?」
「ガハハ。冗談だよ。マサちゃんは、俺もどうもしっくりこないからな」

 

 呼ばれて少し赤面するようなあだ名をつけられたかと、一瞬冷や冷やした。“祐ちゃん”はいいけど、“マサちゃん”はさすがに抵抗を感じざるを得ない。

 

「雅人くんは、今日はもう帰りな。そんで、明日また来るといい。祐ちゃんは、大体昼過ぎから店にいるから」

 

 冗談めいた軽口から一転、優しい声色で諭すかのように“おやっさん”はそう言った。ああ、やはり敵わないなと思いながら、雅人はコクリと頷く。

 

「ほら、祐ちゃん。そろそろ行くぞ」

 

 祐平にそう声をかけ、“おやっさん”は先を歩いていく。その後を追う形で、祐平も歩き出そうとして――

 

「……あのさ」

 

 ピタリと止めていた。

 

「な、何……?」
「明日、来るのか?」
「迷惑じゃなかったら……。バスに乗ればそんなに遠くないし……」

 

 やはり、こちらからおせっかいを焼くのは迷惑だろうか。そんなことを思い始めた雅人の耳に、意外な言葉が届いていた。

 

「冬休みの宿題……。いつもそういうの提出しなくて、怒られるから……。その、手伝ってくれるか……?」
「あ、ああ、もちろん……。明日、持ってくるよ……」
「そうか……」

 

 そう返事をした後、祐平は少しだけホッとしたかのような表情を見せてくれた。それは、懇願した時とも、言い争ってた時とも、自嘲気味に話していた時とも違う。中学生らしい、親近感がわくような朗らかな笑みだった。きっとこれが、彼の本当の素の姿なのだろう。

 一瞬の沈黙の後、祐平は方向を変え、こちらの方へと歩き出していた。何だろうと疑問に思っていた雅人の前に、空になったコーヒーの缶が差し出される。

 

「あと……悪いけどこれ。捨てといてくれるか……?」

 

 他愛ない頼み事。それがなぜか少し嬉しくて、「分かった」と返しながら、その缶を受け取っていた。

 

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 それから一年間、学校では関わらない、不思議な付き合いが続いていた。

 正確には、祐平の方から断られたのだ。「俺みたいな奴と学校で関わると、おまえのこれまでが無駄になるだろう」と。

 そんなことないと、最初は気にしなかった。けれど、結果的には折れるような形で、学校ではただのクラスメイトのように振舞っていた。

 

 学校では話すこともほとんどなかったけど、学外での付き合いはどんどん深くなっていった。

 アルバイト先で祐平に勉強を教えるだけでなく、そのうち彼の家にもお邪魔させてもらった。

 祐平の母親と、弟二人。最初こそはぎこちなかったが、次第に打ち解け、仲良くなっていった。

 泊りがけで行ったこともあるし、弟たちと留守を任されたこともある。

 上の弟である一真にも勉強を教えたし、下の弟である将太とは家でも外でもよく遊んだ。

 兄弟のいない雅人にとって、初めて出来た弟のような存在。愛おしく思ったし、守りたいとも思った。

 そう自覚した時、家族のために身を粉にして頑張る祐平の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。

 

 夏には、祐平の母の勧めで花火大会にも行った。

 綺麗な花火にはしゃいで眠ってしまった弟たちをそれぞれ背負いながら、何も言わずに花火だけを見ていた。

 ただ花火を見ながら、背中に将太の重みを感じながら、ふと思った。

 次の花火大会のときには、もう中学校を卒業している。もしかしたら、祐平とは違う学校へ通っているかもしれない。

 それでも、また祐平たちとこうして見に来れたらいいなと。

 

 そう、あと少しだった。あと少しで、祐平の苦労は報われるはずだった。

 口には出さねど、雅人には計り知れない苦労があったはずだ。

 卒業すれば、それらから解放される。そうすれば、彼にも少しは自由があるはずだ。生きていれば、可能性はいくらでも広がっているのだから。

 

 なのに、あと三ヶ月というところで、それは木端微塵に砕かれた。

 プログラムに選ばれてしまうという――二人が最も望まない形で。

 

[残り7人]

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