今、なすべきことは

 

 長い、長い話だった。彼が語った時間は、実際のところ数十分程度だっただろう。しかし、体感的にはそれよりもずっと長く、そして重く感じられた。今から一年ほど前の話。ここにはいない、あるクラスメイトの話。全てを知った今、洪水のように襲ってくるのは、耐え難い衝撃と、切り裂かれるかのような痛みだった。

 須田雅人(男子9番)は、全てを話し終えた後、疲れたように長く息を吐く。彼のことを話したせいなのか、両腕で膝を抱え、体育座りのような体勢で、小さく身体を震わせていた。その横顔はどこか辛そうで、目にはうっすら涙が溜まっている。

 

「……そん……な……」

 

 今し方雅人の話したこと。半分は理解でき、半分は信じられなかった。自分と同じ理由で、ここに来た人が二人もいたこと。そのために、彼らが人知れず努力していたこと。そして――結果的に報われなかったということ。

 

 話を聞き終えて橘亜美(女子12番)が思ったことは、二人に対する一種の“共感”。そして田添祐平(男子11番)に対する――深い悲しみの感情だった。

 

 亜美が特待生で居続けるために勉強していたのと同じように、雅人は積極的に役員を引き受けることでそれにしがみついてきた。努力の方向性は違っていたけど、目指すところは同じだった。そのせいだろうか、雅人のことは、思ったよりもすんなり受け入れることができた。今思えば、その張本人が目の前にいて、まだその努力が完全には無駄になっていないことで、安心していたのかもしれない。

 しかし、祐平のことは、与えられる衝撃がけた違いだった。亜美と同じように親に頼まれて私立に進学し、そして自分らのために親は一生懸命働いていた。それが裏目に出て、一家の大黒柱がいなくなり、必然的に彼が親代わりをしなくてはならなくなった。本来真っ先に出る「私立の学校を退学し、公立へと編入し直す」ということができない以上、学校を休んでまで働かなくてはならなくなった。中学生が働くなんて、亜美からすれば信じられないことだ。けれど、彼にはその選択肢しか選べなかった。

 両親がどれだけ頑張っているか。どれだけ身を粉にして働いているのか。間近で見てきただけに、他人事とは思えなかった。一歩間違えれば、自身が祐平と同じような状況になっていたかもしれない。そうなった場合、彼と同じような選択をした可能性だって、ゼロじゃない。

 そうしてでも、祐平と同じように、この学校にしがみついていただろう。

 

『俺は、まだ死ぬわけにはいかないんだよ!!』

 

 あの言葉の本当の意味。それを理解した今、ズシンと心に重くのしかかる。本当に、彼は死ぬわけにはいかなかったのだ。一家の大黒柱として、病気がちな母親と、まだ幼い弟たちを置いていくことはできない。だからこそ、プログラムに参加することだけは、絶対に避けなくては。あの瞬間、彼はそう思ったに違いない。

 プログラムに乗って優勝すればいいじゃないかと言われれば、それは違う。親が、どうして高いお金を払ってまで私立に行って欲しいと懇願するのか。その真意まで知っていれば、プログラムに乗るという選択肢は選べないのだ。死んでほしくない。それと同じくらい――人を殺してほしくない。矛盾した願いを両方叶えるには、選ばれないことが絶対条件となってしまうのだから。

 

「田添は……本当に死んじゃいけなかったんだ……。だから……俺は何とかして止めたかった……。でも……結果的にはそのせいで……」

 

 両腕で膝を抱えたまま、呻くように雅人は呟く。辛そうな表情から、悔しそうな表情へ。思い切り噛んでしまったのか、唇からは一筋の血が流れ落ちた。

 誰かを憎むのではなく、無力な自分を責める――そんな苦痛に満ちた表情。

 

「本当に……ずっと頑張ってて……。朝は新聞配達、夜は居酒屋……。家にいるときは、お母さんの看病をして、弟たちの面倒も見て……。だから、学校に来れなくても無理はなかったんだ……。すごく辛かったはずなのに、弱音一つ吐かなくて、俺のこと心配して……。自分だってそんな場合じゃないはずなのに……人のことばかりで……。俺は……勉強とかそういうことしかできなくて……役に立てなくて……。それでも、田添はいつも礼を言ってくれて……励ましたりもしてくれて……。俺は……何もしてやれていないのに……」

 

 懺悔するかのように、零されていく言葉。自身を責め、なじる言葉。それが己を切り刻むものだと知りながら、それでも雅人は言葉を続ける。

 

「俺だって死ぬのは嫌だ……! それは今でも変わっていない……。でも、田添は嫌とかそれ以前に、死んじゃいけなかったんだッ……! あいつには待っている家族がいて、田添がいないと、お母さんも弟たちもどうなるのか分からないのにッ……! 俺が……俺が何としてでも、止めなくちゃいけなかったのにッ……!」

 

 いきなりダンッという音がしたと思ったら、雅人が拳を地面に叩きつけていた。草の生えている土の上だったせいか、音はそこまで大きくない。けれど、悔しさを証明するかのように、その地面にはうっすら拳の跡が残っていた。

 

「本当なら、家族のために、優勝を目指したってよかったんだッ! けれど、俺がいたから……俺が死にたくないって知ってたから……だから何とかして止めようとして……ッ! 俺があんなこと言ったから……そのせいで田添は……ッ!」

 

 雅人の目から、大粒の涙が零れ落ちる。そのまま膝の上に雫が落ち、それがいくつもの筋となっていく。そのうちのいくらかは、地面へと流れ、土を丸く濡らしていく。

 

「結局何もできなくてッ……! 死なせて……。それでも、俺はまだ生きていて……! 何としてでも……田添を死なせちゃいけなかったのに……ッ!」

 

 涙と共に嗚咽が零れ、吐き出す言葉の端々に荒い呼吸音が混ざる。それでも息を整えないまま、感情のままに雅人はこう言い切っていた。

 

「あのとき……死ぬべきなのは……俺の方だったのにッ……!」
「それは違うッ!!」

 

 最後の言葉を聞いた瞬間、考える前に言葉が出てきた。それは、亜美自身もほとんど経験のない、感情のままに発した素直な気持ちだった。

 亜美がいきなりそんなことを言ったせいか、雅人は泣きながら目を丸くしていた。そんな雅人を見ながら、少しだけ息を整え、今度は考えた末の結論を口にする。

 

「間違ってない……。二人がやったことは……絶対間違ってない……。結果的に田添くんが死んだとしても、それは須田くんのせいじゃない……」
「でも……俺が止めたいなんて言わなければ……」
「じゃあ……須田くんが田添くんの立場だったら……?」

 

 亜美の質問に、雅人は何か答えようとして――そのまま口を噤んでいた。

 

「多分、田添くんもそう。私だって、そうよ。須田くんは、須田くんなりに、死なないように、みんなが生きられるように必死だっただけじゃない。そんなの、田添くんじゃなくても、みんな分かってる。そんなあなたを、一体誰が責められるの……?」
「そう……かもしれないけど……。でも……もっとうまいやり方――」
「ないわよ」

 

 なおも自分を責め続ける雅人に向かって、亜美は切り捨てるかのように、はっきりと否定の言葉を口にした。

 

「そんなの、どこにもない。誰がどう動こうと、プログラムは行われていた。あなた達がやったことは、あのときできる唯一の抵抗だった。それがダメなら、もうどうしようもない。そして、ダメかどうかは、実際にやるまで分からない」

 

 頭で描いても、実行しなければ、本当の結果は分からない。実行しないで決めつけるのは、利口なようで臆病なだけかもしれないと、今になって思う。あのとき、亜美は止められないと判断し、沈黙を守った。亜美が言わずに諦めたことを、彼らは実現するために行動に移した。結果がどうであれ、行動そのものを責める資格は誰にもない。当の本人ですらも。

 

「私たちは、親や周りの協力がないと生きていけない子供なの。だから、できることなんてたかが知れてる。増してや、相手は国なの。担当官の言っていた通り、今まで中止した事例はない。なら、きっと何度やっても同じ。冷めたこと言うようだけどね」

 

 だから、あなたのせいじゃない。そう含ませるように、優しく言葉を口にする。その意図が伝わったのか、雅人はそれ以上何も言わなかった。俯いて、静かに涙を流しながら、きっと色んなことを考えている。教室でのこと。これまでのこと。そして――これからのことを。

 

『もう一人……いたんだ……。俺と同じ理由で、ここに来た人が』

 

 今になって、どうしてこんな話をしたのか。ようやく分かった気がする。雅人は、決して同情してほしかったわけでも、慰めてほしかったわけでもない。ただ“共感”してほしかったのだ。祐平が死んではいけなかったこと。あの言葉の本当の意味。そして、彼のこれまでの努力。それを話せる相手、そして理解してくれる相手を欲していたのだ。祐平が死んだことで、色んなものが重くのしかかって、次第にそれが増して、一人では耐えられなくなっていたのだ。けれど、誰にも言わないでほしいと頼まれた手前、今まで誰にも言えなかった。

 みすみす死なせてしまったという罪悪感。その原因が自分の発言のせいだという後悔。自分がまだ生きているという事実。そして、死なせてしまってなお、自身は死にたくないという願望。もしかしたら、雅人は非難されることを望んでいたのかもしれない。

 けれど、それは違う。それを、祐平は望んでいない。同じ理由でここに来たからこそ、そう断言できる。

 

――もう、田添くんはいない。どんなに後悔しても、彼は戻ってこない。だから、今須田くんがするべきことは、後悔することじゃない。

 

 死にたくないのは、変わらない。なら、死なないために尽力しろ。きっと彼はそう言っている。死んでしまった自分のことより、今生きている雅人自身のことを優先するべきだ。約束なんて、互いに生きているからこそ有効なのだから。もしそれが雅人を苦しめるのなら、そんなのは破ってしまって構わないと。

 

――ただ、後悔はしないにしても、これからどうしたらいいのかは……まだ……

 

 過去のことは、いくら考えても答えは出ない。全ては、本人の受け止め方次第だ。けれど、今後のことについては、いつかは何らかの形で答えを出さなくてはいけない。死にたくないのなら、プログラムを止めるか、優勝を目指すしかない。止めることは、これまでのことを考えるとおそらく不可能だ。なら、人を殺してでも生きるのかと言われれば、それはきっと雅人にはできない。あんなに混乱して、銃口を向けても、彼は最後まで引き金を引けなかった。きっと根本的に、誰かを傷つけられない人なのだ。

 いや、雅人だけではない。亜美にしても、東堂あかね(女子14番)にしても、人の命を奪うことには抵抗がある。一日半以上経過して、幾度も悲惨な目に遭い、命も狙われているのに、人を殺すことにまだ躊躇いがある。道徳的には正しくて、人としての矜持は保てている。けれど、プログラムにおいて、ある種の足枷になっていることも――また事実。

 これから、どうすればいいのだろう。その答えは、簡単なようでとても難しい。必要なのは、答えを導く頭脳ではなく、他の選択肢を切り捨てる――覚悟に他ならないのだから。

 

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 須田雅人(男子9番)は、必死で考えていた。教室でのこと。今までのこと。そして――これからのこと。

 

 橘亜美(女子12番)の言ったことは、おそらく真実だと思う。もしこの場に田添祐平(男子11番)がいたら、きっと同じことを言っていた。そういう人だと知っていた。だからこそ、余計に罪悪感に苛まれていた。あのとき、何かできたのではないか、と。

 

『そんなの、どこにもない。誰がどう動こうと、プログラムは行われていた。あなた達がやったことは、あのときできる唯一の抵抗だった。それがダメなら、もうどうしようもない。そして、ダメかどうかは、実際にやるまで分からない』

 

 亜美は、雅人のことを非難しなかった。むしろ、慰めてくれた。その言葉に、どこか救われたのは事実だ。けれど、それで全てが晴れたわけではない。心の奥底では、変わらず何か重いものがのしかかっている。

 

 それは、亜美が違うと否定したもので、祐平が捨てても構わないと言ってくれているもので、そして雅人自身が勝手に背負い、勝手に抱いている――負の感情だ。

 

 きっとこれらは、誰が何を言っても消えることはないのだろう。けれど、それに囚われ続けて何もしないのは、生き残りたいがために無差別に人を殺すことと同じくらい、彼のことをないがしろにしているようにも思えた。

 生きたい。けれど、誰も殺したくない。それは、今でも変わっていない。なら、自分はどうするべきなのだろう。

 

『俺はもう、いないんだから』

 

 ふと、視線を亜美の右後方へ向ける。こちらを向いている亜美にとっては、死角ともいえるその場所に。別に、何かを察したわけではない。ただ、何となく。そう何となく、その方角に視線を向けただけ。

 人が、いた。涙で視界が歪んでいるせいか、誰かは分からない。けれど、この状況下で考えれば、その人はクラスメイトの誰かなのだろう。自分らを除いた、残り八人の誰か。

 視界が歪んでいるから、その人が何をしようとしているのか分からない。けれど、直感的に何か、そうとてつもなく何か――悪い予感がした。

 それは、その人物の手らしきものが上がっていくのを見て、確信へと変わる。

 

「橘さんッ!!」

 

 その瞬間、雅人は亜美を押し倒していた。女性を勝手に押し倒すなど男としてあるまじき行為だが、そんなことは完全に頭の中にはなかった。相手が死角にいるせいで何が起こっているのか分かっていないであろう亜美は、「えっ?」と戸惑い、突然のことだったせいか、雅人のなすがままに地面へと倒れ込む。

 亜美を庇うような形で雅人が覆い被さった瞬間、どこか聞き慣れたタタタタッという音が、激しく鼓膜を揺らす。何度も聞いたその音に身体は震えるし、逃げ出したくなったが、それよりも亜美に弾が当たらないようにしなくては。震える身体を気持ちで無理矢理押さえつけ、銃声が鳴り響く間、雅人は微動だにしなかった。その間、背中を弾が掠めたのか、チリッとした痛みが断続的に襲う。

 

「今のって……!」

 

 雅人の行動の意図が分かったのか、亜美の視線は音のした方向へと向けられていた。

 今の銃声だけでも分かる。一体何が起こったのか。先ほど視界に映ったその人が、自分らにとってどういう存在か。

 そして、今のこの状況が――最悪だということも。

 

「よう、雅人」

 

 銃声後の静寂に響く、聞き慣れた声。一年の時から、何度も何度も聞いた声。この三年間、一番近くにいたクラスメイトの声。

 

「お前、いつから女を押し倒せるほど偉くなったんだ?」

 

 この状況で発するものとは思えないほど、軽い口調。いつもの彼とは似ても似つかない、どこか人を小馬鹿にしたかのような話し方。聞き慣れていながら、どこか聞き慣れない――友人の声。

 それが、彼が今までひた隠しにしてきた本性なのだと気づくのに、さほどの時間はかからなかった。

 

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