“ありがとう”

 

「須田くんッ!!」

 

 ぼんやりと届くその声を聞きながら、須田雅人(男子9番)は思った。視界はモヤがかかったかのように不明瞭だし、身体は指先一つ動かせない。背中からは、本来多少なりとも痛みを感じるはずなのに、まるで麻酔にかかったかのように全ての感覚が存在しない。加えて、耳をつんざくほどであろう大声が、まるで遠くから呼びかけられているかのように、小さく聞こえる。

 

 ああ、きっともう――助からないのだと。

 

「や、やだ……ッ! 須田くんッ! 須田くんッ!!」

 

 うつ伏せに倒れたまま、誰かの声を聞いた。顔すら上げられないから、その声が東堂あかね(女子14番)であることと、切迫したような声色であることしか分からない。こんなに近くにいるのに、呼びかけられる声は、やはりとても小さく聞こえる。いつもはハキハキと話す彼女の声が、こんなに小さく聞こえるのは初めてだ。

 それでも、聞き取れるだけマシなのかもしれない。心のどこかで、そんな諦めに近い気持ちを抱いていた。

 

「救急箱、持ってきたッ!」

 

 少ししてから、あかねとは別の声が――橘亜美(女子12番)の声が聞こえる。あかねとは違う、少しだけ低い声。いつもは落ち着いているその声も、焦ったかのようにどこか上ずっていた。

 

「ほ、包帯……! いや、その前に消毒……」
「とにかく、まずは止血しないとッ!」
「う、うん……。な、何か大きい布みたいなので傷口……ああッ! いつもなら、部活用に予備のTシャツを鞄に入れているのに……!」

 

 救急箱を漁るガサガサという音と、冷静さを欠いた二人の声。こんなに近くでやり取りされているのに、やはり声はどこか遠いところでなされているかのように、小さく聞こえる。

 そんな二人のやり取りを聞きながら、雅人は口を動かそうとした。もう、いいから。包帯、もったいないから。それに、俺はもう――

 雅人がそう言うことを予感したのか、こちらが口を開く前に、少しだけ大きな声が耳に届いた。いつも聞いていた、聞き慣れた彼女の声が。

 

「だ、大丈夫だからッ! 絶対助けるから! 助かるからッ! だから――」

 

 “頑張って”。そう、あかねは言いたいのだろう。けれど、涙が止まらないのか、しゃくりあげる声だけが耳に届いている。彼女が伝えたい想いは、言葉ではなく嗚咽として、その口からこぼれ落ちていく。

 

 雅人だって、本当はそう信じたい。けれど、二人だって、ここまでプログラムを生き抜いてきたのだ。遺体も見てきただろうし、少なくとも田添祐平(男子11番)が死ぬところは目の当たりにしている。理解したくなくても、受け入れたくなくても、心のどこかでは分かっているはずだ。

 それでも、二人は必死に雅人を治療しようとしている。そんな現実を受け入れたくなくて、助かるかもしれないという希望を捨てたくなくて、全力で目を逸らしている。どんなに適切な治療を施したところで、訪れる未来が変わらないことからも。

 叶わない希望を抱くのは、当人よりもその周りなのだと、どこかで読んだような言葉をふと思い出していた。

 

「身体を……仰向けに……してくれないか……?」

 

 けれど、それではきちんと別れを告げられない。いくら足掻いたところで、自分はここで終わるのだ。なら、残されてしまう二人に、せめて何か伝えないと。罪悪感や後悔で、胸を痛めることがないように。

 しゃくりあげて泣く声と、かすかに唾を飲み込む音が聞こえる。少ししてから、背中に何かがかけられた。それから左から首に腕が、右からは地面とお腹の間に手が差し込まれる。傷ついた背中を避けているかのように、その動きは緩慢で、とても慎重だった。

 そのまま、ゆっくり身体が右に回る。百八十度回ったところで、視界が開けたのがぼんやりとしていても分かった。灰色の空と、右には心配そうにのぞき込む顔、左には泣きじゃくる顔が映し出されている。何かがかけられたおかげか、草が生えているはずの地面の感触は、背中からまったく感じられなかった。ああ、違う。もうその感覚すら失われているのだ、きっと。

 

「あり……がとう……」

 

 身体を起こしてくれた亜美に向かって、拙いながらもお礼の言葉を口にする。雅人の言葉に、彼女は小さく首を振った。首を振った後、亜美は何か言いたそうに、少しだけ口を開く。けれど、結局彼女は何も言葉にすることなく、そのまま口を閉じた。

 “どうして私を庇ったの”。そんな疑問を口にしたところで、雅人が理論的な答えを持ち合わせてはいないことを、おそらく彼女も分かっているのだろう。

 

「だい……じょうぶ……。きっと……大したこと……ない……。少し休めば……きっと元気に……。だから……だからッ……!」

 

 何も言わない亜美とは対照的に、あかねは泣きじゃくりながら励ましの言葉を口にする。それはおそらく、本心からそう思っているのだろうが、同時に言い聞かせているかのようにも思えた。諦めそうになる自分を、受け入れてしまいそうになる自分を、彼女は感情で拒絶している。

 それは、辛い現実から目をそむけ、楽しい夢を見る小さな子供のようだ。言葉を選ばないなら、ただの我が儘でしかない。けれど、なぜか同時に、とても純粋で偽りのない、尊いもののようにも思えた。言葉通りにならないと分かっているのに、その言葉に嘘はない。少なくとも、彼女は嘘にしたくない。心から、本当のことにしたいと願っている。

 心のどこかで理解している現実を思って泣き、かすかな希望を糧に言葉を紡ぎ、励ますかのように笑おうとして、でもそれはできていなくて。その全ての感情を映し出している表情は、何と言っていいのか分からないくらいグチャグチャだった。

 

――ああ、なんて……

 

 どう言葉をかけていいのか、分からない表情をしているはずなのに。それ以前に、視界そのものが不明瞭であるはずなのに。いつもとは違う彼女の表情が、グチャグチャな表情のまま泣き続けている彼女が、なぜかいつもより――

 

――綺麗、なんだろう……

 

 こんなに泣いている顔なんて、見たことがない。いつも笑っていたから、こちらの気持ちが明るくなるような表情しか見せたことがなかったから、こんなに悲しい表情の彼女は、プログラムが始まるまで見たことがなかった。あのときと同じように、自分のせいで彼女が泣いているのかと思うと、とても申し訳なく思う。けれど、同時にあのときとは違う何か別の感情が、自分の胸を焦がしていることに気づいた。

 こんな感情、今まで抱いたことがない。それはきっと、東堂あかねというクラスメイトが、雅人にとっては、クラス委員の相棒であると同時に、有馬孝太郎(男子1番)とは別の意味で“尊敬するクラスメイト”だったからだ。憧れの対象として、そして一人の人間としてずっと見ていたから、彼女を“女の子”だと意識したことはない。増してや、たった一人の異性に対して抱く――恋の相手としては、とても。

 それは、あかねをそういう対象として見られなかったわけではない。ずっと、そういう気持ちを抱けるほど、自分に余裕がなかったからだ。一人の異性を、特定の相手に対して抱く思慕を持ち合わせるほど、自分に自信がなかったからだ。

 

 もし、仮に――もう少し、自分に自信があったなら

 もう少し、君のことを違う目線で見られていたら

 俺は――君を好きになることができたのだろうか

 

 そしたら――何かが変わったのだろうか……?

 

「須田……くん……」

 

 消え入りそうな彼女の声を聞きながら、わずかに抱いた感情を振り払った。もしもの未来を想像したところで、もうすぐ死んでしまう雅人にとっては関係ない。仮に好意を抱いていたとしても、今となっては伝えることすら残酷だ。

 あったかもしれない未来に想いを馳せるより、すぐに訪れる現実の方が、今はずっと大事だ。もうすぐいなくなってしまう自分が、これからも生きる彼女らに、わずかな時間で伝えるべきことは何だろう。後悔を抱くことなく、雅人の死に心を痛めることなく、彼女らにはこれから先も生きてほしいと願う。けれど――

 

――どんな言葉をかければいい……?

 

 「ごめん」なんて言ってしまえば、二人に罪の意識を背負わせてしまう。

 「生きて」なんて言ってしまえば、暗にどちらかの死を願うことになってしまう。

 

 多くを語る時間はない。そして、下手な言葉は却って追い詰めてしまう。善意の言葉だとしても、彼女らを傷つけてしまえば、それは呪詛の言葉を吐くのと同じだ。

 だから、二人に言うべき言葉は、これくらいしか思いつかなかった。頭の回転も遅くて、気の利くような言葉をかけられるほど口が達者でもない自分が、今二人に言いたいことは――

 

「あり……がとう……」

 

 精一杯の、感謝。ありふれた、お礼の言葉。これまでの人生で幾度となく口にした、先ほども口にした、これまであかねには助けてもらうたびに何度も伝えた、たった五文字の素直な気持ち。

 

「「えっ……」」

 

 ほぼ同時に、二人はそう呟いていた。いきなり、何の前触れもなく、お礼を言われるなんて、彼女らは思ってもみなかったのだろう。

 

「な、なんで……。なんでお礼なんか言うの……?」

 

 嗚咽混じりの声が、泣きながらそう呟くあかねの声が、耳に届く。だから、言葉を続けようと思った。

 

 でも、本当のことなんだ。さっき言った通り、二人がいなかったら、きっと俺はどこかで死んでいた。こんな風に、穏やかに、誰かに看取られることなく死んでいたから。ずっと一人で、誰とも分かり合えなくて、どんどんみんながいなくなって、仲間も何もかも心のどこかで諦めていた。そんな中で、俺と同じ考えの人がまだいたことが、本当にとても嬉しかったから。迷っていた俺を、銃を向けた俺を、真正面から受け止めてくれた。ずっと抱え込んでいた痛みを、黙って聞いて、諭してくれた。だから、俺はこうして笑って死んでいける。

 けれど、それは言葉として紡がれることはなかった。口からはヒューヒューという掠れた音が零れるだけで、とても言葉としては成立していない。呼吸もままならない状態であるせいか、もはやしゃべることもできないらしい。

 

「須田くん……。私……私はそんなお礼を言われるようなことは……」
「そんなこと……。お礼を言わなくちゃいけないのは……私の方なのに……」

 

 雅人の言葉の意図を汲み取れないせいか、二人は同時に疑問を口にしていた。そうだろう。彼女らは、特別なことをしたとは思っていないのだから。いつもより必死で、いつもより重い話を聞いて、そして自身が思ったことを口に出しただけなのだから。

 そのひたむきさが、偽りではない本心が、雅人にとっては何よりも救いだった。だからこそ、守りたかった。死なせたくなかった。救ってくれた恩に、少しでも報いたかった。

 だから、何一つ後悔はない。プログラムに選ばれてしまったけど、たった十五年しか生きられなかったけど、守りたい人を守れた。こうして後悔することなく、絶望することなく、穏やかに最期を迎えられるのは、二人のおかげ。

 孝太郎を殺さなかったことで、これから二人には辛い思いをさせるかもしれない。そのことに関しては、本当に申し訳なく思う。それでも、これからも二人には生きてほしい。けれど――

 

――プログラムのルール上、二人一緒は生き残れない。けれど、俺はやっぱり二人とも生きていてほしい。きっと、二人は一緒がいい。どちらかが欠けても……ダメなんだ……。

 

 あかねには、まだ友人がいる。けれど、もう誰が死んでもおかしくない状況だから、今も生きているとは限らない。だから、今この瞬間、一緒にいてくれる仲間が、きっと何よりも大切だと思う。

 それに、きっといいコンビだとも思う。タイプは全然違うけど、二人は仲がいいわけではなかったけど、今は自分と同じ考えをもつ仲間なのだから。

 

――だから、できるだけ長く……一緒に入れますように……。いつか別れる時が訪れたとしても、二人にとって後悔のないように……。

 

 左手が、何か温かいものでギュッと握られる。ああ、手を、つないでくれているのか。少しでも長く、こちらにいられるように。

 

「あり……がとう……」

 

 次いで聞こえたのは、小さな小さな囁くような声。それでも、なぜか今までで一番はっきり耳に届いていた。聞き慣れた彼女の、今まで聞いたことのないような――か弱く小さな、けれどとても綺麗な声で。

 もはや固まってしまったかのようにぎこちない首を動かして、視線をあかねに合わせる。先ほどまでどこか不明瞭だった視界は、まるで霧が晴れたかのようにはっきりとしていた。視界いっぱいに映る彼女の顔は、やはり涙でグチャグチャで、それでも必死で笑顔を作ろうとしているのがよく分かる。嗚咽が止まらないながらも、何とか言葉を紡ごうと、必死で口を動かしている。

 きっと、これが最期に見る光景になる。最期の光景としては申し分ないほど――綺麗だ。

 

「私こそ……ありがとう……。私……須田くんに、会えてよかった……。一緒にクラス委員をやれてよかった……。私と同じ考えで、私と同じ気持ちで、本当に嬉しかった……。だから……」

 

 聞こえる言葉に、思わず顔が綻ぶ。ああ、そう思ってくれていたのか。彼女は、ちゃんと対等に見てくれていた。利用するわけでもなく、心の中で蔑むわけでもなく、ただ同じ一人の人間として。

 諦めたわけではない。けれど、言いたいことは伝えておかないと。希望を信じて惜別のような言葉を伝えないより、信じたままでも伝えることを選んだ。躊躇うことなく何でもやってみる、実に彼女らしい行動だ。

 

――俺は……そんな君の力に……少しはなれただろうか?

 

 その目から零れ落ちる涙を拭うことすらできないけど、それでも少しは君の救いになっていれば。

 もし、自分の死が、彼女の枷になってしまうのなら、忘れてしまって構わないから。

 だから――どうか、彼女がこれ以上辛い思いをしないように。できれば、彼女らが二人とも――

 

『無事だよ』

 

 白く霞んでいく彼女の顔を見ながら、静かに目を閉じながら、ふとあることを思い出していた。プログラムが始まって、教室を出て、ずっと気がかりだったことを。だからこそ、なりふり構わず電話で聞いたことを。今の今まで忘れていたけど、とても大事なことを。

 

――そうだ……。俺、お前に言わなきゃいけないこと……あったんだ……。

 

 彼が一番心配していること。それは、大丈夫なのだと。あのとき聞いた答えを、自分からはっきり伝えなくては。

 だから、そろそろ行かないと。二人が、いつまでもここに留まることのないように。待ってくれているであろう彼の元へ、一刻も早く追いつくために――

 

 呼びかけられる言葉に、返事はない。泣きじゃくるあかねの声が、彼の耳に届くこともない。ほどなくして、音もなく、言葉もなく、ただ力の抜けた左手が、あかねの手から滑り落ちる。その変化に二人がハッとし、そして懸命に呼びかけた。けれど、その声に返事もなければ、視線を向けてくれることも、目を開けてくれることもない。泣きじゃくるあかねの声にも、必死で身体を揺すっている亜美の動きにも応えることなく、須田雅人は、一人静かに息を引き取った。

 どうなるか分からないその先に、一人の“友人”が待っていることを――信じて。

 

男子9番 須田雅人 死亡

[残り6人]

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