生きていくために

 

 あれから、一体どれだけの時間が経ったのだろう。

 

「うっ……うう……。ひっく……」

 

 喉の奥から絞り出すかのような悲痛な声は、変わらずずっと耳に届いている。あれからどれだけの時間が経過したかなんて、彼女の――東堂あかね(女子14番)の頭には欠片もないのだろう。もう動かない遺体に縋りながら、堪えきれない感情を吐き出すかのように、彼女はずっとそうしている。

 橘亜美(女子12番)は、なんて声をかけていいのか分からず、泣いているあかねを見ていることしかできなかった。ただ、そうしながらも、周囲への警戒は怠らなかった。

 

――銃声もした。いつ、誰がここに来てもおかしくない……!

 

 須田雅人(男子9番)のおかげで、亜美とあかねは、有馬孝太郎(男子1番)に殺されずにすんだ。しかし、怪我こそ負ってはいるものの、孝太郎はまだ生きている。もしかしたら、今この瞬間にも、亜美たちを殺しに戻って来ているのかもしれない。そうでなくても、彼の持っていた二つのマシンガンと一つの拳銃は、今も十メートルほど先に転がっているのだ。ほとぼりが冷めた頃に、取りに来る可能性だってある。

 いつまでも、ここにいるわけにはいかない。留まったことで孝太郎に、あるいは別の誰かに殺されてしまっては、雅人の行為は全て無駄になってしまう。

 意を決して、あかねの近くまで歩み寄り、腰を下ろして、泣き続けている彼女の肩に、そっと手を置く。亜美の行動に、あかねは一瞬ピクリと反応したが、返事をすることも、顔を上げることもしなかった。

 

「……東堂さん。そろそろ……移動しないと……。銃声を聞いた誰かがここに来る……」

 

 できるだけあかねが聞き入れやすいように、言葉を選んで、優しく声をかける。青奉中学に入ってから、なるべく人と関わってこないように生活してきたから、どんな言葉が正しいのか分からない。何度も考えて、迷った末に選んだ言葉は、何の変哲もないありきたりなものだった。

 けれど、そんな亜美の言葉に、あかねは返事をしなかった。それどころか、顔を上げることもなく、何か反応を示すこともない。先ほどと変わらず、雅人の遺体に縋りついたまま、ただ泣き続けている。

 こちらの声は、聞こえているはず。なのに、何も返さないのは、ショックが大きいからだろうか。日常の中でなら、好きなだけ泣かせてあげられるけど、今はいつ殺されてもおかしくないプログラムの最中。元凶である孝太郎が生きている以上、それはいつ起こってもおかしくない。それに、冨澤学(男子12番)細谷理香子(女子16番)といった、確実にやる気の人間も存在しているのだ。

 心を鬼にして、もう一度声をかける。とにかく、早くここから移動しないと。

 

「東堂さん……。気持ちは分かるけど、須田くんの行為を無駄にしないためにも、早くここから移動しないと……」

 

 また、返事はない。けれど、泣きじゃくる声が小さくなっていくのが分かる。感情を整理しようとしているのだろうか。それならいいけど、もっと別の理由だとしたら――

 いや、今はとにかく、ここから移動しないと。焦りを感じた亜美は、また同じ言葉を口にした。

 

「東堂さん……。とにかくここから――」
「……行かない」

 

 静かに、けれどはっきりと聞こえた彼女の声。端的で、冷たく、そして今まで聞いたことのない――低く沈んだ声。

 そんな彼女の言葉に、しばし絶句する。言った内容よりも、彼女の声色があまりに違っていたからだ。悲しいとか辛いとか、そんな感情を通り越した、諦めと絶望が滲み出た声。先ほど孝太郎から向けられていた悪意よりも、ある意味で恐怖を覚えるものだった。

 

「い、今……なんて……」
「行かない。私は、ここにいる」

 

 先ほどよりも、はっきりとした声。告げられたのは、同じ内容。まるで生きることを諦め、暗に死にたいと告げているかのような――後ろ向きの言葉。

 顔を上げないまま、泣き続けたまま、彼女は確かに拒絶を示した。

 

「で、でも……このままここにいたら……」
「いいよ、別に。このままここで死んだって」

 

 自虐的な言葉。本心から発せられたものだと分かるだけに、返す言葉が浮かばない。顔は上げず伏せたまま。そして泣き声は――もう聞こえない。

 

 客観的に見ても、このプログラムで、彼女に起こった不幸はあまりにも多すぎる。友人や幼馴染を多く失い、さらに目の前で信頼できる仲間を失った。友人から殺意を向けられ、温厚なクラスメイトの明確な悪意を目の当たりにした。人数もここまで減ってしまった。殺し合いを望んでいない彼女からすれば、クラスメイトが死ぬことを恐れている彼女からすれば、今のこの状況はまさに“絶望”といえるものかもしれない。

 そう考えれば、この反応は決しておかしくない。むしろ、ここまで折れなかった方が、不思議なくらいなのかもしれない。真っすぐで、とても純粋な人ほど、一度折れてしまうと脆いものなのかもしれない。

 それでも、ここで彼女を死なせるわけにはいかない。本人が死ぬことを暗に望んでいたとしても、、楽になりたいと願っていたとしても、今ここでは――決して。

 肩に手を置いたまま、できるだけ優しい声で、亜美は再度説得を試みた。

 

「でも……加藤くんとか、辻さんを探さないと……。前も言ったけど、私一人じゃ……」
「そんなの……もう無理だよ……」

 

 亜美の言葉を遮るかのように、あかねは無理だと断言する。それは、諦めの境地なのかもしれないが、それにしても断言する理由が分からない。まだ、二人は名前を呼ばれていない。遺体だって見ていない。確かに銃声はした。けれど、それに彼らが関与している確信があるわけでもない。

 

「無理って……そんなの分からな――」
「分かるよ……! だって、有馬くんが持ってたマシンガン。加藤くんが持っていたものと同じだもん……!」

 

 顔を上げたあかねに思わぬことを言われ、しばし頭が真っ白になる。確かに孝太郎は、マシンガンを二つ持っていた。一つは彼自身に支給されたものだとしても、もう一つは別の誰かのものを奪った。そして、あかねの話では、加藤龍一郎(男子4番)にはマシンガンが支給されている。

 けれど、分かっているのはそれだけだ。あれが、龍一郎のマシンガンだったという確証はどこにもない。

 

「そ……そんなの……分からないじゃない……。だって、前に加藤くんが持っていたものを見たときは夜で、明るいところでマジマジと見たわけじゃないんでしょ? 似たものだったかもしれないし、仮に同じものだったとしても、殺されたとは限らな――」
「間違いないよ……! あんな怖いもの、一度見たら忘れられない……。あれは、加藤くんが持っていたマシンガンだよ……。それに、さっきの有馬くん見たでしょ? あの態度見てたら、殺して奪ったとしか思えない……」

 

 筋の通ったあかねの言葉に、反論できない。確かに、あかねは龍一郎に一度会って、彼の支給武器を見ている。マシンガンのような武器が、そんなに多く支給されているとも思えない。一度見たあかねが断言しているのだから、あれが龍一郎のマシンガンである可能性は極めて高いと考えるべきなのだろう。そして、孝太郎の性格上、殺して奪ったと考えるのが妥当だ。彼は、雅人を含めて少なくとも五人は殺している。今更、殺さずに逃がすという手段を取るとは思えない。以前会った弓塚太一(男子17番)にしても、死ぬと分かっていたからこそ放置していたのだから。

 それでも、それはあくまで可能性が高いという話でしかない。龍一郎なら、うまく逃げられたかもしれない。マシンガンは、彼ではない別のクラスメイトの持ち物だったのかもしれない。そもそも、龍一郎と孝太郎は、直接会っていないかもしれない。

 確固たる証拠でもない限り、いくら可能性が高くとも、推論は推論。結論づけるのは、まだ早い。なぜなら、龍一郎の名前は、まだ放送で呼ばれていないのだから。

 

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃない……。そうだとしても、今はここから移動しないと……。でないと、須田くんが――」
「ほっといてよ……。行きたかったら、橘さん一人で行けばいいじゃない……。須田くんも、加藤くんもいなくなったんだよ……。もしかしたら、結香ももういないかもしれないじゃない……。こんな状況で説得とかどうにかするとか……」

 

 今までの彼女からは考えられないような、突き放したかのような言葉。その言葉とは裏腹に、声は震えている。見えない迷路に迷い込んで、二度と出られないといった――どうしようもない状況に、諦めを抱いているかのように。

 

「もう、もう……無理なんだよ……。それに……もう……疲れたよぉ……!」

 

 止めていたはずの涙を再び流しながら、彼女はそう喚いた。小さな声で、けれど誰にでも聞き取れてしまうほど、はっきりと。

 

「もう……ここにいたくないの……! もう、みんながいなくなるのを見たくない……! どうせ、一人しか生き残れない! なら、もうここで死んだ方が……!」

 

 ボロボロ泣きながら、あかねは叫ぶ。亜美は、それを黙って聞いていた。そのせいか、彼女の言葉は留まるところを知らない。泣きながら、喚きながら、彼女は大声で感情を吐露している。

 

「仮に生き残ったとしても……みんないない……! ひとりぼっちなんだよ……! そんな状況で、生きていくくらいなら、死んだ方がいい……! その方が、ずっとずっと幸せだよ……」

 

 生きることが、死ぬことよりも辛い。ひとりぼっちが怖い。帰ったところで、何もない。全てを失って、命だけ残っていたとしても、それはもはや悲劇にしかならない。

 あかねの言葉に、亜美は何も言わなかった。

 

「それに……別に……私たち友達じゃない……。今までは、結香を説得するために一緒にいただけ……。どのみち、橘さんと一緒には帰れない……。どうせ一緒に生き残れないなら、ここで別れた方がいいよ……。それに――」

 

 泣きながら、嗚咽をもらしながら、それでも言葉は止まらない。止めようという気もないのだろう。ただ感情のままに言葉を吐き出し、泣き続けることでしか、今の彼女には――

 

「それに、私がいなくなった方が、橘さんだって――」

 

 パシン

 

 洪水のように吐き続ける彼女の言葉は、軽快な音によって止められた。あかねは、何が起こったのか分からないといった感じで、目を丸くしつつ、そっと左頬に手を触れている。予想外のことが起こったせいなのか、流れ続けていた涙は、不思議なほどピタリと止まっていた。

 少しだけ赤くなった左頬。見た目からは分からないが、きっとジンジンとした痛みが、そこから伝わってきているのだろう。現に、今の自分の右手からは、同じような痛みが届いている。

 思わず手を出してしまった――彼女の頬をぶってしまった、亜美の右手から。

 

「たち……ばな……さん?」

 

 いきなり頬を叩かれたのだから、本来口から出るのは非難の言葉であるはずだ。けれど、そんなことは頭にもないのか、ただ呆けた表情で、あかねはこちらをじっと見つめている。その瞳に、失った悲しみやぶたれた怒りといった感情はなく、驚愕と困惑だけが色濃く映し出されていた。

 亜美自身も驚くほどボロボロ泣いているのだから、それはある意味当然の反応だろう。

 

「ゆる……さない……」
「えっ…………」
「それだけは……絶対に……」

 

 亜美の言葉に反論することなく、あかねは口を噤んでいた。頬を叩かれた理由が、分からないからなのか。亜美がボロボロ泣いていることに、困惑しているからなのか。今吐いた言葉に、何かを感じたのか。

 

「今死ぬことは……。それだけは……私が絶対に許さない」

 

 いや、今心を傾けるべきところは、そこではない。今大切なことは、どんな手段を使ってでも、彼女とここから移動することだ。なぜなら――

 

「なんで……須田くんがあんなこと言ったか……分かる?」

 

 彼が、それを望んでいるのだから。

 

 亜美の質問に、あかねは何も言わず、ただ目を丸くしていた。どうしてそんなことを聞くのか分からない。そんな気持ちが透けて見えるかのような、困惑したような表情をしているだけだった。

 

「ごめんって言ったら、私たちが責任を感じてしまうから……。生きてほしいなんて言ったら、どちらかが死なないといけないと取られてしまうから。だから……ああ言うしかなかった……須田くんの気持ちが……あなたに分かる?」

『あり……がとう……』

 

 どうしてあんなことを言ったのか。亜美も、言われた時は分からなかった。けれど、今なら少しは理解できる。せっかく会えたのに、仲間になれたのに、こうして死んでしまうことで、何を残してしまうのか。それが、今後の亜美たちに、どれほどの影響を与えてしまうのか。死ぬまでのほんの数分の間に、何をすべきか。

 彼は、きっと理解していた。下手な言葉は、却って傷つけてしまうことを。かといって、何も言わないのも、同じくらいに傷つけてしまうことも。

 死に瀕していながら、彼はきっと考えたのだろう。何を言うべきか。何を言ってはならないのか。背中の傷も痛いはずで、死にたくなかったはずの彼が最期まで思ったのは、残されてしまう自分たちの――あかねのことだった。

 

「なのに……死のうとするなんて……。そんなの……須田くんの気持ちを踏みにじっているようなものじゃない……! あんな傷を負って、すごく痛かったはずなのに、そんなこと一言も言わなくて……。しゃべるのも辛かったはずなのに……一生懸命話して……! そうまでして須田くんが……私たちのために……」

 

 最期の場面を思い出して、息が詰まる。彼が何を思ってあんなことを言ったのか、全てを知ることはもうできない。けれど、これだけは確信できる。彼は、最期までこう望んでいたのだ。仲間であった二人には、生きていてほしいと。

 優勝してほしい、とは思わない。人を殺してまで、とも言わない。生きたくても、どこかで誰かに殺されてしまうかもしれない。けれど、できるなら死なないでほしい。これからも苦しい思いをするだろうけど、生きることの方が辛いかもしれないけど。それでも――できるだけ長く、できるだけ二人一緒に。

 口にはしなかったけど、きっと彼は――そう望んだはずなのだ。

 

「確かにあなたの言う通り、私たちは友達じゃない……。けれど、今は一緒にいるじゃない……。そんなあなたに死なれて、私が何とも思わないわけないでしょ……。東堂さんだって、私が死んだら嫌でしょ……。あなたが言っているのは、そういうことなのよ!」

 

 ああ、ボロボロ泣きながら喚いているなんて、みっともない。言っていることだって、めちゃくちゃだ。けれど、抑えることができない。目の前で雅人が死んで、信頼する仲間が生きることを拒絶する。そこまで深く関わってきたわけではないのに、ひどく胸が痛んで、息ができないほど苦しい。彼女の言う通り、切り捨ててしまえば生き残れる可能性は上がるのに。そんなことは絶対嫌だと、心から思う自分がいる。

 雅人が望んでいるからというのも、大きい。けれど、何より自分が嫌なのだ。彼女に死なれてしまうことが。こんな痛みを、また味わってしまうことが。

 

――ああ、東堂さんは、この痛みを何度も何度も味わってきたんだ……。

 

 こんな風に、彼女は何度も何度も心を折られてきたのだ。今まで行動できていたのは、ギリギリのところで踏ん張っていただけ。まだある希望を見て、やるべきことを認識し、何とかここまで歩いてきただけ。

 そんな彼女に、こんなことを言うのは酷なのかもしれない。けれど、どうか今だけは、踏みとどまってほしい。

 必死で守ってくれた雅人のためにも。そして、亜美自身のためにも――

 

「……そんなの……分かっているよ……」

 

 震える声で、あかねがポツリとそう呟く。止まったはずの涙が、また彼女の双眸からあふれ出していた。

 

「須田くんが……こんなの望まないことも……、私が死んだって橘さんが喜ばないことも……全部全部分かってるよぉ……」

 

 亜美に負けないほどボロボロ泣きながら、あかねはそう告げた。泣きながら、震える声で。悲しみや辛さが全て吐露されたような――感情がグチャグチャに混ざりあった声で。

 

「でも……でも……辛いの……! どんどんみんながいなくなっていくことが……とても辛いの……! 死んだほうがマシだって思うくらい、辛くて辛くて仕方がないの……! だって……友達がどんどん死んでいくんだよ……! こんなの、耐えられるわけがないじゃないッ!!」

 

 叫びながら、亜美の胸倉を掴みながら、あかねはボロボロと泣き続ける。その手は、とても弱々しい。振り払おうと思えば、いとも簡単にそれができてしまうほどに。

 

「辛いの……! 苦しいの……! 夢だったらいいのにって、何度も思った……! 今でも、そう願っている……。でも……これは現実なんでしょう……?」

 

 あかねの問いかけに、亜美は答えなかった。答えを求めているわけではないと、理解していたから。下手な答えは、却って傷つけてしまうと思ったから。

 

「こんな現実……知りたくなかった……。生きるのがこんなに辛いなんて……思わなかった……。日向のように、さっさと自殺すればよかった……。でも、それをみんなが、橘さんが望まないことも分かっている……。でも……でもッ……!」

 

 亜美の胸に顔をうずめ、あかねは小さくそう呟いている。泣いている声を押し殺して、誰かに見つかることのないようにと。

 叫びたい衝動を抑えて、ただ静かに泣き続ける。小さく呟きながら、ひたすら泣いている。そうするのは――

 

「こんなの……もう嫌ッ……。もう誰かが死ぬのも、誰かが殺すのも見たくない……。辛いよ……苦しいよ……。こんなの……こんなの……」

 

 言葉とは裏腹に、生きようと頑張っているから。死にたいという衝動を抑え、前に進もうとしているから。自分のためではなく、雅人や亜美のために。

 他人のために生きるという考えは、決していいものとはいえない。他人に自身の生きる理由を見つけることは、ほんの些細なキッカケで崩れてしまう。確固たる決意が、自分の中には存在しないのだから。

 

「須田くんまでいなくなって……。みんなみんないなくなって……。これからもいなくなるなんて……。もう……そんなの……」

 

 そうだと分かっていながら、亜美は何も言うことができなかった。今は思う存分泣かせて、感情を吐露させて、何とか一緒にここから移動しなくてはいけないから。最もらしいことを告げられるほど、亜美自身も冷静とは言えないから。そして何より――彼女の言葉をどこか理解してしまう自分がいるから。

 

 だから、今はどうかこのままで。誰も、彼女を傷つけないで。

 何とかして生きようとしている――誰よりも優しくて、誰よりも純粋でまっすぐで、故にか弱く脆い、一人の女の子のことを。

 

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