校門から走り去っていく二つの背中。それを見送る一人の人物。その人物は、どんどん小さくなっていく二人――東堂あかね(女子14番)と槙村日向(男子14番)の背中を、今にも泣きそうな表情で見つめていた。
――ごめんね……
その背中に向かって、心の中で謝罪する。何度声をかけようか、何度その震える背中を抱きしめようか。何度そんな葛藤を繰り返したか分からない。このクラスで一番近い存在。ずっとクラスメイトというよりは、チームメイトとして接してきた彼女。あんな弱々しい姿など、今まで見たことがなかった。本当なら誰かがそばにいて、あの子を支えてあげなくてはいけないだろう。
けれど、自分にはそれができない。今は、あの子と一緒にいる彼に託すしかないのだ。
――あかね、ごめんね。声かけられなくて、一緒にいてあげられなくて……本当にごめんね。
そう謝罪しながら、その人物――羽山早紀(女子15番)は、視線をあかねの背中から学校の方へと戻す。これで、自分以外は全員学校から離れた。そして、おそらく誰も戻ってこない。邪魔は入らない。
やるしかないのだ。
――やらなくちゃ……!
学校を出たときから、いやこれがプログラムだと理解したときから、決めていたこと。無謀かもしれないけれど、それでもやると決めたこと。その決意の根底にあるのは、早紀の中にある“信念”というものに他ならなかった。
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早紀には、八つほど離れた兄がいる。既に二十歳を越えており、世間一般でいう“立派な大人”だ。今は大学を卒業し、目下弁護士を目指して猛勉強中。そのせいか、最近は図書館やら喫茶店やらに出かけていて、家にいる時間は多くはない。そんな兄のことを、早紀は心の底から尊敬していた。
でも最初は、どうしてそこまで必死に勉強するのか分からなかった。なぜならこの国において、法律は国民を守るための武器というよりは、政府関係者の都合のいいものや、それこそ総統とやらを称えるものが多いように思えて仕方がなかったからだ。それに、この国の警察関係者は必要に応じて(その必要とやらもやけに曖昧なものだが)、国民を無断で射殺できる権限を持っている。なら、何のために法律というのは存在するのか。学校で勉強しても、早紀には分からなかった。もちろん、プログラムそのものについても。
あるとき、いつものように勉強する兄に向かって、こんな質問をぶつけたことがある。
「兄さんは、どうして弁護士を目指しているの?」
深く考えて発言したわけではない。思っていたことが、そのまま言葉となって発せられただけだ。今思えば無神経なことを聞いてしまったなと思っているが、このときは本当に不思議で仕方がなかったから。
すると、兄はイスをくるっと回転させ、早紀の方へと向き直ってくれた。その顔には、寂しそうな笑みを浮かべている。
「どうして、そんなことを聞くんだい?」
「だって法律なんて、あってないようなものでしょ?」
早紀がそう告げると、兄はその言葉の意味を分かってくれたのか、少しだけ表情を崩した。そして、はっきりとした口調で早紀の疑問に答えてくれた。
「だからだよ」
そう一言言った後、そのまま続きを口にする。
「そりゃさ、俺一人に何ができるわけでもないけどさ。だからといって、何もしない理由にはならないだろ? むしろさ、俺は俺なりにできることをやりたいんだよ。生きていくうえで、法律について知っておいて損はないしさ」
役に立たないからといって、何もしない理由にはならない――兄のその言葉は、早紀にちょっとした衝撃を与えた。もしかしたら、自分はそれを言い訳にしていたのかもしれない。法律が役に立たないからといって、兄の努力が無駄だと思っていたのかもしれない。
「それにさ、もし早紀が何かあったときには、法律を武器に手助けすることだってできるじゃん。そう思ったらさ、決して無駄ってわけじゃないよな」
そう言って、兄は椅子から立ち上がる。そうしてゆっくりと早紀の元へと歩み寄り、ポンポンと頭を撫でてくれた。女子の中でも比較的身長の高く、性格もどちらかというとサバサバしている部類に入るので、こうして誰かに頭を撫でられることは滅多にない。でも兄だけは、小さい頃からこうしてよく頭を撫でてくれていた。それがとても心地よくて、心のどこかで甘えている自分がいる。
「ほら、もう寝な。明日も朝練あるんだろ?」
「う、うん……」
「今度の練習試合、頑張れよな。まぁ早紀なら、大活躍間違いなしだけど」
優しく笑う兄を見て、心がほぐれていくのが分かる。法律を武器にしなくても、兄は誰かを助ける力を持っていると思う。少なくとも、自分はいつだって兄に救われている。
そのままの兄でいてほしい。弁護士になって、世の中の黒い部分を知ってしまっても、変わらず優しいままでいてほしい。そんなことを、心のどこかで願っていた。
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きっと、兄はプログラムを認めない。どんな理由があろうとも、殺し合いをしていいなんて言わない。もしこの場にいたなら、きっとどうにかして中止させようとするだろう。そう、先ほど背中を見送った――優しいあの子のように。
それは、早紀も同じだった。なら、どうすればいいのか。教室にいる時からずっと考えて、たどりついた答え。
全員が出発した後で、学校に潜入する。そこで担当官や兵士を脅してでも、プログラムを中止させようというもの。
これには、多大なるリスクが伴う。まず、自分が死ぬ確率が極めて高いこと。だからこそ単独で行動すると決め、自分のすぐ後に出てきた辻結香(女子13番)を始め、誰にも声をかけなかった。
そしてもう一つ。それは、成功する可能性が極めて低いこと。
『俺は俺なりにできることをやりたいんだよ』
――私は私なりに、できることをやるんだ……!
ふと近くに倒れている曽根みなみ(女子10番)の遺体に視線を向ける。もうこれ以上の犠牲者を出さないためにも、できるだけ早く行動する必要がある。右肩にからっていたデイバックを地面に落とし、両手に持っていた支給武器――GM M3“グリースガン”を構える。これをうまく使えば、こちらの要求を呑ませる事も可能かもしれない。もちろん、それでも可能性は低いだろう。むしろ、優勝を目指して使う方がいいかもしれないが、その考えは早紀にはなかった。
大きく息を吸い込む。そしてゆっくりと吐き出す。バスケの試合の前にやる、早紀なりの気合いの入れ方だ。
『よーしっ! 全身全力! 気合い入れてくよー! ファイトー!』
『オー!!』
――行こう!
ぐっと足に力を入れ、地面を勢いよく蹴った。そのまま駆け出し、迷うことなく校門から学校の中へ、そして玄関から校舎の中へと入っていく。おそらく、出発時にいた兵士がいるだろうと思ってグリースガンを構えた。けれど――
――誰もいない……?
つい先ほどまでいたはずの兵士が一人もいない。思わぬ展開に一瞬足が止まるが、すぐに思い直す。いないなら、その方が好都合だ。兵士の人にだって、家族や大切な人がいるだろう。できるだけ傷つけたくはない。殺すためにこの武器をもっているわけではないのだから。
玄関を通り過ぎ、階段を一段飛ばしで上がっていく。待ち伏せの可能性も考え、周囲に誰かいないかと警戒していたが、誰一人いなかった。足を止めることなく、そのまま二階へと上がりきる。そのまま廊下を駆けていった。目指すは、先ほどまでクラス全員がいたあの教室だ。おそらく、担当官はあそこにいる。
――お願い……! そこにいて!!
日向が出発してから、数分ほど経過している。その間に、他の部屋に行かれてしまったらアウトだ。ここしか知らないのだから、もしあの教室にいなかった場合、校内をくまなく探さなくてはいけない。そうなってしまったら、担当官に会わずして首輪が爆発するという事態になりかねないのだ。
勢いよく前のドアから教室へと入る。そこには一人の人物がいた。自分たちをプログラムに放り込み、早紀が探していた寿担当官その人だった。
その姿を確認すると、早紀はグリースガンの銃口を担当官に向けた。
「今すぐプログラムを中止して!!」
早紀の存在を確認するや否や、担当官は驚いたような表情をする。まさか、全員が出発した後で戻ってくる人間がいるとは思わなかっただろう。しかも、教室には担当官以外誰もいない。正に一対一の真剣勝負だ。
「羽山さん? 戻って……きちゃったの?」
「死にたくなかったら、今すぐこの首輪の機能を停止させて! それで、みんなに中止したって放送を流して! 早く!!」
担当官の疑問なんてどうでもいい。とにかく、一刻も早くプログラムを中止させることが大事だった。早く中止させないと、みなみのような犠牲者がまた出てしまうのだ。
けれど、担当官は首を横に振った。そして、銃口を向けられているにも関わらず、まったく動じる様子もなかった。
「それは、無理だよ」
静かにそう一言だけ口にした後、意外なことにこちらに向かって一歩ずつ距離を詰めてきていた。
「さっきも言ったけど、一度決まったものは中止できない。私が死んでも、それは変わらない。代わりの人が来るだけだよ。プログラム担当官なんて、代えが利くんだから」
そして、早紀のわずか一メートル先で担当官は足を止めていた。白いスーツに飛び散った赤い斑点が、はっきりと数えられてしまうほどに近いところまで。
「本当は分かっていたんでしょ? 中止はできないって。どうして戻ってきちゃったの?」
担当官が口にしたその質問に、早紀は答えることができなかった。
「せっかく当たりの武器を支給されたのに、優勝しようとか思わなかったの? それでなくても、それを使えば誰かを守ることだってできた。さっき聞こえたマシンガンを持っている人に対抗できるんだよ? 羽山さんがいることで、助かる命があるのかもしれないんだよ?」
そうかもしれない。担当官の言う通りかもしれない。チームメイトだったあかねを始め、クラスのみんなには死んでほしくない。交流関係が広いとはいえない早紀だけど、それでもみんなに死んでほしくないのだ。守るという方法も、あったのかもしれない。
でも――それでも――
「私は私のやりたいようにやるの」
譲れないものがある。
「ゼロじゃないなら、賭けてみる価値はある。そう思ったからここに来たの。誰かを守れても、プログラムが終わらないと、いつかは一人を残してみんな死んでしまう。そんなの嫌。だから、万に一つの可能性に賭けた」
自分の命を使って、できるだけのことをやる。たとえゼロに限りなく近くても、それをやらない限り、本当に不可能かどうかなんて分からないのだから。プログラムに乗るくらいなら、クラスメイトを殺してしまうくらいなら、自分の信念に従って行動する。それが、早紀の答えだった。
兄も自分にできることをやろうと、今も必死で勉強しているのだから。
「中止して」
最後の通告。そのつもりで、グリースガンを構え直す。けれど、担当官はもう一度首を振った。
「それは、できない」
この担当官は、きっと要求を呑んでくれない。そう悟った。なら、可能性は低いけど、ここで担当官を殺してでも――そう思い、引き金に指をかける。
けれど、どうしても引き金を引くことができない。
「撃てないよ」
引き金を引けずにいる早紀に向かって、担当官はこう口にした。その断定するかのような口調に、思わずカッとなってしまう。
「なめてんの?! 撃とうと思えばいくらだって――」
「そうやって脅している限り、撃てないよ。撃つつもりなら、とっくに引き金を引いているはずだから」
そう言って、担当官はまた一歩だけこちらに歩み寄ってくる。もう密着しそうなほどの距離にまで近づいてきている。こうやって近くまで来ると、担当官が放つ威圧感に、怯みそうになる自分がいた。
「すぐにここから立ち去ってくれれば、今回のことはなかったことにする。羽山さんの足なら、ここが禁止エリアになる前に抜けるができると思うし。それで、その銃を使って誰かを守るなりすればいい。言っとくけど、マシンガンはそんなに多くは支給されてないよ」
まるで懇願するかのような口調で、担当官は静かにそう告げる。こんなに近くにいるのに、こちらは銃を向けているのに、それに怯える様子もない。まるで、こちらが引き金を引かないことを分かっているかのように。
そのとき、早紀は悟ってしまった。担当官を殺すことはできない、と。引き金を引くことはできないのだと。理屈じゃない、これはいわば直感だ。自分には、人を殺すことはできないのだと。
けれど、戻るつもりもなかった。
「甘くみないで。そんな中途半端な覚悟なんかでここに来ないわよ」
プログラムの中に、身を投じるつもりは微塵もなかった。誰かを守って一緒にいても、いつかは自分かその相手が死なないと終わらない。そこで死んだとしても、生き残ったとしても、辛い結果になる。最後まで守りきることができないのなら、却って相手を傷つけるだけだ。中途半端なことしかできないのなら、最初から何もしない方がいい。このプログラムから、抜け出すことができないのなら。
「それに、私の人生だもの。私の好きにやらせてもらうわ」
そう、自分の命は自分のもの。それをどう生かそうと自由なはずだ。自分一人で生きているだなんて思わないが、少なくともその主導権を握っているのは他でもない自分自身だ。自分がいなくなったら、そこに関わっている人が辛い思いをするのかもしれない。けれど、他人が辛い思いをしないために生きていくほど、多分自分はお人好しでもない。
脳裏に浮かぶのは、かつてのチームメイトと優しい兄。兄には、自分がいなくなっても変わらないでほしい。政府に復讐なんてしなくていい。どうか司法試験に合格して、立派な弁護士になって、多くの人を救ってほしい。あかねは、きっとプログラムでたくさん辛い思いをするだろうけど、変わらずあのままでいてほしい。だって、早紀がこの行為をした理由に、あかねをここから抜け出させてあげたい、こんな非常な世界から救いたいという思いも、少なからずあったのだから。
銃口は決して下げずに、じっと担当官の目を見据える。すると、担当官は小さくため息をついた。
「……槙村くんといい、羽山さんといい、このクラスの子たちは思ったよりも頑固だね」
どうしてここで日向の名前が出てくるのか。早紀に、その言葉の意味は分からなかった。しかし、その疑問を口にする前に目の前で何かが光って、次の瞬間胸に焼けるような痛みがはしる。グラリと視界が歪み、全身から力が抜けた。
それが――最期だった。
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「……ごめんね」
地面に倒れている羽山早紀(女子15番)を見つめながら、寿担当官はそう静かに口にする。早紀の胸には、一本のナイフが刺さっていた。
『私は私のやりたいようやるの』
命よりも大事なもの。それは誇りだったり、自分の考えだったりするのだろう。この状況でもそれを貫けるのは、よほどの覚悟があるからなのか。先ほどの日向といい、このクラスの子たちはどうもそういう傾向にあるように思える。
逆に言えば、プログラムに乗った人間が方針を変える可能性も、極めて低いだろう。
「……担当官」
早紀に近づく一人の人物。そこには、笠井兵士ではない別の兵士が立っていた。まだ二十代後半の若い兵士だ。
「羽山早紀の遺体は……どうされますか?」
「丁重に弔ってあげて。もちろん、田添くんもね」
いつになく、声のトーンが落ちているのが分かる。できればここから立ち去ってほしかったのに、早紀の意志は固かった。反逆行為をした生徒は容赦なく排除してかまわない――上からそう言われているものの、やはり気は進まない。
ああ、人を殺すときって、こんなに心が痛むものなのか。あのときは、そんなことも分からなかったけれど。
「担当官? 具合でも悪いのですか?」
「……大丈夫。なんてことないから」
人を殺したのだから、そんな甘えは許されない。それに、気になることもある。今は休むことなんてできない。
「……学校からは全員離れました。つきましては、モニタールームに移動をお願いしたいのですが」
兵士が告げたその言葉は、寿担当官にとって意外なものだった。――全員離れた?
「それ、本当なの?」
「はい。校門前に留まっていた東堂あかねを、先ほど出発した槙村日向が、連れていく形で移動したのが最後です」
予想していた展開とは違い、思わず大きく息を吐いた。そこには、どこか安堵の意味合いが含まれている。
――そっか。そうなんだ。よかった。
それが本人にとって、いいことなのか分からない。けれど、これ以上早紀のような子が出てこないことを願う自分にとっては、吉報に他ならなかった。
どうか、そのまま一緒にいてあげてほしい。そして――決してここには戻ってこないで。
女子15番 羽山早紀 死亡
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