“さようなら”

 

 声が聞こえる。その声で、足を止めそうになる。絞り出すような悲痛な声に、心がギュッと締め付けられる。

 

――ごめん、あかね。ごめん、泣かせて。でも、いつかは別れなくてはいけないから……。

 

 槙村日向(男子14番)は、幼馴染である東堂あかね(女子14番)の声を振り払うかのように、必死で走っていた。戻りたくなる足を、止めたくなる足を、機械のように動かしていた。学校に戻る、ただそれだけの目的のために。

 まだ首輪に何の反応もない。爆発するときは、一瞬なのだろうか。それともカウントダウン式に音でも鳴ってくれるのだろうか。爆発する瞬間は痛いだろうか。それすら感じられないのだろうか。

 分からないことに関しては――怖いと思ってしまう。

 

――あと、あともう少し……。 

 

 先ほど視界に入った学校の校舎が、どんどん大きくなっていく。グッと最後の力を足に込め、ラストスパートを駆けた。左手に校門らしきものが見えたところで、日向はようやく足を止めた。

 

――よかった……間に合った……。

 

 ゼェゼェと息を切らしながら、両手を膝の上に置く。寒い季節なのに、額からは汗が滴り落ちている。完全な運動不足だ。そう思い、少しだけ自嘲気味にハッと笑った。

 時計を見る。今はPM07:55。思ったよりも時間はあった。なら、もう少し伝えるべきことはあったかもしれない。誰が乗りそうで、誰が乗らなさそうとか、今までの感謝の気持ちとか、もし優勝できたら両親によろしくとか――

 

――無理か。だって、数分くらいじゃ終わらないもんな。

 

 もう、声は聞こえない。聞こえないくらいまで距離が離れたせいなのか、あかねが声を出せなくなったのか、それはもう日向には分からなかった。けれど、あの悲痛な声を耳にしながら息絶えるのは辛かったので、心のどこかでホッとしてもいた。

 呼吸を整えながら、ゆっくりと校門の中へと入っていく。その近くには、曽根みなみ(女子10番)の遺体が、先ほどと変わらぬ状態で置かれてあった。弔おうと思ったが、止めておいた。どうせもうすぐ、自分も同じところに逝くのだから。

 

 皮肉なものだ。みなみといい、田添祐平(男子11番)といい、死にたくなかった人間が、死のうとしている自分よりも先に死ぬなんて。

 

 でも、きっとここではそれが当たり前。死にたい人間など、きっと多くはない。自分くらいか、いてもよくて二、三人くらい。死にたい人間が多いなら、こんなプログラムは続いていないはずだから。それに日向にしたって、普段なら死にたいなんて思わない。

 やはり、この国は残酷だ。死のうと思わない人間を、将来を生きようとする人間を、こうして死に追いやるのだから。起こるかどうか分からない戦闘のシミュレーションという名目のために。

 

 校門から中に入れば、中庭と言うべき開けたところにでる。そこをぐるりと囲むような形で校舎が建っており、その中央に立って空を仰げば、綺麗な空が見えた。

 

――やっぱ、空は綺麗だなぁ……。

 

 小さい頃から、日向は空が好きだった。朝のまぶしい日差しも、昼の青空も、茜色になっている夕方も、星の見える夜空もだ。毎日少しずつ変わっていって、同じ景色は二度とない。移り気ともいえるその変化は、いつだって自分の心を捕らえて離さない。

 

『ひなたーっ! 今日はどんな空の絵をかいたのー?』

 

 そう、日向はよく空の絵を書く。自分が書いた絵の九割は、空の絵といっても過言ではない。けれど、一度だってその出来に満足したことはなかった。あの綺麗な空というものを、自分は半分も表現できていない。県のコンクールで入賞した絵も空を描いたものだったが、それもマシな部類に入る程度のものだ。

 あの綺麗な空の色を、グラデーションを、太陽や雲の月の形、星の輝き。どれをとっても未完成。偉大ともいえる存在を描くことなど、おそらく一生かかってもできなかっただろう。

 

『どうしてぇー? だってすごくきれいにかけてるじゃん! ひなた絵うまいよー』

 

 それでも描き続けられたのは、褒めてくれる幼なじみがいたから。日向が捨てようとした絵を、「じゃああたしがもらってもいいー? おへやにかざるからさー」と言って、持って返ろうとする。一度だってあげたことはないが(色々理由をつけて断っていた)、今思えばあげておげばよかったかもしれない。

 

 いや、それも残酷か。だって絵を見るたびに、自分のことを思い出すのだから。

 

 そんなセンチメンタルなことを考えていたとき、背後からコツッコツッという足音が耳に入った。

 

「野暮だな」

 

 主は分かる。もうあと数分もしないうちに、ここは禁止エリアになるのだ。クラスメイトなんているわけがない。それに今の音は、明らかに女性もののヒールで歩く音だ。

 

「あんたと話すことなんか何もない。最期くらい、一人で静かに死なせてくれよ」
「どうして……戻ってきちゃったの……?」

 

 声の主は、やはり寿担当官だった。わざわざ自分の死に様を見に、教室から降りてきたのだろうか。ご苦労なことだ。

 

「こういう生徒だって、いないことはないだろ。生きたくても、絶対に生きるということが選べない世界なんだ。なら、せめて死に方くらい選ばせてくれたっていいだろう」

 

 担当官の方は向かずに、空を仰いだまま、日向は静かにそう答える。けれど、その説明だけでは、担当官は納得してくれなかったのか、そのままの口調でこう呟いていた。

 

「死ぬんだよ……? ここに来てしまえば、確実に死ぬんだよ……? ここに来なければ、上手く立ち回れば、生き残れるかもしれないのに、どうして死のうとするの……? どうして生きようとか思わないの……? 死ぬのが怖くないの……? どうして……?」

 

 一体いくつ質問するつもりなのか。心の中でうんざりした。そんなに質問しても、答える前に首輪が爆発するかもしれないのに。それとも、それはただの独り言だろうか。

 

「そんなに質問していいのか?」
「えっ……?」
「それに全部答えたら、俺の疑問に全部答えてくれるのか? そうするだけの時間は、まだ俺に残されているのか?」

 

 そう口にした途端、担当官の言葉が途切れた。やはり、そこまで気が回っていなかったのか。

 

「けど、さっき一個答えたんだ。だから、こっちからも一個質問」

 

 そして、時計を見る。今は、PM07:57。返事は待たずに、続きを口にした。

 

「どうして担当官になんてなったんだ? 担当官という職を好むほど、あんたは腐った人間でもないだろ?」

 

 返事はない。辺りに沈黙が漂う。ひゅうと風が吹き抜けていく。移りゆく空は、変わらず綺麗なまま。

 

 あと、自分に残された時間はどれくらいか。

 

「……それ、二つだね。だから、最初の質問にだけ答えてあげる。それしか選択肢がなかったからだよ」

 

 それしか選択肢がなかった――その言葉の真意は、さすがに分からなかった。別に明確な答えが得られると思っていなかったし、どうせもうすぐ死ぬのだから考える時間もない。ただ少なくとも、国のためとかではなかったということか。

 時計を見る。今は、PM07:58。

 

「……もういいだろ」

 

 担当官に向かって、わざと冷たく言い放つ。もうこれ以上、話すことなど何もない。

 

「一人でいたいんだ」

 

 すると、再びコツッコツッという音が聞こえてくる。それも、どんどん小さくなっていく。その音の方角に、視線を向けることはない。

 

「……私がそこまで腐った人間じゃないって、言ってくれたのは槙村くんで二人目かな。ありがとう。ちょっとだけ、嬉しかったよ」

 

 担当官からかけられたのは、その一言だけだった。それだけ告げた後は、静かに去っていてくれたようで、やがて足音は聞こえなくなった。そしてまた時計を見る。今は、PM07:59。タイムリミットまで、残り一分。

 首が痛いな、そんなことを思い、地面に仰向けになる。そうすれば、視界全てが空一色になる。今日は比較的天気がよかったせいか、星が綺麗に輝いて見えた。下手なプラネタリウムよりも、よっぽど価値のある輝きだ。

 

『あーっ! きれいなお星さまだー!』

 

 これは、いつの記憶だろうか。小学生のときだろうか、幼稚園のときだろうか。生まれたときから親同士が見知っていて、物心ついたときは近くにいた幼馴染。一緒にいた記憶が多すぎるせいなのか、そのときの年齢は、いつだって曖昧なまま。

 

『ねぇひなた……知ってる? 人は死んだら、お星さまになるんだよ』
『え、そうなの?」
『うん。おばあちゃんがね、そう言ってたんだ……』

 

 ああ、これは幼稚園のときだ。あかねの母方にあたる祖母が、重い心臓病で亡くなって間もない頃。葬式の間ずっと泣いてたあかねが、夜空を見上げて言ったときのものだ。そのとき、近所に住んでいた日向も、お世話になった縁で出席したのだ。あれが、人生で最初のお葬式。誰かの“死”を、身近に体験したときのもの。

 

『“おばあちゃんもね、死んだらお星さまになるからね。だから、何も悲しいことなんかないからね。おばあちゃんは、いつでもあかねのことを見守っているからね”って……言ってたんだ……』

 

 隣に立って、そう静かにつぶやく幼なじみの横顔には、一筋の涙が流れていた。たくさん泣いて、それでも枯れない涙が、またその頬を伝っていく。

 

『だからね、あたしがんばるんだ。そらから見守ってくれているおばあちゃんに、がんばっているよーって言えるように、がんばるんだ』

 

 きっと、あかねの祖母が言ったことは、一種の嘘だったのだろう。死期を悟った祖母が、自分が死んだ後に孫が泣かないようについた、一つの優しい嘘だったのだろう。それでも泣いてしまうけれど、その横顔の凛とした姿に、確かにそれは伝わっているなと思った。

 

――今くらいは、信じてもいいかな?

 

 せまりくる“死”は、確実に恐怖心を増幅させている。首輪が爆発して死ぬのだから、穏やかに死ねるなんて思わない。せめてもの救いは、痛いと感じる時間が短いことくらいだろうから、死にゆく今、すがれる何かが欲しかった。

 死んだら、あの綺麗な空にいけるかもしれない。綺麗な星になれるかもしれない。そう考えたら、少しだけ気持ちが落ち着くような気がしたから。

 

 ピッ、ピッ、ピッ――

 

 無機質な電子音が、日向の耳に届く。時計を見れば、丁度PM08:00。自前の時計の文字盤に、少しだけ赤い光が映りこんでいる。

 

――カウントダウンか……。また悪趣味だな。

 

 震える身体を押さえるかのように、ギュッと拳を握りしめる。そっと目を閉じれば、視界は黒一色になる。そこに映るのは、これまで見てきた景色と、今まで自分に関わってきた人たち。

 大した取り柄もなくて、勉強も運動もできない部類に入り、絵にしてもそこそこできる程度のレベルの自分と、友人でいてくれた加藤龍一郎(男子4番)弓塚太一(男子17番)。きっとこの二人は大丈夫。性格から乗りそうにないと思っていたし、宣誓で乗らないと確信できた。どうか、死を選ぶ自分の代わりに、あかねのことを守って欲しい。叶わないかもしれないけれど、こちらには来ないでほしい。

 

――あかね……。

 

『日向ー! 日向ー! 一緒に帰ろー!』

 

 今脳裏に映るあかねは、いつものように笑っている。底抜けの明るさで、こちらが笑いたくなるほど、屈託のない笑顔で笑っている。その映像を見ていると、改めて泣きそうになった。

 泣いている姿なんて、やはり似合わない。あかねには、笑ってほしかった。いつものように、笑ってほしかった。

 

――ごめん、ごめんな……泣かせてしまって……。一緒に……いてやれなくて……。

 

 目尻から、すっと涙がこぼれ落ちる。ああ、これでは馬鹿みたいではないか。いつか狂ってしまうことが怖くて、死ぬことを選んだのに。少しだけ後悔してしまって、少しだけ死にたくないなんて思ってしまうなんて。

 だからこそ、願わずにはいられない。綺麗な空に願う、最初で最後の願い事を。

 

――どうか……どうか……

 

 どうか、あかねが笑えるように。これ以上悲しい思いをしなくていいように。難しいだろうけど、できるだけたくさん笑えるように。

 

 死にゆく自分のことなど、少しでも早く忘れられるように。

 

――今までありがとう。……さようなら。

 

 ピーッというロングトーンの電子音が鳴り響く。そして、すぐに低くこもった音が身体中に反響し、少しだけ身体が宙に浮いた。同時に、日向の首筋から真っ赤な鮮血があふれ、先ほどまで見ていた景色に赤い色を添える。いくらか血液が顔に振りかかり、日向の顔を少しだけ赤く汚した。

 しかし、それら全てを知ることのないまま、日向の全生命活動は停止した。本人が思うよりも痛みや苦しみを感じることのないまま、そして比較的穏やかな表情で、十四年という短い生涯に幕を閉じた。

 

男子14番 槙村日向 死亡

[残り30人]

next
back
序盤戦TOP

inserted by FC2 system