狂奏曲

 

「ハァハァ……ゼェゼェ……」

 

――くっそ、まだこんだけしか進んでいないのかよ……

 

 懐中電灯で注意深く地図を照らしながら、末次健太(男子8番)は心の中でそうボヤいていた。方位磁石や周囲の状況から、今いるのはエリアでいうとE-2だろう。出発してからたっぷり二時間半以上は経過しているのに、進んだのはたったこれだけ。いくら体力に自信がないからといって、これでは島全体を散策するのに一体どれくらいの時間を要するのだろうか。途方のない道のりに、思わずため息が出てしまった。

 

――慌てて探しても仕方ないな……。少し休むか。

 

 夜も遅いし、今動いても収穫は少ないだろう。そう考え、健太はその辺の地面に腰を下ろした。後ろにもたれかかった木の少しだけ冷やりとする感触が心地いい。わき腹が痛くなるほど乱れる呼吸を、少しでも整えようと意識して息を吸ったり吐いたりしてみた。気休めでしかないが、こうしていれば少しはマシになるだろう。身体は悲鳴を上げているが、頭の方は至って冷静らしい。ある意味自分らしいな、と妙なことを思った。

 地図をしまい、デイバックから支給されたペットボトルを取り出し封を切る。そのまま口へと運び、ぬるい水を喉へと流し込んだ。一気に飲みすぎると後々困るので、少し流し込む程度にとどめておく。それでも、乾きを癒すには十分な量だ。

 ふぅと一つ息を吐き、空を仰ぐ。星が見えそうなくらい綺麗な空に、今度は違う意味でため息が出そうになった。

 

――俺のやろうとしていることって……意味ないっちゃ……ないんだよな……

 

 プログラムという状況において合理的な行動パターンといえば、進んで乗るか自殺するかだろう。死にたくないなら他にみんなに死んでもらうしかないし、生き残りたくないなら自殺する。そう考えるのが妥当だ。けれど、分かっていても、そう簡単に割り切れるものではない。少なくとも、健太はそうだ。それは多分、人間は機械のように単純ではないからだろう。だから今、健太がやろうとしていることも、プログラムのルール上おそらく意味があるとはいえない。

 でも、放っておけない。今頃何をしているのか、一人なのか、誰かに襲われていないか、簡単に信じて騙されてはいないだろうか。まるで我が子を心配する親みたいに、その不安が消えてくれることはない。だから探さずにはいられないのだ。決して仲がいいわけでもないのに。

 

 同じ小学校だから、他のクラスメイトよりも少しだけ過去を知っている。ただそれだけなのに。今健太が探している彼――須田雅人(男子9番)との関係性は。

 

 健太と雅人の出身小学校である東小学校は、青奉中学校のある福岡市ではなく、隣接している大野城市に存在するこじんまりとした小さな学校だ。私立ではなく公立の小学校であるため、クラスメイトは例外なく近所に住んでおり、経済的格差もほとんどない。そのせいか、学校内の雰因気も良好で、目立った不登校の生徒もいないのが特徴といえば特徴だ。ほとんどの生徒は、近くにある東中学校に進学するため、健太みたいに私立に行く人間の方が珍しい。

 健太が、わざわざ市外にある青奉中学校に進学したのは、両親もこの学校の出身であることが大きく影響している。学校の雰因気もいいし、私立ということで設備も充実している。高い学費を払ってでも行く価値があるという両親の説得が主な理由だ。健太としても、小学校の友人とはいつでも会えるだろうし、私立に興味があったことも事実なので、特に異論もなく青奉中学校を受験した。

 そんな東小学校では異例ともいえる私立受験者は、健太一人ではなかった。彼が私立を受験していたこと自体は、この中学校に入学してから知ることになるのだが、健太はその前から雅人のことを知っていた。小学校で仲がよかったでもなく、同じクラスだったわけでもない。向こうは、おそらく小学校のときの健太を知らない。そんな一方的な、ある意味自分勝手な――そんな曖昧ともいえる関係。

 

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 遡ること三年前。小学校最後の冬休みを間近に控えた頃。健太の周りでは、あるニュースの話題で持ちきりだった。そのせいか、近所の大人たちも、学校の先生も、いつも以上にピリピリしており、まるで一本の細い綱の上に立たされているような緊張感が漂っていた。少しでもバランスを崩して落ちてしまえば、何もかもが壊れてしまうような――そんな危うさがつきまとっていたような空気。

 

「また出たんですってよ」

 

 学校に向かう最中、帰る途中、近所の大人たちがそうやって話しているのを、健太は何度か耳にしたことがある。

 

「今度はあそこ。大野城南小学校ですって」
「えっ? ここから割と近い学校じゃない? うちの子たちの学校は大丈夫かしら?」
「でも、飼育小屋のドアには鍵をかけているんでしょう? そんな簡単には入れないじゃ……」
「それが、犯人は鍵を無理矢理壊して中に入っているんですって。学校の門のセキュリティも甘いでしょうし……。それにしても、動物をあんな目に遭わせるなんて……ひどい人もいたものね。ホント、何とかしてくれないかしら?」

 

 そんな大人の会話に聞こえない振りをしつつ、心持ち足早に学校へと向かう。そんな話を聞いてしまえば、当然気になってしまうのが道理だ。健太だって、学校で飼っているうさぎのことはそれなりに好きだ。殺されたりしたら――それはとても悲しい。

 ここ最近大人たちの中で話題になっているニュース。それは、小学校で飼っているうさぎたちが、何者かによって虐殺されるというものだった。詳しくは知らされていないかったが、おそらく刃物のようなもので飼育小屋にいるうさぎたちを殺しているのだろう。確かにうさぎたちのいる小屋には鍵がかけられているものの、壊してしまえば中に入ることは可能であるし、学校の門などよじ登ってしまえば簡単に侵入できるだろう。大人たちがいくら大丈夫だと言っても、それは気休めでしかないということくらい、小学生――特にもうすぐ中学生になるくらいの年齢になると、容易に理解できてしまう。だから、いつも不安に苛まれているのだ。次は自分たちではないか、と。

 そんな焦燥感に乗せられるかのように、歩くスピードは段々早くなっていく。そしてついには小走りになる。そのまま学校前の信号を渡り、足を止めることなく校門へと駆けていった。まだまばらにしかいない小学生達の間をすり抜け、運動場の隅にある飼育小屋へと向かう。

 けれど、飼育小屋の前に人がいる。そう分かった瞬間、健太は足を止めた。ハァハァと乱れる息はそのままに、その視線は小屋の前にいるただ一人に注がれている。黒いランドセル姿の小柄な――といっても健太よりは背の高い男の子。

 

――飼育委員なのかな?

 

 各クラスには二人ずつ飼育委員がおり、交代制で餌やりもしている。確か、朝にも餌やり当番はあったはずだ。けれど、その男の子は、そこから一歩も動こうとしない。

 

――どうしたんだろ? 餌やりは終わったのかな? それとも、僕と同じように心配で様子を見に来たのかな?

 

 その男の子のことが気になって、健太は声をかけようとした。けれどその瞬間、キーンコーンカーンコーンというチャイムがなる。その瞬間、視線の先の男の子は脱兎のごとく駆け出していった。こちらが追いかける間もないほどの素早い動きだった。

 一瞬だけ追いかけようと思ったが、さすがに今から追いかけても追いつかないだろうし、何よりチャイムが鳴ってしまった。教室に戻らないとマズいと思い、健太も急いで下駄箱へと向かった。

 

 それが、彼――須田雅人との初めての出会い。ただしこのときは、須田雅人という名前も、彼がどういう気持ちでそこにいたのかも、健太は何も知らなかった。そして雅人は健太のことを知らないままの、いわば一方的な干渉ともいえる出会い。

 

 それから何度か、健太は飼育小屋の前に座っている雅人を目撃した。朝だけではなく、時には昼休みや放課後に見かけることもあった。いつだって雅人は、何をするわけでもなくそこに立っているだけ。何度か話しかけようと思ったけれど、元々引っ込み事案な自分にそんな勇気があるわけもなく、ただその姿を眺めていた。その佇まいには、何か緊張めいたものを感じたが、それを尋ねることさえもできないまま。

 

 そうやって、何日も過ぎていった。できればこのまま、そんな平凡な日々が続いてくれればよかったと思う。けれど、変化はある日突然訪れる。それも、こちらがまったく望まない形で。

 

 その日は、雨が降っていた。それも、傘が役立たないほどの大雨だった。健太も傘を差しながら登校していたけれど、学校に着く頃には靴も長ズボンもすっかり濡れてしまい、ズボンの裾の色が変わってしまうほどだった。

 けれど、そんなことは気にならなかった。なぜなら学校に着いた途端、校門前にできていた人だかりに目を奪われてしまったから。それは子供ではなく、両親と同じくらいの年代の人たちでできたもの。それを見た瞬間、健太は嫌な予感がした。

 

「うちの学校まで……」
「ホント、学校側は何をやっていたのかしら。簡単に侵入できないようにしてもらわなくちゃこんなのなくならないわよ」
「第一発見者って、この学校の子でしょ? 可哀想に……」
「飼育委員の子だったのかしら? 餌やりに行って、うさぎが死んでいるところを見つけてしまうなんて、きっとショックだったでしょうに……」

 

 断片的な会話だったけれど、それだけでも何が起こったのか、理解するのは容易なことだった。それは、恐れていた最悪の事態が起こってしまったということ。決して望んでいなかったことが、現実となってしまったこと。張りつめた綱が、ついに切れてしまったということ。

 

 そしておそらく――第一発見者を、自分は知っていると。

 

 差していた傘を放り出して、健太は学校へと入ろうとした。密集する大人達の間をすり抜け、閉まっている校門の隙間を何とか通り抜けようと試みる。決して野次馬としてではなく、第一発見者であろう彼のことを心配する一人の同級生として。

 

「こらっ、健太くん。今は学校に入っちゃダメよ」

 

 そう言って、健太の肩を掴む人。それは、担任である鳳先生だった。両親よりも若い、おそらく二十代半ばであろう女の先生だ。

 

「せっ……先生……。あの……」
「今日は臨時休校になったから。おうちに帰りなさい。親御さんは、まだお家にいらっしゃる?」

 

 こちらが質問する前に、鳳先生はそう告げた。まるで、こちらが何を聞こうとしているのか分かっていて、それを遮るかのような口の聞きぶりだった。

 

「先生……あの、一体何が……」
「……それはまた後日説明するから。今日は帰りなさい」

 

 まるで絞り出すような悲痛な声。そう言われてしまったら、これ以上聞くことができなかった。校門の向こうで今何が起こっているのか、第一発見者は誰なのか。気になって仕方がなかったけれど、この場は何も聞かないほうがいいと理解し、健太はその場から離れることにした。そのとき、校門の隙間から、警察関係者らしき制服姿の人と、一人の小柄な男の子が歩いているのを見つける。その様子は、迷子になった子供に、大の大人が付き添っているような光景。そして門の隙間から見えたその男の子の姿は、何度も見かけた、あの寂しそうなあの後ろ姿そのものだった。

 

 何も聞かなくても、それで全て悟ってしまった。第一発見者が雅人であるということも、ショックで警察の人に付き添われないと歩けないほどであるということも。

 雅人が毎日うさぎを心配で朝早く来たことが、却って仇となってしまったのだということも。

 

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 今になって思うけれど、雅人はそれも含めてそこにいるという行為を選んだのではないか。万に一つ、被害にあってしまったとき、他の誰かが傷つかないように、自分が一番に見つけることで、そのショックを背負うつもりだったのではないか。

 けれど、本当にそうかは分からない。結局、あれから何度も雅人を学校で見かけたのに、その話をするどころか一度も声をかけることができなかったからだ。須田雅人という名前を知ったのも、その出来事から随分経った後だった上に、直接本人に聞いたわけではなく又聞きで聞いて知っただけ。同じ学校に進学し、三年になって同じクラスにもなれて、かつ出席番号も前後していたのに、会話という会話をした記憶がほとんどない。正直なところ、先ほど教室で交わした会話が初めてなくらいだ。引っ込み思案で話し上手でもない自分にとって、それはハードルの高いものだったのかもしれない。けれど、今になって後悔するくらいなら、勇気を振り絞って声をかけるべきだったのだ。そうしていれば、今頃一緒に行動できたかもしれないのに。

 

――そんなに出発も離れていなかったし……なぁ……

 

 雅人が出発したのは十三番目、健太は十八番目。間には四人しかいなかったし、時間にして十分ちょっと。雅人が待とうと思えば、待てる範囲内だっただろう。仲のいい有馬孝太郎(男子1番)は銃声の前に出発しているため、あの銃声でその場を離れただろうし、直前に出発した広坂幸治(男子13番)も、校門前に横たわっていた曽根みなみ(女子10番)の遺体に驚いて逃げてしまったかもしれない。そもそも健太が出発した時点で学校にいなかったことを踏まえれば、今一人でいる可能性が極めて高い。

 いてもたってもいられなくて、非効率的だと分かっていながら、暗闇の中をこうして探している。見つけたところで、雅人が自分を信用してくれる保証など何一つないのに。支給された武器もピアノ線とやらで、とても役に立つような代物ではないのに。

 それでも、放っておけないのだ。たった一人で、ずっと飼育小屋の前に立っていたあの姿を思い出すたび、今でも心がチクッと痛むから。頼ることもなく、傷つくかもしれないと分かっていながら、いつも一人で何でも抱え込もうとする。今もきっと、みんなを説得して、この状況をどうにかしようと試みているのだろう。それが不可能で、かつ非効率だと分かっても、きっと雅人はそうするのだろう。だからこそ、健太はできるだけ手助けしたいと思った。あのとき声をかけられなかった、懺悔の意も込めて。

 

――向こうから声をかけてくれれば……それが一番いいんだけどな……

 

「そこにいるのはだーれぇ?」

 

 いつのまにか考え事をしていた健太に、声をかけてくる誰かがいた。それも一発で女子だと分かるほどの、キーが高めの幼い子供のような声。

 どうするべきかと考える間もなく、懐中電灯で照らされる形となった。

 

「あーっ! 末次くんだー! 久しぶりー!」

 

 プログラムの状況下であることを感じさせないような、明るくて楽しそうな声。けれど、健太にはそれが誰だか分からない。女子は数えるほどしか話したことがないため、東堂あかね(女子14番)のように普段から目立つくらいの子でなければ分かるはずもない。少なくともあかねではない、別の女子であるようだが。

 

「き、君は……?」
「えー?! もう忘れちゃったの? あたしあたし、葉月だよぉ! 真田葉月! 一緒に日直もやったじゃーん!!」

 

 そう言って、声の主は懐中電灯を自分の方へと向ける。そこには、高めのツインテール、クラス一小柄な女の子。同じ出席番号であるため一緒に日直もやったことがある女の子――真田葉月(女子8番)の姿があった。その表情は、なぜか笑顔で彩られている。今は殺し合いの最中なのに。

 嫌な予感がする。直感的に、健太はそう感じた。

 

「末次くんはー、ここで何をしていたのぉ? 一人?」

 

 そんな健太の気持ちを知る由もないのか、再び懐中電灯をこちらに向け、先ほどと変わらない調子で、葉月はそう聞いてくる。その質問は何ら不自然ではないし、健太にしても聞きたいことではある。けれど、何の警戒心もなくそう聞ける葉月の無邪気さに、一層の警戒心を抱かざるをえなかった。

 

「さ、真田さん……は……」
「あたしー? えーっとぉ、一人だよ?」
「でも……確か籔内さんは……」

 

 確か葉月と、葉月と仲のいい籔内秋奈(女子17番)の出発は、そこまで離れていなかったはず。いや、出発そのものは葉月の方が先だった。つまり、葉月が秋奈を待とうと思えば待てたはずなのだ。もちろん、出発が近いからといって待てたとは限らない。けれど、待てなかったわけでもないような気がする。何か他の――

 

「ねぇ」

 

 いつのまにかまた考え事をしていた健太に、葉月は再び話しかけてくる。その口調は、先ほどとは違って落ち着いた印象を健太に与えた。まるで、別人であるような錯覚すら抱いてしまうほどに。

 

「末次くんはさ、見た? 校門前の死体」

 

 校門前の死体――それは、みなみのことを指しているのだろう。健太が見たのなら、当然後の出発になる葉月も見ている。それは分かるのだが、どうして今その話をするのか。誰もが目を背けたくて、思い出したくもない現実を、どうして今――

 

「きっとさ、あのマシンガンで死んだんだよね。でさ、誰かが曽根さん殺したってことなんだよね。あんなに穴だらけでさ、いっぱい血も流れて、すごい光景だったよね。私、思わず魅入っちゃったもん」

 

 “魅入っちゃった”――健太も知っていることを話している中で、一つだけ引っかかりを覚えた言葉。それはもしかして、こちらにとってはマズい意味ではないのだろうか。怖かったわけでもなく、悲しくなったわけでもなく――“魅入ってしまった”。それは葉月にとって、その光景がとても魅力的に見えたということではないか。つまり健太とは違い、葉月はその光景を、ある意味肯定的に捉えたということ。

 警戒心が強まる。逃げなくてはいけないと思う。けれど、恐怖のためか、体力が消耗しているせいなのか、身体が上手く動いてくれない。

 

「私ね、赤が一番好きなの。それもね、綺麗な赤が好き。深紅っていうのかな? そういうじっと見ていたくなるような……深くて濃い赤が好きなんだ」

 

 いきなり話の内容が変わる。それに合わせて、頭が切り替わる。赤、それも深紅に近い赤が好き。そして魅入ってしまうほどの光景には、大量の真っ赤な血が流れていた。血は赤い。それは――とても深紅に近い赤。

 

「ねぇ、末次くんはどうなのかな? 曽根さんとは……違うのかな?」

 

 葉月がそう問いかけた瞬間、何かがキラリと光った気がした。自然とその方向、懐中電灯を持っていない葉月の右手に視線がいく。その手に握られているものが大ぶりの刃物であろうことは、容易に推測できた。

 次に葉月が何をしようとしているのかを、頭の中で瞬時に理解できてしまった。

 

――に、逃げないと! 真田さんは、俺を殺すつもりだ!!

 

 そう判断し、健太は急いで葉月から離れるように駆け出した。荷物を置いていけば今後困ると思い、何とかデイバックだけは死守した形で。追いかけてこないことを祈っていたが、無情にも背後から足音が聞こえてきている。

 

――何か、何か逃げきれる方法を考えないと!!

 

 ただ逃げていても、いつかは追いつかれてしまう。あちらはテニス部、こちらはいくら部活中走ることはあっても、所詮吹奏楽部という文化部。ただでさえ運動神経が破滅的に悪い自分が、走っているだけでは、いつかは葉月に捕まってしまう。

 頭では分かっているのに、上手い方法が思い浮かばない。いや、ジグザグに走って葉月を巻いてしまうとか、入り組んだ住宅街でどこかの民家に隠れてやり過ごすとか、方法がまったく浮かばないわけではない。けれど、それを実行するだけの体力がないと意味がないのだ。考えているだけでは、それは現実とならない。考えるだけなら、それは誰でもできること。実行するかしないか、大きく左右されるのはその部分なのに。

 そうやって走り続けて、すぐに息が切れ始める。丁度そのときだった。

 

「ぐわぁ!!」

 

 背中にものすごい衝撃を感じ、そのまま地面に倒れる形となる。すぐに、今まで感じたことのないズキズキとした継続的な痛みと、生温かいもので背中が濡れていく感覚がした。何が起こっているのか、考えるまでもなく理解してしまう。

 

「つーかまーえた♪」

 

 まるで鬼ごっこで捕まえたときであるかのように、まるでかくれんぼで見つけたときのように、幼い子供が遊んでいるかのような無邪気な声。そんな楽しそうな声が聞こえ、同時に懐中電灯で照らされる。この暗闇で何度も懐中電灯を使うことなど、危険行為に他ならない。けれど、葉月にそれは関係ないのだろう。

 ただ純粋に、心の底から楽しんでいる。やりたいことをやっている。生き残るためではなく、誰かを傷つけ血を見る行為を、彼女は純粋にやりたいだけなのだから。

 もっといえば、彼女はただ血を見たいだけなのだから。

 

「逃げちゃダーメ! これからがお楽しみなんだからー」

 

 背中がズキズキと痛む。立ち上がることさえもできずに、地面を這って逃げようとする。けれど、葉月にその背中を踏みつけられてしまい、それすら叶わなくなってしまった。

 

「痛っ……! まっ、待って真田さん……。俺……」
「痛いの? そんなに痛いの? そっか、痛いんだ」

 

 自問自答を繰り返しながら、葉月は何かを振り上げる。背中越しに振り返れば、何かがキラリと光る。葉月の右手、大降りの刃物――それが斧であると、気づいてしまう自分の視力の良さを恨んだ。

 

「末次くん、いい人だから。次は痛くないようにしてあげる」

 

 “次は痛くないようにする”。それが指す意味は、健太が考える最悪の結末だった。

 

「待って……! 俺、俺まだ……!」

 

 死ぬわけにはいかない。だって、まだ雅人を見つけていない。無事かどうかも確認できていない。まだ雅人に、何もしてあげられていない。

 自分が死んだら、誰も手を差し伸べなければ、雅人はまた一人でずっと――

 

「じゃあね、末次くん。バイバーイ♪」

 

 そう嬉々とした声と同時に、首筋に何かがズブリと刺し込まれる。勢いよく刺されたせいか、まるで胴体と切り離そうとばかりに、いともたやすく斧の刃は健太の首の半分以上まで入り込んだ。けれどそれにかまわず、葉月はすぐに斧を引き抜く。その瞬間、生温かいものが勢いよく飛び出し、そのまま葉月の全身へとふりかかった。それを避けようとしなかった葉月の全身は、健太の血液で汚れていく。制服のリボンも、生地の青と血液の赤が混じり合って、奇妙な色へと変化していく。

 

「あはっ♪ きれーい♪ やっぱ血はきれいだね。ねー、末次くん!」

 

 既に事切れている健太に向かって、葉月はそう話しかける。その血に濡れた顔に、まるであどけない子供のような無邪気な笑みを浮かべながら、先ほどとまったく変わらない――心の底から楽しそうな様子で。

 

男子8番 末次健太 死亡

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