愛の詩

 

 気がつけば、周囲を完全な静寂が包んでいる。どうやら、いつのまにか意識を失っていたらしい。あれから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。懐中電灯はデイバックごと奪われてしまったので、手元の時計を照らすものは何もない。いや、仮に懐中電灯があったとしても、目に映る全ての景色がボヤケて見える今の状態で、まともに文字盤を読みとることができるのだろうか。視力そのものが低下しているのなら、あっても意味を成さないのかもしれない。そこまで考えたところで、それ以上考えることを止めていた。

 弓塚太一(男子17番)は、自由の利かない身体を必死に動かし、うつ伏せから仰向けへと体勢を変えた。大声は出せないし、匍匐前進もできない。そんなことをしようものなら、ただでさえ短い寿命を、さらに縮めることに他ならない。呼吸が少しでも楽になるように、少しでも話しやすいように、倒れている体勢に変えることしか、今の太一にはできなかった。

 周囲の様子からして、有馬孝太郎(男子1番)は、本当にここから立ち去ったようだ。いや、もしかしたら、今もどこかで太一のことを見ていて、笑いを堪えながら、誰かがのこのことやってくるのを待っているのかもしれない。けれど、仮にそうだとしても、今の太一にはどうすることもできない。今の太一にできるのは、一分一秒でも生き永らえること。ただそれだけだった。

 

『誰か来るといいな。お前がくたばる前に』

 

 孝太郎の提案に乗るようで癪だが、彼が積極的にプログラムに乗っていることを伝えなくてはいけない。そして、普段の孝太郎は全て偽りであることも、伝えなくてはいけない。普段の態度から考えれば、きっとほとんどの人間が信じてしまうだろう。現に、太一も孝太郎のことを信じてしまった故に、こんな状態に陥ってしまっている。このままでは、恋人である辻結香(女子13番)も、友人である加藤龍一郎(男子4番)も、孝太郎に殺されてしまう。

 

――誰かが来るまでは……絶対死ねない……!

 

 結香や龍一郎が来てくれれば、それが一番いい。でも、今はとにかくやる気でない誰か。もう誰でもいいから来てほしかった。マシンガンの銃声がしたことで、近くにいた人間は離れてしまう可能性が高いだろう。でも、誰か様子だけでも見に来てくれれば。もしかしたら助けられるかもという願望から、誰かがここに駆けつけてくれれば――

 

――頼むよ……誰でもいいから……。ここに来てくれ……! このままだと、みんな有馬に騙されちまうじゃないか!!

 

『まぁ、そういう風に振る舞ってきたからな』

 

 孝太郎の意外な一面。今まで見てきた姿は、全て偽りだと。あのとき孝太郎は、確かにそう言った。

 

 孝太郎の言う通りなら、クラスメイトと分け隔てなく話せる姿も、いつもたやさない笑顔も、物腰の柔らかい口調も、全て嘘だったということになる。太一に向けてきたものが嘘なら、友人である須田雅人(男子9番)広坂幸治(男子13番)に向けた姿も、嘘だということになる。誰も、孝太郎の本当の姿を知らないことになる。

 おそらく孝太郎は、クラスメイトのことをただのコマとしてしか見ていない。だから、みんなを欺くことも、踏み台にすることも厭わない。そして、人を殺すことに躊躇いを見せず、まるでゲームであるかのように楽しんでいる。あれが孝太郎の“本性”なら、きっと誰よりも危険な人物。

 

――くそっ……! ずっと……騙していたのかよ……。そんなあいつの本性すら見抜けずに、まんまとやられちまうなんて……。それに、俺でこうなら……須田や広坂はもっと騙されるじゃないか……。だって……友達なんだから……。

 

 友人なら、少しは躊躇うのではないか。一瞬だけそう考えたけれど、悲しいことに、それはおそらくないだろう。普段から自分を良いように見せ、太一に対して騙し討ちをした。曽根みなみ(女子10番)に対しても同じようなことをした人間が、今更友人を殺すことに躊躇いを感じるとは到底思えなかった。

 “そんな友情ごときで”――現に孝太郎も、そう口にしていたのだから。

 

――とにかく、誰か来てくれ……! 俺が死ぬ前に……誰か……!

 

 撃たれたところが焼けるように痛む。呼吸も小刻みにしかできない。視界もどこかぼやける。どう考えても、太一の命がそう永くないことは明らかだった。あとどれくらいもつのか。それも分からない今の状態では、カウントダウンすらできないこの状態では、一刻も早く誰かが来てくれることを祈るしかなかった。

 でも、できれば、一番大切な人に会いたい。もし願いが叶うなら、贅沢を言ってもいいのなら、一番大好きな女の子に会いたい。

 

――結香……。結香……。

 

『太一っ! 見て見て!!』

 

 かすんでいく景色に、キラキラした笑顔が浮かんでくる。つい昨日――いや、日付が変わったからおとといのことだ。その笑顔の背景は、クリスマスらしい綺麗なイルミネーションで輝いている。

 

『綺麗だねー! クリスマスだけだなんて、もったいないよねー。一年中さ、ずっとこうして輝いていればいいのにー』

 

 そうだな。あのとき、確かそう返答した。そのとき、君の方が綺麗だよ、なんてクサイセリフを言おうかと思ったことは、内緒だけれども。

 

『でもさ、だからこそ余計に綺麗に見えるのかもね。今このときだけだから、いつかなくなるって知っているから、みんなここに来るのかもしれないね』

 

 そうだな。もう一度、同じ返事をした。それは適当に返したわけではなく、その言葉に心から同意したからだ。そういえば、意見の食い違いで結香と喧嘩したことは、今まで一度だってない。

 

『ねぇ、来年も来ようね! 高校生になっても、もし学校が変わっても、ずっと一緒にいようね!』

 

 ああ、もちろんだ。高校生になっても、大学生になっても、大人になっても、ずっと一緒だ。ごく自然に、素直に、そう口にした。

 

――ごめん……結香。来年どころか、俺には明日すらないみたいだ。

 

 すごく明るい女の子。前向きで、思い立ったら即行動するような子。よく笑ったり、よく泣いたり、よく怒ったりする、感受性豊かな女の子。ちょっとやそっとでは、へこたれない子。

 でも、結香だって中学生なんだから、女の子なんだから、脆いところもある。恋人が死んだと知ったら、彼女は悲しむだろう。殺した相手を恨むだろう。もしかしたら、復讐してやろうなんて思うのかもしれない。

 けれど、それは、太一の望まないこと。結香に、そんなことはしてほしくない。孝太郎には、絶対に会ってほしくはない。会わないまま、決して孝太郎には会わないまま、結香にはこれからも生きてほしい。

 

――でも、そんなの嫌だなんて……言うかな? 太一がいないとダメだなんて、結香なら言いそうだよな……。

 

 現実問題。それはもう不可能だった。最期の瞬間は、刻一刻と近づいている。

 

「まさか……このまま誰も来ない……なんて……ことは……」

 

 諦めかけていたそのとき、突然大きな声が聞こえてきた。

 

「しっかりして!」

 

 耳に届く声。それは、明らかに女の子のものだった。けれど、視力が落ちている上に、聴力まで十分でないせいか、誰かまでは分からない。

 

――だ……れ……? 結香ならいいな……なんて……虫がよすぎかな?

 

「誰にやられたの?!」

 

 有馬だよ。そう口にしようとした。けれど、もう口が動かない。せっかく来てくれたのに、これでは意味がないではないか。誰かに孝太郎のことを伝えるために、必死の思いでここまで頑張ったのに。

 

「しっかりして!!」

 

 自分の呼びかける声で、太一の視界に変化が表れる。ぼやけていた像が、次第にはっきりとした形を成していく。その視界に映るのは、今までずっと想っていた人。一目会いたかった人。そして――世界で一番大切な人。

 

「結……香……?」

 

 そこにいたのは、恋人である辻結香だった。視界に映る彼女は、心配そうな表情で太一のことを見ていた。意外なことに、泣いてはいなかった。

 

「えっ……。ちょっと、大丈夫――」
「よ、良かった……。結香……無事だったんだな……。ごめんな……待って……やれなくて……」

 

 何かを言おうとする結香の言葉を遮るかのように、太一は口を開いていた。結香に会えた安心感から、先ほどよりも意識が混濁し始めた。結香と会話をしている時間はない。こちらの言いたいことを言うだけの時間すら、残されているのか怪しいのだから。

 

「有馬だ……。有馬がやったんだ……。教室で聞いたマシンガンも、曽根さんを殺したのもあいつなんだ……。あいつは、ずっと俺達を騙していたんだ……! ホントは人を殺すことを楽しむような、傷ついた人を見て面白がるような、そんな奴なんだ……! 今まで猫かぶって、自分をいいように見せていたんだ……!」

 

 目の前の結香は、驚いたような表情をしている。やはり、この事実は結香にとっても意外だったようだ。ただ、いつもより表情の変化は少ないように見える。けれど、それはこちらの視力が低下しているからだろう。そう思った。

 

「絶対……絶対有馬には近づくな……! 俺の仇討ちとか、絶対考えるな……! そんなの……しなくていいから……。 りゅ、龍一郎とか、東堂さんとか……さ、探すんだ……。それで、逃げるなり……プログラムをぶっ壊すなりして――」

 

 苦しい。息が、苦しい。もう生きていることすら不思議なのかもしれない。でも、まだ言いたいことはあるのだから。まだ伝えたいことはあるのだから。もう少しだけ、時間を。もう少しだけ、最期の時を。

 守ってもやれない。一緒にいることすらできない。もう何もしてやれない、こんな情けない恋人ができることは、天に祈ることだけだから。目の前にいる彼女が、こちらに来ないように、天に祈ることだけだから。だから、どうか、それを口にするだけの――最期の時間を。

 

「い、生きてくれ……」

 

 その瞬間、結香の目に涙が浮かんだ。それを拭ってやりたかったけれど、もうその力すら残されていなかった。

 結んでいた像が、まだゆっくりと歪み始める。おそらく、もう迎えはそこまで来ているのだろう。けれど、口だけはまだ動かせそうだった。なら、最期に言うべき言葉は決まっている。必要なことは全部伝えたのだから、最期に告げる言葉は、太一自身が思うこと。それは、大好きな恋人に伝える、最期の愛の言葉。

 

「だ、大好き……だぞ……。今までも、これからも……俺は……お前のことが……世界で一番……大好きだぞ……」

 

 それはありきたりで、何の飾り気もなくて、他人が聞いたらキザであると思われかねない言葉。でも、これが素直な気持ち。もっと気の利くような言葉を思いつくことができなかったし、そもそも自分はそういうタイプではない。

 そしてもう、これ以上の言葉を話す力も、太一には残されていなかった。

 

――よかった……。最期に、結香に会えてよかった……。それだけでも、ここまで頑張った意味があったよ……。

 

 自分を呼ぶ声が、段々遠くなっていく。視界が白くなっていく。その声に応えることは、もうできない。

 

――日向。俺もそっちに行くよ。結香は、きっともう大丈夫だから。だって、東堂さんも、龍一郎も、まだ生きているんだもんな……。

 

 視界が真っ白になり、やがて眩いほどの光が差す。痛みも消え、一瞬身体がふわりと宙に浮かんだような気がした。それが、弓塚太一の最期だった。

 

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 安らかな顔で死んでいった弓塚太一(男子17番)の傍らにいる、一人の女の子。その表情は、悲しみに歪んでいる。流れた一筋の涙を、そっと手の甲で拭った。

 

「……ごめんなさい」

 

 もう聞こえないであろう太一に向かって、小さな声でそう呟く。

 

「ごめんなさい」

 

 死にゆく人間を、たった一人で看取る。そのショックが、思いのほか大きかっただけではない。太一の言葉は、彼女の心に大きなしこりを残した。そのまま彼女は、ぎこちない動きで、太一の胸の上で両手をできるかぎり組み合わせる。そのとき、肩までつくミディアムヘアが、一束ハラリと揺れた。

 

「ごめんなさい……。辻さんじゃ……なくて……」

 

 太一の最期の看取ったのは、辻結香(女子13番)ではない別の人物だった。結香とは、背も、髪型も、性格も違う。彼女と親しくしていたわけでもない。ずっと一人で、普段からずっと一人で、いつも太一の隣の席にいた人物。

 

「辻さんに会いたかったのに……来たのが私で……本当にごめんなさい……」

 

 その人物――橘亜美(女子12番)は、また一筋だけ流れた涙を、そっと指で拭った。

 

 マシンガンの銃声がした際、亜美はたまたま同じE-4にいた。正直なところ、最初はマシンガンの銃声から逃げるべきだと考え、一度は足を別の方向に向けた。でも、どこかその銃声が気になって、最終的には危険を承知で向かうことにしたのだ。自分も銃を持っているので、いざとなれば何とかなるかもしれない。心のどこかでそう考えていた部分もあった。

 結果的に、それは亜美にとって有力な情報をもたらした。おそらく、大半のクラスメイトに信頼できると思われている人物――有馬孝太郎(男子10番)が、プログラムに乗っていること。曽根みなみ(女子10番)を殺したのも、孝太郎であること(ただし、その点に関しては時間的な問題で可能性としては極めて高いと考えてはいた)。そして、教室で今まで見せていた姿も、全て偽りであるということ。太一の言うことに嘘が混ざっている可能性も考えたが、少なくとも恋人に対して嘘をつくとは思えない。毎日仲睦まじく話している二人を、隣の席で見ていた(正確には見せつけられていた)亜美には、そう断言できるだけの自信があった。

 孝太郎がプログラムに乗っていることが分かった以上、彼には十二分に警戒しなくてはならない。普段から皆を欺いていたことを踏まえると、誰よりも危険人物ということに他ならない。このプログラムでも、おそらくその人徳を最大限に生かすだろうし、太一に対してもそれを実行した可能性が極めて高い。本性が普段とまったく異なるのなら、説得や話し合いも意味を成さないだろう。亜美自身が進んでプログラムに乗っていない以上、避けるに越したことのない相手だ。

 

――あの銃声から私が来るまで、少なくとも三十分以上はかかっている。こんなに撃たれて、それでも三十分以上生きていたなんて……。

 

 太一とは、正直さほど話したことないし、情を移すほど親しかったわけでもない。けれど、死んでもおかしくない重症の身で、彼は三十分も生きていた。それは、誰かに孝太郎のことを伝えるために。自分のような犠牲者が、もう現れることのないように。

 その最期の必死な姿だけでも、胸を打つものがあった。それだけでも、亜美は彼の思いに応えようと思った。

 

「……大丈夫。必ず、辻さんには伝えるから」

 

 安らかな笑顔で息絶えている太一に向かって、亜美は静かに、けれどはっきりと、そう告げていた。

 これは、大切な人にために最期まで必死で頑張った少年の思いが、少なくとも無駄にはならなかった瞬間。そして、これまでどうするかはっきりとは決めていなかった一人の少女に、明確な目的ができた瞬間でもあった。

 

男子17番 弓塚太一 死亡

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