欠落者

 

 五十嵐篤(男子2番)は、住宅地から少し離れたエリアD-3にいた。当然、有馬孝太郎(男子1番)弓塚太一(男子17番)を撃った銃声もはっきり聞こえていたが、当の本人は特に慌てることもなく、静かにその方角から離れていくだけだった。

 精神的に追いつめられるとか、死の恐怖でパニックになるだとか、そんなことは彼にとって有り得ないことだ。だからこそ、常に冷静さを保つことができ、状況に応じて適切な行動を取ることができるのだから。

 彼には、他のみんなとは決定的に違うところがある。このプログラムにおけるみんなの思考が及ばないところに、彼の思考は存在していた。

 

――みんな、よくやるねぇ……。そんなに死にたくないのかな……?

 

 篤には、“死にたくない”だとか、“生きたい”という気持ちが、まったくもって理解できなかった。これからの長い人生、苦難も山ほどあるというのに、どうしてみんな生きようとするのだろう。もちろん、それと同じくらい幸福があることも、頭では分かっているつもりだ。ただ、心から理解することができない。生まれてこの方、実の両親から愛情という愛情すら注がれなかった篤にとって、幸福というものが何かすら分からないのだから。

 

――人を殺してまで生きたいなんて……どうやったら思えるのだろう……?

 

 決して、道徳心の観点からそんなことを思っているのではない。そもそもその道徳心すら、人に比べて欠けていると自覚している。道徳心だけではない。人が持っているであろうあらゆる感情が、篤には著しく欠如していた。喜びも、悲しみも、怒りも、人が持っている感情という感情全てが。

 まったく存在しないわけではない。けれど、人に比べて鈍感なのだ。だからこそ、いつも無表情でいられて、怒りに染まることも、動揺することもない。嬉しいと思うことも、悲しいと思うことも、楽しいと思うこともない。感動する映画に心動かされることも、誰かを恨むほど憎く思うこともない。

 それが、自身の生い立ちに大きく関係していることを、篤自身が一番よく分かっている。

 

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 篤の家庭は、世間一般でいう母子家庭だった。物心ついたとき、既に父という存在はいなかった。いや、入れ替わりやってくる男たちはいたけれど、それは父ではなかった。少なくとも篤は一度たりとも、彼らを父と認めたことはない。本当の“父”がどこにいるのか知らないし、会ったこともない。自分の“父”は大企業の社長で、自分が不倫の末に生まれた子であるということすら、知ったのはつい最近だった。

 父はいなかったけれど、“母”は存在していた。それは、毎日献身的に夫や子供にご飯を作り、洗濯や掃除といった家事をこなし、時には叱ってくれるような、そんな立派なものではない。自分を生んだから、だから世間一般でいう母親なのであって、それ以外の点において、彼女は母親ではなかった。ご飯を作ってくれたことなどないし、それ以外の家事はほとんど篤自身がこなしていた。自分が生まれる前はどうしていたのか、それは篤の預かり知るところではない。自分にとっての“母”は、家に帰ってくることなど滅多にない、帰っても子供にかまうことなどない、そして常に違う男を連れてくる存在。それだけだった。

 幼稚園や保育園。あるいは近所や学校という外の世界を知るまで、子供の世界は家族のみで構成される。篤の場合も例に漏れず、それが当たり前だと思っていた。三歳から通っていた保育園で、篤は現実を知ることになる。

 

『ママ―! お家に帰ろー!』
『はいはい。帰ってご飯食べようね』
『ねぇねぇ、今日のご飯なーにー?』
『今日はね。あっくんの大好きなカレーよ』

 

 そんなたわいもない会話が、一日に何度も聞こえてくる。そうして次第に理解していった。ご飯を作ってくれる女の人が、本当の母親なのだと。にこやかな笑顔で会話をしてくれる女の人が、本当の母親なのだと。幼いながら、そう理解することは決して難しいことではなかった。保育園が終わる夕方、子供を迎えに来る母親を見て、そして仲良く歩いて帰るところを見て、いつも羨ましいと思っていた。何度も何度も、羨ましいと思った。羨ましくて、隠れて泣いたこともあった。

 だから一度だけ、“母”におねだりしたことがある。

 

『ねぇママ。今日はカレーが食べたいな』

 

 カレーがどのような過程で作られるかを、当然あの歳で知っていたわけがない。けれど、よく耳にする言葉だったから、きっとみんな作れるものなのだろうと思った。だから、何も難しいことを言っているとは思っていなかった。

 わずかではない期待を込めて言ったこの言葉に、返ってきた返事はこうだった。

 

『私、カレー嫌いなのよね。匂いも嫌いだし、色も味も嫌い。あんなの食べ物じゃないわ』

 

 鋭いナイフで刺すかのような、ひどく冷たい言葉。それは、篤の願いを完全に拒否した返事だった。作るどころか、カレーそのものの存在を否定したのだ。それは好みの問題だったのだろうが、そのときの篤には、まるで自分自身が否定されているような気がした。それ以上おねだりすることなどできるわけもなく、影すら見えなくなった地面に視線を落とし、黙って“母”についていくことしかできなかった。彼女も、それ以上何かを言うことはなかった。

 それ以上の会話は成立せず、お互い少しの距離を保ったまま、黙って家路についた。そしてその日のご飯は、レンジで温めただけの、いつもと変わりないコンビニ弁当だった。カレーですらなかった。そして“母”は、帰ってまたすぐに出て行った。篤に何も告げることなく。

 

 以来、篤は“母”に何も言えなくなってしまった。何か言って、あんな言葉で返されるくらいなら、何も言わない方がいいと理解したから。たった一度の拒絶が、幼心に深い傷を残してしまった。決して癒えることのない、ある種のトラウマとなって。

 何も言えなくなってしまったことで、篤は本心をさらけ出す手段を失ってしまった。そうして、次第に本心を隠す手段を覚えていった。誰にも気持ちを諭されないことで、相手の望む通りの自分の演出することができた。それは、決して演じていたわけではない。自然と篤の人格が、そういう風に形成されていっただけなのだ。だからこそ、表情に乏しい表向きの性格が、そのまま本来の人格として形成されていくことに、さほどの時間はかからなかった。

 そうして“五十嵐篤”という人間は作られていき、その過程で何かを感じることがなくなった。喜びも、悲しみも、怒りも、何もかも感じなくなっていった。人並みに感覚はあるはずなのに、それを脳が理解しなくなってきた。みんなが言う道徳感も、倫理も、その言葉の意味を知っているだけで、本当の意味で理解してなどいなかったのだから。

 そうして、生きることに執着を感じることもなくなっていた。同時に、死を恐れることもなくなった。いつ死んでもよかったのだ。いつ車に轢かれても、いつ誰かに刺されてもよかった。未来に夢膨らますこともなく、身近な人と関わりで心温まることもなく、これまで生きてきた。いや、より正確に言えば、そうして生きていくことしかできなかった。痛みに鈍感でなければ、家庭の温かさも何もないあの家に、居続けることなどできなかったのだから。

 帰りたい場所もない。帰りを待ってくれている人もいない。自分の存在価値を、一体どこで理解すればいいのか。その答えには、今だに辿りつけていない。

 

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 生きようとは思わない。生きる意味も、生きている喜びも分からないのだから、生き残りたい理由など見つかるわけがない。いつ死んだっていいと思っていたのだ。それは、このプログラムでも例外ではない。

 なら、自殺でもすればいい。方法ならいくらでもある。支給武器を使ってもいいのだし、ここが島なら海にでも入れば溺死するし、高いところから飛び降りれば転落死もできる。けれど、今のところ篤にその考えはなかった。死ぬのが面倒という以外の理由をあげるなら、興味があるからだ。人を殺してまで生きたいと思う人に、心のどこかで会いたいと思っているからだ。自分とはまったく違う次元に立つ人が、同じクラス内にいるのだから。

 先ほどの放送で、プログラムに乗っている人物がいることは明確だ。もちろん、あの中の全員が全員殺されたわけではないだろうが、全員自殺したわけでもないだろう。クラス内に人を喜んで殺すような輩が、そう何人もいるとは思えない。おそらく一人くらいは、“生きるために仕方なく殺すことを決意した者”がいるはずだ。

 会って、聞きたいと思った。どうしてそこまで生きたいと思うのか。おそらく、その人物にはそれなりの道徳心も倫理観もあるはず。それらを全て投げ打ってまで、人としての禁忌を犯すほどの思いとは、一体いかほどのものだろうか。

 それが、今の篤を動かすただ一つの理由と呼べるもの。わざわざが死ぬことが面倒だという気持ちが大半ではあるけれど、今も生きている理由を問われれば、おそらくこれだろう。けれど、それは目的と呼べるような明確なものでない。ただの興味であり、今も生きているついでの理由。曖昧でどこかふわふわしている、いうなれば雲のようなもの。

 

――聞いたところで、俺には理解できないだろうけどな……。

 

 マシンガンの銃声から離れながら、静かに歩を進める。わざと近づいて確認するという方法も考えたが、それは危険かもしれないという直感で離れることにした。殺されてもいいのだから、その行動にはある種の矛盾が生じていたが、それでもかまわない。どうせ、一貫した行動などできるわけはないのだから。人間は、矛盾を抱えて生きていくものなのだから。

 愛してなどいないくせに、本当は手放したいくせに、今だに自分を捨てることなく手元に置いている“母”。本当は全寮制の学校に進学させたかったことも(これは篤が入試にわざと落ちたせいだ。まだ離れたくないという子供らしい理由で)分かっていたし、次々とやってくる男たちが自分を邪魔者扱いしていることも知っている。それでも今だに変わらない生活を送っていることも、いうなればある種の矛盾だ。

 

 プログラムで自分が死ねば、“母”もせいせいするだろう。ようやく子供から解放されたと喜ぶだろう。

 

 だから帰る場所も、帰る理由もないのだ。自分には。

 

「止まれ」

 

 考え事をしていたせいだろうか。声をかけられる瞬間まで、近くに人がいることに気付かなかった。

 

「……お前は誰だ」

 

 低い声で、相手はそう問いかける。まるでこちらを脅すような、凄みを利かせた口調で。

 

「懐中電灯はつけたくない。それがお互いのためだ。正直答えてくれたら、手荒な真似はしないと約束する」

 

 少しだけ、言葉の中に焦りが混じる。乗っている人間なら、こんなことをする必要がないのだから、声の主は乗っていないだろうという推測がたつ。何より、相手自身がそう口にしているのだ。

 けれど、それだけでは説明できない何かがある――直感的にそう感じた。

 

「……」
「なぁ、脅しはそれで終わりか?」

 

 沈黙が流れたところで、篤はようやく口を開いた。

 

「らしくないことするじゃないか。そんな口調で話したことなんか、今までなかったろ?」

 

 その言葉で、息を呑むような音が聞こえる。

 

「せっかく再会なのに、そんなにカリカリされたら、俺もどう対応していいのか分からなくなる。プログラムで、たった一人の幼馴染に生きて会えるなんて、奇跡に近いんだ。もう少し、優しい言葉の一つでもかけられないものかね」

 

 最初の言葉をかけられたときから、篤にはその人物が誰なのか分かっていた。それは、他人とほとんど関わることのなかった篤に存在する、唯一といえる関係。幼い頃から知っている、たった一人の幼馴染。

 

「久しぶりだな、誠吾。元気にしてたか?」
「……ああ。それなりにな」

 

 相変わらず懐中電灯はつけないけれど、もう確認する必要などなかった。

 

「言っとくけどな、篤。別にお前だからあんな口調でしゃべったんじゃないからな。お前が答えるまで、ホントに分からなかったんだから」
「わーってるよ」

 

 声の主――下柳誠吾(男子7番)は、少しだけ崩した口調で、こちらの言葉に返事をした。

 ただしその言葉の中に、先ほどの凄みを――ほんの少し残したままで。

 

[残り25人]

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