一世一代の大博打

 

「あのさー。いいかげんそろそろ休まないー?」
「ごめーん。もうちょっとだけ進んでいい? こっちの方に、誰かいそうな気がするのー」

 

 誰かって誰だよ。心の中でそんなツッコミをしつつ、園田ひかり(女子11番)は前を歩く人物の後を追っていた。正直なところ、今この人物と行動を共にしていることは、ひかりにとって大変不本意なのだ。同じ主流派グループに所属しているとはいえ、小学校の頃から仲のいい東堂あかね(女子14番)辻結香(女子13番)以外の人を、ひかりは元々快く思っていなかったのだから。

 もちろん、今はそんなことを言えるわけがない。状況が状況だ。そんなことをしたら、こちらの命が危ういのだ。それに、あかねや結香に早く会いたいと思うのは事実で、そのためには動くしかない。人探しをするにあたって、単独よりも複数で探す方が見つけやすい。それだけの理由で、ひかりはその人物と行動を共にしていた。

 

「ねぇ、なんでそっちに人がいるって思うのー?」
「んー、ただの勘。でもね、私の勘は当たるから!」

 

 ただの勘かよ。それに、仮にその勘が当たっていたとしても、それがやる気の人間だったらどうするのよ。そんな口に出さない不満が、後から後から湧いてくる。

 前を歩く佐伯希美(女子7番)を見て、心に浮かぶのは、そんな小さな文句ばかり。

 

「ねぇ、希美。そんな慌てても、疲れるだけだって。お願いだから、ちょっと休ませてよー」
「う、うーん。わかった。ごめんね、無理させて」

 

 謝るくらいなら、最初からそうさせなきゃいいのに。その文句も、口には出さずに呑み込むことにした。いつもなら一日一つ浮かぶくらいのこういう小言が、今はいくつも出てきては消えてくれない。プログラムというギリギリの状況が、そんなことを思わせてしまうのだろうか。

 この緊迫した状況で、それが大変よくないことは分かっている。分かっているけれど、それでもそんなことを思ってしまうのだ。感情のコントロールができないところは、自分でも自覚している欠点なのだが、それを中々改善することができないでいる。

 不幸中の幸いか、希美はそれに気づいていない。その事実だけが、今のひかりの精神をギリギリのところで踏みとどまらせていた。

 

「ひかり、はい」
「え? 何これ?」
「さっきまで隠れていたところから、かっぱらってきちゃった」
「それって泥棒……」
「この状況だからいいかなって。それにダメならダメで、ちゃんと弁償するよ。お菓子の一つや二つくらい」

 

 そう言って、希美がいきなり差し出してきたものは、クッキーと飴だった。どちらもスーパーやコンビニで売っているほどメジャーなもので、ひかりも何度か口にしたことがある。希美が先ほどまでいた民家。もとい、ひかりが希美と会った家に元々あったものだろう。あんなに怯えて隠れていた割には、案外目ざといところがあるようだ。一応、いい意味で。

 

「あ、ありがとう。でも、希美はいいの?」
「うん。いくつかあるし。それに、ひかりが私を見つけてくれたお礼も兼ねているから。遠慮なく遠慮なく」

 

 笑いながらそう告げる希美を見て、胸がチクリと痛む。こういうところだ。こういうところがあるから、嫌いにはなれないのだ。希美のことも、自分と似たようなクールな細谷理香子(女子16番)五木綾音(女子1番)のことも、ちょっとおどおどしている鈴木香奈子(女子9番)のことも。

 こうやって一緒にいてくれて、お菓子もわけてくれる彼女らのことを、心底嫌いなわけじゃない。ただ、ただきっと嫉妬しているだけだ。小学生のときから仲の良かったあかねと結香が、自分の人と以外と仲良くしていることが気に食わないだけなのだ。学年一の頭脳を持つ希美のことも、冷静沈着な理香子のことも、運動神経抜群な綾音のことも、いつも嫌な顔一つせず笑っている香奈子のことも、身勝手な感情で気に食わないだけなのだ。

 自分にないものを持ち合わせている彼女らに、自分はただ嫉妬しているだけ。

 

「でもさ、ホントよかった。ひかりが私を見つけてくれて。偶然、私がいる家に入ってくれて」

 

 そんなひかりの感情には気づかないのか、希美は話し続ける。その佇まいは、いつもと何ら変わりない。会ったときの希美が、嘘であるかのようだ。

 

 そう、希美の言う通り、二人が再会したのは、本当にただの偶然だった。

 

 学校前であかねや結香を待てなかったことを後悔し、ひかりは暗闇の中ずっと積極的に移動していた。すれ違いを避けるためにどこかで潜んでいた方がいいかもしれないとも考えたが、じっとしていても落ちつかなかったので、自然と探す方向で身体が動いていた。そうしているうちに日が変わって、マシンガンの銃声がまた聞こえ、それからしばらくして見つけた民家。落ち着きのない二人が隠れている可能性は低いだろうと思いつつ、念の為と足を踏み入れたところ、そこに希美が一人でいたのだ。そのとき希美は、まるで押し入れに閉じ込められた子供のようにひどく怯え、小さく座りこんでいた。普段の明るさからは、まったく想像できないほどに。

 本心を言ってしまえば、そこから黙って立ち去りたかった。けれど、こちらがその姿を見つけた途端、希美はひかりに抱きつき、声こそあげなかったものの、肩を震わせて泣いたのだ。その姿を見て、黙って去ることなどできなかった。それに、ひかり自身にしても、一人がよかったわけではない。だから、心のどこかでホッとした部分もあった。

 それからしばらくしてその民家を去り、今こうやって一緒に移動している。その目的は、主流派グループの他のメンバーを見つけるためにだ。

 

「……まぁね。けど、希美があんなに怯えているとは思わなかったよ」
「ちょっと……昔を思い出しちゃってね……」

 

 そう呟く希美の表情に、少しばかり影が差す。その意味を、ひかりは知らない。付き合いが浅いこともそうだが、希美があまり過去のことを話そうとしないからだ。特に知りたかったわけではないので、こちらも敢えて言及しなかったけど、もしかしたら過去に何かあったのかもしれない。

 

「それにさ、香奈子……呼ばれちゃったし……」

 

 そう言って、今度は顔を伏せていた。こちらに泣き顔を見せないようにしているのか、顔を上げる気配すらない。まるで、膝を抱えて泣く子供のように、その姿はとても小さく見える。

 

「言い訳にしかならないんだけどさ。私、怖くて……。学校から出たら、逃げることしかできなくて。逃げて、ここに隠れてじっとしていることしかできなくて。そしたら、香奈子が放送で呼ばれて……。悲しかったし、怖かったし、すごく後悔したの。私、香奈子を見捨てたんだって。でも……それでも怖くて……。こうやって知らないうちに、大事な友達がいなくなっていくかもしれないって分かってても……やっぱり怖くて……」

 

 ああ、やはり後悔しているのか。一番最初の出発で、待ち伏せで殺されることもなかったのに、怖くて逃げてしまったことを。ひかりは希美がいないことにむしろ安堵していたけれど、希美は友人を見捨ててしまったと思っているのかもしれない。

 その気持ちは、少しばかり理解できる気がする。同じことをひかりもしてしまっているし、同じように後悔しているから。

 

「……別に、希美のせいじゃないよ。だって、一番最初なんて誰だって怖いし、次はあの澤部でしょ? 出た瞬間何されるか分かったもんじゃないし」
「ううん。澤部はこんなことしないって分かっていたの。こんなことをするほど馬鹿じゃないって、分かっていたのに……!」

 

 希美はそう呟くと、今度は悔しそうに唇を噛んでいた。ひかりにとって、澤部淳一(男子6番)こそプログラムに乗りそうな人物だけれど、希美にとってはそうではないらしい。まぁ互いに認め合ったライバル同士で、三年間同じクラスだったのだ。ひかりよりも希美の方が、淳一のことをよく知ってはいるだろう。ここは希美の意見を尊重する意味で、それ以上は何も言わないことにした。

 

「だからさ、ひかりが見つけてくれたとき、本当に嬉しかったんだ。動けない私と違って、ひかりはちゃんと友達探していたんだって。きっとひかりも怖かったのに、探してくれていたんだって……。本当に……」

 

 違う。ひかりが探していたのは、あくまであかねと結香だけだ。そこに、希美を含んだ他の四人は入っていない。見つけたのは、ただの偶然で、そして不可抗力。それは希美にとっては幸運であっても、こちらにとってはいわば災難なのだ。

 けれど、そんなことを言えるわけがない。下手に仲違いして、命の危険に晒されるような事態になりたくない。それに、純粋にそう信じてくれている希美のことを、今さら裏切れるわけもなかった。

 

「ホントに、ホントにありがとう……。ひかりがいてくれて、良かったよ……」

 

 そうお礼を言ってくれる希美を見るたびに、チクリと心が痛む。ひかりが本心では間逆のことを考えていることなど、希美は知る由もないのだろう。ずっとどこか疎ましく思っていたことなど、信じられないだろう。何かあったわけでもない。これまで上手くやってこれたのに。

 本当は分かっているのだ。いい人であると。悪い人ではないと。あかねや結香が引き込むくらい素敵な人だって、頭では分かっている。だから、この広い会場で再会できたことを、本来なら素直に喜ぶべきなのだ。やる気の人間もいて、もうメンバーが一人欠けていて、他のみんなも今どういう状態か分からない以上、お互い怪我もなく出会えたことは奇跡といってもいいのだ。

 なのに、こんなことを思ってしまう自分が、心のどこかで疎ましく思っている自分が、とても汚い人間であるかのように思えてしまう。

 

「……いいって、もう。お礼なら何度も聞いたし。私も待てなかったのは同じだし。それに、私も一人は怖かったから、一緒にいてくれる人がいるのは心強いし」

 

 嘘ではない。一人が怖かったのも、誰かと一緒にいることがこんなに心強いと思ったことも本心だ。これは決して悪いことでも、汚いことでもない。騙しているわけではない。だから、心を痛める必要もない。そのせいか、心のどこかで安堵している自分がいる。

 

「……やっぱり、ひかりは優しいね。ありがとう」

 

 ひかりの言葉をそのまま受け取った希美が、そう素直に返事をする。その言葉で、また胸がチクリと痛む。それ以上、希美の顔を見ていられなくて、視線をわざと逸らした。それから、しばし沈黙が流れる。

 

――こういうとき、どうしたらいいんだろう。

 

 この緊張の中であるせいか、その沈黙を上手く埋められるいい話がまったく浮かばない。そうでなくても、希美ら他の四人と二人きりになることを極力避けていたせいで、仲睦まじく話せる雰因気にすらほど遠い。会話の切り出し方すら、どうしたらいいのか分からないくらいに。

 

――あかねや結香なら、他愛もない明るい話をして盛り上げたりするんだろうな。綾音や理香子なら、もっと冷静に周りを見て、適切な行動を取れるんだろうな。もし香奈子が生きていたら、ただ黙って頷いて、でもきっとそれだけで救われたりするんだろうな。

 

 ああ、まただ。また嫉妬している。そうやって嫉妬しているから、彼女らを嫌うのだ。友達として、素直に友好を温めようという気になれないのだ。

 

――嫌だな。こんな自分。

 

 あかねや結香みたいに、新しく出来た友達を素直に受け入れるだけの心の広さが欲しい。今まではただ四人に対して嫌悪感を抱くだけであったけど、こういう状況でも自分のことを信じてくれている希美を見ていると、なんだかとても申し訳ない気持ちになる。少しでも疑ってくれるなら、何の躊躇いもなく決別することができるのに。それも、相手に全ての非を押し付け、自分はさも被害者であるかのように。

 そうだ。そうやって疑われてしまう可能性だってある。誰も彼もが、希美と同じように信じてくれるとは限らない。ひかりの本心を知っていて、何も知らなかったかのように振る舞っていたのなら、綾音や理香子は信じてくれないかもしれない。いや、あかねや結香にしても、無条件に信じてくれるか分からない。信じてほしいと思っていても、相手がその意を汲んでくれないのかもしれない。信じてほしい相手に信じてもらえないなんて、今考えればとても悲しいことだ。

 信じてくれなかったら、希美のように信じてくれなかったら、そのときは一体どうしたら――

 

「ひかり、危ない!!」

 

 突然の希美の叫び声を共に背中を押し倒され、いきなり地面に押さえつけられる。その次の瞬間、パパパパパという連続した銃声音が鼓膜を激しく揺らす。近くの木に着弾したかのような音も聞こえた。

 

「えっ、何? 何なの?!」
「マシンガンの奴だよ! とにかく、ここに隠れよう!!」

 

 マシンガンの奴――それは、曽根みなみ(女子10番)を殺したであろう、あのマシンガンの人物のことだろうか。だとしたら、それはとてもマズイ状況ではないか。あんなので撃たれたりしたら、こっちはひとたまりもない。希美の武器は煙玉。ひかりの武器は血のりとダミーナイフ。どう考えても対抗できるわけがない。

 マシンガンの人間に命を狙われているという事実だけでも、ひかりをパニックに陥らせるには十分だった。比較的クールな性格と言われるひかりだけれども、それはあくまで普段の生活の中だけの話だ。こんな命を脅かす危機において冷静でいられるほど、ひかりは精神的に大人というわけでもなかった。

 

「い、いやっ! 怖いッ!」
「ひかり待って! 闇雲に走ったら、相手の思う壺だよ!!」

 

 そのまま走り去ろうとするひかりを、希美は腕を掴んで止めていた。そして、そのまま近くの木の影に隠れる。隠れた瞬間、またパパパパパという銃声が聞こえ、弾丸によって折られた小枝が、何本かひかりの頭上に落ちてきていた。

 

「なんで止めたのよッ!! 逃げなきゃ撃たれて死んじゃうじゃない!!」
「マシンガンはいわば弾をばら撒いているんだから、そういう人間こそ標的になりやすいんだよ。逃げるにしても、だた闇雲に走るんじゃダメ。何か策を考えないと」
「策って!! そんなの考えている時間――」

 

 半ばパニック状態に陥っているひかりの口を、希美は静かに塞いでいた。そして次の瞬間、またパパパパパという音が聞こえる。幸いにも、弾が二人に当たることはなかった。

 

「私に考えがあるんだ」

 

 銃声が止んだ頃、小さな声で希美が話し始めていた。

 

「どうやらあのマシンガン。全部撃ち尽くすのに大体二秒くらい、マガジンを変えるのに十数秒かかるみたい。本当ならマガジンも撃ち尽くすまで待ちたいけど、いつになるか分からない以上、それまで動かないのは危険すぎる。だから、次のマガジン変えるその隙を狙って、ここから離れるよ」
「で、でも……それって一分もないじゃない! そんなんで逃げきれるの?!」
「大丈夫。だって、私には煙玉があるもん」

 

 そう言って、希美はポケットの中から煙玉を取り出していた。ついでに、反対のポケットからライターも。

 

「次の銃声が止む直前くらいに、私がこの煙玉に火をつける。相手がマガジン変える前には煙が発生して、上手くこの辺の視界を遮ることができるはず。そしたら遠ざかるように逃げればいい。念のため、ここから二手に別れて逃げよう」
「で、でも……それじゃ……」

 

 躊躇うひかりの言葉を遮るかのように、希美はわざと明るい声で話を続ける。

 

「確かに大博打だけどね。でも、これ以上にいい策は思いつかない。それに、ひかりは陸上部じゃない。大丈夫、逃げられるよ」
「そ、そうじゃなくて!!」

 

 希美の言葉を遮るかのように、ひかりは大声を出していた。確かに、希美の言うとおり大博打ではある。けれど、ひかりが言いたいのはそういうことではないのだ。

 

「分かってんの?! その提案、どっちかが死ぬ可能性が高いじゃない! 確かに私は陸上部だけど、そしたら希美が――」

 

 そう、そうやって二手に別れるということは、相手が諦めない限り、どちらか片方は追いかけられることになる。最悪の場合、その片方が犠牲になってしまう。そしてこの場合、客観的に考えて、陸上部で足の速いひかりより、頭こそクラス一だが運動神経は人並みである希美が犠牲になる確率が極めて高い。

 つまり、希美が犠牲になることで、ひかりを生かそうとしている。そう暗に聞こえてしまうことが、ひかりにとっては問題なのだ。

 

「大丈夫。私は私で上手くやるよ。それに、煙の中追いかけるなら、相手はどちらかだなんて、増してやどこに逃げたか分かんないでしょ? だから、追いかけるのがひかりの方かもしれない。こればかりはどうしようもないの。だから、これは大博打なんだ。ひかりには悪いんだけどね」

 

 確かにそうだ。視界がはっきりしないのなら、相手ははどちらを追いかけているかなんて分からない。ひかりの方へ来る可能性もある。ひかりの言っていることは、あくまで相手がこちらの正体を分かった場合の話だ。

 そこまで考えたところで、ふと思った。そして、少しばかり驚いた。たった今、希美の安否を気遣った自分に。それもごく自然に。何の躊躇いも、何の他意もなく。本当に友達を心配するかのように。

 

「それに、まだあかねにも結香にも、綾音に理香子にも会えてないもん。こんなところで死ねないよ。あの犯人のことも、伝えなきゃいけないしね」
「え? 撃ってる犯人、見えたの?」
「うん。どうやら隠れる気もなかったみたいだし」

 

 そう言って、希美は言いにくそうに一度言葉を切った。その瞬間、まだ連続した銃声が聞こえ始める。銃声に被さるように、希美はこう続けた。

 

「撃っているのは、有馬くん。間違いないよ」

 

 その答えは、ひかりをひどく驚かせた。普段の性格から、まず乗らないだろうと考えていた人物だったからだ。あんな虫も殺さないような人間が、躊躇いもなくマシンガンをぶっ放すなんて。

 それに、彼はあかねが少しだけ思いを寄せていた人物ではないか。こんなこと、あかねが知ったらどれほどの衝撃を受けるか。

 

「嘘……でしょ?」
「嘘じゃない。何を思ってプログラムに乗ったのか、それは全然分からないけどね。でも、あかね達には伝えなきゃ。でないと、殺されかねないよ」

 

 けれど、とひかりが反論しようとしたそのとき、連続していた銃声が止んでいた。

 

「じゃ、行くよ!!」

 

 こちらの心の準備を待つことなく、希美は煙玉に火をつけた。思いの外火は導線を早く焼き、あっという間に煙を発生させていた。

 

「私は右手の方角に行くから、ひかりは左手の方角へ行って。できれば、また後で会おうね」

 

 最後に希美が小声でそう告げたのと同時に、人が去っていくような足音が聞こえる。このままでは自分が狙われてしまうと焦ったひかりは、そこから急いで駆け出していた。希美の言う通り、左手の方角へと。

 

『また後で会おうね』

 

 今まさに命を狙われている恐怖。また一人になるという寂しさ。それらもありつつ、心のどこかでは希美を離れられたことをホッとしている。そして、またそんなことを考えてしまう自分に嫌気が差した。それでも――

 

『分かってんの?! その提案、どっちかが死ぬ可能性が高いじゃない! 確かに私は陸上部だけど、そしたら希美が――』

 

 あのとき、希美の身を案じた気持ちは嘘ではない。だから、どうか逃げ切ってほしい。助かってほしい。そう思う気持ちも、決して嘘ではない。

 けれど、今はとにかく、我が身の安全が最優先だ。せっかく希美が考えてくれた策を無駄にしないためにも、目の前の脅威から逃れるためにも、全力で走らなくてはいけない。でないと、ここで死ぬことになってしまうのだ。

 

――動いて! 逃げないと! まだ死にたくないんだから!!

 

 全力疾走でそこから走り去る。周囲はまだ煙に覆われているので、何も見えない。撃ってきたという孝太郎の姿も、逃げていく希美の姿も。

 逃げることしか頭になかったひかりが、気づくわけもない。本来聞こえるべき、自分以外のもう一つの足音。それがとっくの昔に、突然聞こえなくなったことを。

 

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 園田ひかり(女子11番)の足音が、段々遠くなっていく。その音を聞きながら、佐伯希美(女子7番)は、自分の考えた策が上手くいったことに安堵していた。

 

――よかった、ちゃんと逃げてくれて。これで、有馬くんのことはきっとあかね達に伝わる。ひかり、後は頼んだよ。

 

 ひかりに声をかけた直後、希美は数メートルこそは走り出したものの、すぐに足を止め、それ以上は決して動かなかった。全ては最初から考えていた通り。ひかりが逃げてくれれば、後は自分次第。この作戦が成功するかどうかは、全てはこれからの希美にかかっている。

 

――よし、大事なのはここからだ。どれだけ足止めできるか。今はそれに全力集中。

 

 ひかりに告げた策。実は言わなかった裏がある。それは別れて別々に逃げるのではなく、実際に逃げるのはひかり一人だけ。そして、希美は残って相手の足止めをするというものだ。

 単純に逃げても、上手くいけば助かるかもしれない。仮に相手が後を追っても、ひかりの言う通り、狙われるのは希美の方。陸上部であるひかりを追いかけるより、さして運動神経がいいわけでもない希美を追いかける方を選ぶだろう。でも、それはあくまで追いかける相手がはっきりしている場合、そしてただの推測にすぎない。どのような場合にせよ、相手がひかりを追いかける可能性だって大いに有り得る。それでは、自分だけが助かってしまう。ひかりを死なせてしまう。

 なら、敢えて自分は逃げない。逃げないで、ここで出来る限りの足止めをする。そうすれば、相手は確実にこちらに狙いを定める。その間、ひかりは距離を稼げる。自分が死ぬ可能性は極めて高いだろうが、ひかりが助かる確率は高くなる。ひかりにこう提案したときから、希美はこうすると決めていた。

 

 全ては、大切な友達を守るため。

 

――なんて……かっこよすぎるかな……? だって、私はひかりのこと好きだけど、ひかりはそうじゃなかったもんね。

 

 三年になって、みんなに出会って、仲良くなって少ししたら理解できてしまったこと。ひかりは、あまり自分のことを良くは思っていなかったこと。それは自分だけでなく、二年時に仲良くなった五木綾音(女子1番)鈴木香奈子(女子9番)、自分と同じく三年時からグループに入った細谷理香子(女子16番)のことも、内心疎ましく思っていること。

 でも、みんな知らないふりをしていた。それは、表立って波風を立てないようにするため。そして、何も知らないであろう東堂あかね(女子14番)辻結香(女子13番)を傷つけないため。ひかりがはっきりそう告げるまで、このままでいよう。暗黙の了解というやつで、ずっとそうやって付き合ってきた。

 そうやって付き合っていくことに、まったくの苦痛を感じなかったかといえば嘘になる。けれど、ひかりは時々不快感こそ露わにしていたものの、言葉で責めることも、冷淡な態度で突き放すこともなかった。それに、これはひかりに直接聞いたわけでもない。何となくそう感じているだけで、もしかしたら違うかもしれない。はっきりしないことで、見て見ぬふりをした。甘えていた部分もあった。それに、希美は本気でひかりのことを友達だと思っていたから、一緒にいることは嫌ではなかった。それを踏まえても、あそこはとても居心地がよかったのだから。そう、いじめられた過去が、フラッシュバックすることが時折あったとしても。

 ここで出会ったのも、おそらくひかりにとっては想定外だったのだろう。本当は、主流派メンバーの中でも、あかねと結香だけを探していたのだろう。けれど、希美が縋りついたから、ひかりは今までずっと一緒にいてくれたのだ。心のどこかで別れたいと思っていながら、これまで行動を共にしてくれていたのだ。

 それは、ある種の優しさであると信じたい。不器用で、少し人を好き嫌いするけれど、でも希美にとってひかりは大切な友達なのだ。

 だから、もし何かあったときは、全力でひかりを守る。絶対に死なせないのだと、心秘かに決意していた。たとえ、それで自分は死ぬことになったとしても。

 

――ああ、でも澤部には馬鹿って言われそうだな。こんな奴のために死ぬのかとか、小馬鹿にした感じで言われそうだな……。

 

 澤部淳一(男子6番)の、「お前、馬鹿か」という言葉が、頭の中でこだまする。そのとき浮かべる表情まで、頭の中で正確に描かれる。分かりやすいな。そうやって生きていけたらいいね。でも、これは自分で決めたことだから。

 

――そんなこと言ったって、澤部だって宮崎くんのためならこれくらいするくせに。今だって、一緒にいるんでしょ? 知ってるよ。あんたのことなんて、全部お見通しなんだから。それに……

 

『その提案、どっちかが死ぬ可能性が高いじゃない! 確かに私は陸上部だけど、そしたら希美が――』

 

――ひかりが、そう言ってくれただけで十分だもん。それだけで、私は頑張れるよ。

 

 煙が晴れる。視界が広がる。震える足で、元来た方向へと向かう。次第にシルエットが見えてくる。それは、まぎれもなく、自分の命を奪う死神の姿。

 数メートル先にいる有馬孝太郎(男子1番)は、少々驚いたような顔をしている。どうやら、二人とも逃げたものと思っていたのだろう。見る限りでは、最初に希美たちを襲撃した場所から動いていない。おそらく視界がはっきりしたら、追いかけるつもりだったのだ。視界のはっきりしない煙の中を、むやみに撃ったり、増してや追いかけることはしないと、予測していた通りになってよかった。希美なら、そうするからだ。

 

――さて、大事なのはここから。

 

 煙がたちこめている間に、マガジンの交換は終わっているだろう。そして、こちらに孝太郎に対抗できるような武器はない。使えるのは、武器ではなく言葉や振る舞い。頼れるのは、自分の頭だけ。

 

――仮にもクラス一のこの頭。今使わないで、いつ使うのッ!

 

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