救いの手@

 

 宮崎亮介にとって、家は安住の場所ではない。家族は、ありのままの自分を受け入れてくれる温かいものではない。常に緊張を強いられるところであり、恐怖を感じる場所。氷のように冷たく、そこにいるだけで自分が凍りついて動けなくなってしまうような、そんな危ういところ。

 生まれてから今まで、優しい言葉をかけられたことは一度もない。物心ついたときから、罵声ばかり浴びせられてきた。最初はその理由さえも分からなかったけど、時が経つにつれて、それは嫌でも理解できるようになっていった。

 

『またこんな点数取って!! 一体いつになったら満点取れるようになるのッ!!』
『みんなこれくらい出来るのよッ! どうしてあんたはこんなこともできないのッ?!』

 

 試験で満点を取れないから。クラスで一番になれないから。優秀な子ではないから。それが、罵声を浴びせられる理由だった。今なら、どうしてそんな理由で、と思うこともできる。けれど、そのとき“家”以外の世界を知らなかった亮介にとって、そう言われることは、自分だけ世界から弾き出されたかのようで、荒野の土地にたった一人で放り出されたようで、とても怖かった。だから、両親から見放されまいといつも必死だった。

 そんな両親の期待に応えるためにも、毎日必死で勉強した。けれど、その努力は報われたとはいえない。睡眠時間を削って必死に勉強しても、自分では成績が上がったと思っていても、一度だって両親が褒めてくれたことはなかったからだ。クラスで五番以内に入っても、百点満点中九十八点取っても、どうしてもっと上にいけなかったのか、どうしてこの一か所を間違えたのか、彼らが口に出すのはそんなことばかりだった。きっと一番でなければ、満点でなければ、それ以外はどんなに良くてもダメだったのだろう。結果が全てだった両親にとって、亮介が夜な夜な睡眠時間を削って勉強していることなど、褒める対象でも何でもなかったのだろう。

 そんな両親の意向で、小学校に進学する際、当然のように私立をいくつも受験した。何とか青奉小学校には合格したものの、それ以外の学校は全て落ちてしまった。その時の両親の機嫌は、視線が合っただけでこちらが凍りつきそうなほど最悪だった。おそらく、両親はもっと上の学校へ進学してほしかったのだろう。青奉小学校も決して悪いところではなく、私立の小学校の中では中の上くらいの学校ではあるのだが、それでは不満だったらしい。かといって、今さら公立の小学校に進学させることもプライドが許さなかったらしく、結果的にそのまま青奉小学校へと進学することになった。

 

『まったくどうして……私達の子供なくせに、あんなに出来の悪い子になったのかしら……?』
『もしかしたら、病院で取り違えにあったのかもしれない』
『いっそ孤児院に捨てて、もっと優秀な子を養子にでも――』

 

 見えないところで、両親のそんな会話が聞こえてきたことも、一度や二度ではない。その通りに捨てられることが怖くて、だからいつも必死で勉強して、でも思ったような結果が出ないから怒られ、そしてまた同じ会話を聞く。その繰り返しだった。

 

『出来の悪い弟を持って、兄貴はホント苦労するよ』

 

 そんな亮介には、一人の兄がいる。成績優秀で、運動もできる。おまけに顔立ちもいいのだから、親から見れば、正に“非の打ち所がない優秀な息子”だろう。実際、周りの大人たちがそう言っているのを何度か聞いたことがある。

 そんな兄も、両親の影響かひどく冷淡なことをよく口にしていた。そして、両親の見えないところで殴られたりもした。優秀な兄だったから、バレないように腹や背中が中心だった。痣ができても、時に殴られすぎて吐血しても、亮介は決して誰にも言わなかった。言っても誰も味方にはならない。むしろお前が悪いと言われるのだと、そのときにはもう理解してしまっていた。

 

 そんな憂き目に遭いながらも、勉強だけは必死で続けた。けれど成績は伸びずに、中学受験には見事に失敗してしまった。今度は他学校の試験に全て落ちてしまったので、そのまま青奉中学校に進学せざるを得なかった。その頃から、どんなに勉強しても無駄ではないかと、心のどこかで思い始めていた。けれど、今さら止めることもできなかった。止めて、本当に捨てられることが怖かった。勉強ばかりしていた関係で、友達という友達もいなかった亮介にとって、この頃も“家”だけが全てだった。

 運動神経だけは昔から良かったので、中学に進学してからテニス部に入部した。部活をすること自体は禁止されてはいなかったし、少しでも褒められる要素を増やしておきたいという考えからだ。入部当初はラケットの振り方から学び始めたが、元々の運動神経の良さもあってかメキメキと上達し、三年生が引退すると同時にレギュラーへと昇格した。それでも、両親が褒めてくれることはなかった。それどころか、この頃から成績を見るときやご飯ができたときに呼ぶとき以外、自分のことをまったく見なくなっていた。

 それと同時に、学校での人間関係に敏感になっていった。もう家族は自分を見てくれない。なら、居場所は学校にしかない。今さらだとは思ったが、もうそこにしか縋りつくところはなかった。けれど、これまでまともに友達がいなかったために、どうやって友達を作ればいいのか分からない。そんな亮介が他人に好意的な目で見られるために起こした行動は、学校で無理矢理明るく振る舞うことだった。

 

『おっはよーさんさん、おはようさん!!』
『古ッ!! そのギャグ古ッ!!』

 

 その努力は、いくらか報われたといってもいい。その明るさに魅かれてくれたおかげか、一人でいることは劇的に少なくなった。何かグループを組むときに、声をかけてくれる人間もできた。中でも一緒にバカをやってくれる弓塚太一(男子17番)とは、途中の帰り道まで一緒に帰るくらいまでには親しくなれた。

 けれど、それでも根本的な寂しさが埋まることはなかった。休みの日にまで会ってくれるような関係にまで、築くことができなかったからかもしれない。好意的な関係は築けたかもしれないが、結果として友達をつくるところまではできなかった。

 

 そして三年に進学し、意外にも特進クラスに配属された。ようやく努力が報われたと思ったが、やはり両親は褒めてはくれなかった。それどころか、やっとそこまでいけたかといわんばかりの態度だった。

 だから、自分の居場所を保つためにも、明るく振る舞うことは止めなかった。太一と再び同じクラスになれたこともあって、むしろ拍車がかかったかもしれない。家にいる自分と学校にいる自分が、まったくの別人ではないかと錯覚することすらあった。

 学校である程度の居場所を得られても、孤独を感じることはなくなっても、勉強だけはずっと続けた。諦めが悪かったのかもしれない。だからだろうか、学内順位が張り出されるときは、いつも穴が空くほど掲示板を見続けていた。

 

『また佐伯さんが一位かー。相変わらずトップの座は譲らねぇなぁ』
『でもさ、佐伯さんが一位になったのって、二年の終わりの方からだよな? それを考えれば、ずっと一位か二位をキープし続けている澤部の方がすごいんじゃねぇか。あんま好きじゃないけど』

 

――澤部……淳一……

 

 中学に入学して最初の試験があってから、ずっと心のどこかで意識し続けてきた名前。一年時も二年時も違うクラスだったため、三年になって初めてその顔を知ることができた。銀縁の眼鏡、神経質そうな顔つき、運動していないことを証明するかのような細い身体。まるで世間一般でいう優等生の特徴を、そのままあてはめたような人物だった。

 その澤部淳一は、クラス内どころか学校でもかなり浮いた存在だった。誰かと親しく話をしているところなど見たことがない。それどころか、用事があって話しかけてくる人間にすら、ひどく冷たい態度を取っていたような記憶がある。そのせいか大半の人間が淳一を苦手、もしくは嫌っていた。実際、亮介も苦手だった。けれど、それ以上に疑問だった。

 

――どうしたら……あんなにいい成績が取れるんだろう……。

 

 確かに淳一はいつも勉強しているし、読書をしているところも何度か見たことがあるから、実際知識の量は豊富なのだろう。けれど、同じくらいの努力を亮介もしてきたはずだった。なのに、どうして自分とはこうも違うのだろう。そんな憧れと嫉妬の入り混じった感情を、いつも淳一に対して抱いていた。直接会う前から、その存在を知った時から、ずっと。

 

――何か特別な勉強でもしているのだろうか。それともすごくいい塾に行ったり、優秀な家庭教師でもついているのだろうか。もし何か秘密の方法があれば……俺ももっといい成績が取れて……きっと親も認めてくれるんじゃ……。

 

 知りたい。淳一がどのようにしてその豊富な知識を頭の中に入れているのか、どうしたらあんなに優秀な成績が取れるのかを。淳一の存在を知ったときから、心秘かにそう思っていた。けれど、淳一がどのようにして勉強しているかなんて、当然ながら誰も知るはずがない。だから、一生その方法を知ることはないだろうと、心のどこかで諦めていた。

 けれど、その答えを知るチャンスは、思わぬ形でやってきた。それも、青天の霹靂といってもいいほど突然だった。

 

『なぁなぁ、宮崎。今日部活ないんだってよ』
『え? そうなのか?』
『なんか顧問が急用で休みだってよ。前日の雨でコートもびちゃびちゃだしな。たまにはいいだろーって、部長が』

 

 そうなのか。そんな会話を部活の仲間としていると、丁度淳一が目の前を横切っていた。別に何をするわけでもなく、ただ横切っただけ。そういえば日直だったか、手には日誌を持っていた。今から職員室に提出しに行くのだろう。そのとき、ある考えがひらめいていた。

 

『……分かった。じゃあ、また明日』

 

 教えてくれた相手にそう別れを告げた後、急いで教室に戻った。机にかけていた鞄を手に持ち、急いで靴箱へと向かう。予想通り、淳一の靴箱の中には、上履きではなくローファーが置かれていた。

 

――よし、まだ澤部は帰っていない……! 確か部活にも入っていなかったはずだから、日誌を出したらそのまままっすぐ帰るはず。俺はあるはずの部活がなくなったから、多少帰りが遅くなっても大丈夫。

 

 急いで靴を履き替え、帰宅部の生徒に混じって校門へと向かう。校門を出たところでいつもは左に曲がるのだが、そうせずに校門の影でじっとしていた。待ち合わせをしている生徒も何人かいるので、こうしておけば不自然ではないだろう。

 

――チャンスかもしれない。今なら……!

 

 注意深く校門から出てくる人間を見つめること約五分。目的の人物が、不機嫌そうな顔で姿を現していた。こちらの方を見向きもせずに、校門を出たところで、右手の方角に曲がりスタスタと歩いていった。

 五メートルくらい離れたところで、亮介も歩き出した。ただし、いつものように校門から左に曲がるのではなく、右に曲がった。淳一から決して目を離さず、けれどバレないように細心の注意を払いながら、あくまで他の生徒と同様、家に帰る風を装って。

 

 そう、亮介が淳一のことを知るために起こした行動は、彼の後を尾行することだった。

 

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 どうか振り返りませんように願いながら、淳一の後を追う。願いが通じたのか、淳一はこちらには気づかずに、一人でどんどん歩いていく。スタスタとまっすぐ進み、そのままその先にある大きな信号を渡り、少し細い道に入って二車線の道路に出たところで左に曲がる。そしてまたまっすぐ歩いていき、多くの車が行き交う大通りにさしかかったところで、今度は右に曲がる。その先には、見慣れない駅があった。

 

――まさか……電車通学なのか?

 

 あまり電車を使ったことのない亮介にとって、これは大きな誤算だった。自分が歩いてこられる距離に住んでいるせいか、交通機関を使っているとは夢にも思わなかったのだ。確かに私立である青奉中学校において、電車通学している生徒は少なくない。現に、クラス委員の須田雅人(男子9番)は、かなり遠方から通っているという話を耳にしたことがある。

 亮介が動揺している間にも、淳一の歩みは止まらない。階段を上がり、迷うことなく駅構内へと入っていく。券売機へ向かうのかと思えば、淳一はそちらの方には見向きもせず、そのまま改札口へと向かっていた。そして何かを改札に通し、また同じ歩調で歩いていく。

 

――もしかして……定期ってやつか? どうしよう……これじゃどこで降りるか分からない……!

 

 ここで諦めようかとも思ったが、次いつチャンスが来るか分からない。淳一の姿が見えなくなったところで、亮介は急いで券売機のところへと走った。迷わず一番高い切符を購入し、そのまま慌てて改札を抜ける。

 

――改札をくぐって、確か……右の方へ行った。どうかまだ電車が来てませんようにッ……!

 

 右に曲がり、そこにあった階段を一番飛ばしで駆け上がる。階段を上りきると、ホームにはたくさんの人がいた。その大多数の人間の中に、電車を待つ淳一の姿もあった。

 

――良かった……。見失わずにすんだ……。

 

 ホッとしたのもつかの間。すぐにベルの音が鳴り響き、ほどなくして電車がやってきた。少しばかりくすんだ緑色をしており、一両あたり二つドアのついている五両編成の普通電車。パラパラと乗り込む人にまぎれて、淳一もその電車に乗り込んでいた。それを確認してから、亮介はバレないようにその隣の車両へと乗り込む。すぐにアナウンスが流れ、ゆっくりと電車が動き出した。

 

――どこまで乗るんだろう……。まさか、すごい遠い駅じゃないよな……。

 

 降りるところを見失うまいと注意深く観察するが、淳一が動く気配はまったくない。そうやって一駅、二駅と過ぎるたびに、不安は募っていく。窓から見える景色に見覚えはない。耳にする駅名も、初めて聞くものばかり。加えて、自分と同じ制服の人間は数えるほどしかいない。

 そんな亮介のことなど知る由もない淳一は、静かに本を読んでいた。表紙を見る限り、歴史の教科書のようだ。電車の中でも勉強しているなんて、乗り過ごしたり、酔ったりしないのだろうかと余計な心配をしてしまう。けれど、そんな小まめなところが学年二位をキープする秘訣なのかもしれないと、一つの参考として心の隅に留めておくことにした。

 

 四駅目で淳一は電車から降りた。アナウンスギリギリで亮介も降りる。降りた駅名だけは横目で確認し、すぐに淳一の後を追った。

 

 改札を抜けた淳一は、そのまま左に曲がり、真っ直ぐ歩道を歩いていく。見通しがいい道であるために、細心の注意を払いながら亮介は後を追った。しばらく道なりに進んだ後、淳一は左手にある小さな道へと入る。少しだけ距離を詰めてから、亮介も同じように左に曲がった。

 車一台がやっと通れるほどの細い道。その道を、淳一は振り返ることなく歩いていく。所々に立っている電柱に隠れながら、亮介は見失わないように後を追う。

 

――どこまで行くんだろう……? もう五分以上歩き続けているじゃないか……。

 

 何度か角を曲がり、時に車とすれ違いながら、一定の距離を保って追い続ける。周囲の景色も、駅近くの賑やかな商店街から、閑静な住宅街へと変化していく。それに合わせるかのように、人の姿も少なくなっていく。

 

――澤部って、こんなに遠いところから通っていたのか? いや、そもそもここら辺に家があるのかどうかも……。もしかして、学校から直接塾へ行っているのかもしれないし……。そもそも、澤部は一体どこに――

 

 そこまで考えて、ふと思った。そもそも、自分はこれから淳一がどこに行こうとしているのかも知らない。普通に考えれば家に帰るはずだが、そのまま塾や別のところに行く可能性だってある。行きつく場所を知ったところで、それが何になるのかも分からない。塾であったなら、それは大いに参考になるところだが、家だった場合はそれだけでは何の意味もない。最初は淳一の後さえ追えば何か分かるかもしれないと思っていたけど、今となってはなぜそんなことを考えたのか疑問に思う。それに、これ以上深追いすると迷子になってしまうかもしれない。いっそもう帰ってしまおうか。そう思った矢先、淳一が曲がり角でもないところでいきなり右に方向転換した。亮介も慌ててその後を追う。

 淳一の曲がったところには、やや大きめの一軒家がそびえ立っていた。全体的に白い、清潔感あふれる外観だ。建物の綺麗な外観から考えて、つい最近建てられたものだろう。淳一はその建物の右側を数メートル歩いたと思ったら立ち止まり、何かドアらしきものを開けて中へと入っていた。それを確認してから、亮介はその建物の前に立つ。その建物を前にして最初に目についたのは、少しばかり見上げたところにあるたった四文字の漢字だった。

 

“澤部内科”

 

 ああ、そうだったのか。そう、妙に納得していた。どうやらここは淳一の家で、それと併設している形で小さな医院が建っているらしい。やけに清潔感のある白い外観も、ここが医院であることを意識してのことだろう。おそらく亮介の真正面にある大きな入り口が医院の玄関で、淳一の入ったところは併設している住居の入り口。そして、ここの医院の経営者である医師と、併設している住居の家主は同じ人物。つまり、淳一は医者の息子なのだ。それなら、あの優秀さにも十分すぎるほどの説明がつく。そう分かった瞬間、何だか拍子抜けしてしまい、そしてどこか失望の入り交じった感情を抱いてしまう。

 

――所詮は、生まれつき頭の良さが違うってだけのことなのか……。

 

 淳一の成績の秘密さえ知れば、きっともっといい点数が取れる。今思えば、どうして何の根拠もなくそう思っていたのだろう。誰でもいい成績が取れる方法なんてものがあったら、個々であんなに差がついているわけがない。所詮、生まれついたものには勝てないのだ。いくら努力しても親を納得させるだけの点数を取ることができない、同じ親から生まれたはずの兄のように優秀ではない、ここにいる自分がいい例ではないか。

 

「……もう帰ろう。遅くなると、何言われるか分からないし……」

 

 勝手に期待して、勝手に尾行したりして、挙げ句の果てには失望したりして、淳一からすれば随分迷惑な話だろう。けれど、これではっきりした。努力したところで、自分は淳一のようになれない。認められることも、褒められることもない。そして両親には見向きもされないで、実の兄には暴力を振るわれる。これからもそういう人生を送るのだ、自分は。

 淳一に後を尾けていたことがバレる前に帰ろう。そして、今日のことはなかったことにしよう。そう思った瞬間だった。

 

「俺に何か用か? 宮崎亮介」

 

 突然聞こえてきた声。その声にいきなり自分の名前が呼ばれたことで、亮介の頭は真っ白になっていた。

 

「こそこそ後をつけて、一体どういうつもりなんだ」

 

 一度家に入ったはずの淳一が、いつのまにか外に出ていて、今はドアにもたれ掛かるような形で亮介を見据えていた。腕を組み、眉間に深い皺を寄せ、怒りを露わにしたような表情で、亮介のことを睨んでいる。 

 

 その姿に両親や兄の影を見ているようで、身体の震えが止まらなかった。

 

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