救いの手A

 

「こそこそと後をつけて、一体どういうつもりなんだ」

 

 淳一からそう言われても、亮介は何も言えなかった。優秀な成績をキープできる秘密を知りたいから尾行していたなんて、口が裂けても言えるわけがない。

 

「何を黙っている。こそこそと後をつけてどういうつもりなのかと、俺はお前に聞いているんだ」

 

 先ほどよりも語気を強めて、淳一はもう一度同じ質問を口にした。けれど、亮介はその質問の内容より、語気を強めたその言い方にビクリとしてしまう。

 

――ここにいるのは澤部淳一であって、俺の親でも兄でもない。なのに……どうして……

 

 淳一の声で呼び起こされる記憶。過去ではない、今もずっと行われている出来事の記憶。怒りに染まった父の顔。ヒステリックに叫ぶ母。両親の見えないところで冷たく罵り、事あるたびに殴ってくるたった一人の兄。

 どうして淳一の後ろに、彼らの姿が見え隠れするのだろう。ここは自分の家ではないはずなのに、ここに彼らはいないのに、どうして――

 

「おいッ! 黙っていないで、何とか言ったらどうなんだ!」

 

 亮介が黙っていることに腹を立てたのか、今度は怒鳴るような声で淳一は同じことを聞いていた。しかしその怒鳴り声こそが、亮介の中にある恐怖心を呼び起こしてしまう。

 

『どうしてこんな点数しか取れないのッ!』

 

 どうしてと言われても分かるわけがない。自分は必死でやっている。試験中も手を抜いていない。試験前の勉強だってきちんとやっている。寝る間も惜しんで勉強している。なのに、どうしてそんな点数しか取れないのか。そんなこと、亮介自身が誰かに聞きたいくらいなのに。

 

――違うッ! ここにいるのは、俺の親でも兄でもない! なのに、どうしてこんなことッ……!

 

 違う。ここにいるのは彼らではない。でも怖い。たまらなく怖い。お願いだから、そんな風に怒鳴らないで。怒らないで。どうか、どうか――

 

「おいッ! 何をボケッとしている!!」

 

 しびれを切らしたのか、淳一からドアから離れてこちらへと近づいてくる。その威圧感で、恐怖心はどんどん増幅されてしまう。

 

――嫌だッ! 嫌だ……! お願いだから……来ないでくれッ!!

 

 あと五メートルというところまで淳一が近づいたところで、その威圧感に耐えられず、亮介は走り出していた。何か考えたわけでもない、ただその場から離れるための行動だった。

 

――怖いッ……! 怖いッ……!

 

『父さんは恥ずかしいよ。お前がこんなできそこないだったなんて』
『あんたはダメな子ね! どうしてこんなこともできないのッ!!』
『お前なんか、いなくなっても誰も困らないんだよ。むしろいなくなればいいんだ』

 

――そんなこと……言わないで……。

 

 息を切らしながら、必死で走る。どこに向かっているわけでもなく、ただ家族の影を振り払うためだけに。

 

『お前なんて、もう見るに値しない』
『お前なんか、うちの子じゃない!!』
『お前は、この世にはいらない人間なんだよ』

 

 いらない。自分はこの世界に必要ない。役立たずで、何の取り柄もなくて、実の親の期待すら答えられないこんな出来損ないなんて、必要ない。誰も必要としてくれない。

 

――俺は、これからどうしたらいいんだ……? どうしたら……?

 

 次第に息が切れ始め、走ることも辛くなる。だから、足を止めた。そして視界に映る景色を見て、愕然とした。

 

「ここ……どこだ……?」

 

 まるで知らない景色。通ってきた道ではない。無我夢中で走ってきたせいか、どこをどう曲がって、どれだけ走ってきたのかすらわからない。

 

「俺……ここまでどうやってきたんだ……? そうだ、駅……駅はどこだ?! と、とにかく、誰かに駅の場所だけでも聞いて――」

 

 そこまで口にして、周囲を見てさらに愕然とした。誰もいない。車が一台も通らない。電車の音も聞こえない。近くの電柱に○丁目と書いてあるが、それは何の参考にもならない。

 見知らぬ土地で、たった一人。頼れる人もいない中、家に帰る方法すら分からない。

 

「ど、どうしよう……。どうやって帰れば……」

『お前なんか、いなくなればいいんだ』

 

 そこまで口にしたところでハッとした。帰る。自分は、一体どこに帰るというのだろう。居場所のない、あの家に帰るだろうか。誰にも必要とされていない、あの家に。誰にも愛されていない――あの家に。

 

「もう……帰らない方がいいのかな……」

 

 もう帰らずに、誰も知らないような遠いところへ行ってしまおうか。そうしたって、きっと誰も困らない。いや、もういっそどこにも行かない方がいいのかもしれない。何の役にも立たない、誰にも愛されない自分が、別のところに行っても迷惑をかけるだけだ。いっそどこかで野垂れ死にした方が、世の中のためなのかもしれない。逃げるような形になるけれど、その方がずっと――

 

「おいッ! 逃げるんじゃねぇよ!」

 

 現実に引き戻されるような形で、怒鳴り声が響く。心の中を見透かされたような言葉に、身体が勝手に硬直した。

 

「手間かけさせんな!」

 

 大声と共に、右腕を掴まれる。その瞬間、あの日のことがフラッシュバックした。

 

『お前見てるとイライラしてくるんだよ!!』

 

 吹き飛ばされそうな衝撃。ビリビリするような痛み。口の中に広がる鉄の味。怒りに染まった表情。蘇るあのときの映像と感覚。

 それは中学に上がってすぐ、兄に初めて殴られたときのこと。

 

――怖いッ……! 怖い、怖い、怖い……!

 

『こんなもんじゃねぇよ。こんなんで、俺の機嫌が直るとでも思っているのか?』

 

――来ないでくれ……! 殴らないでくれ……! 

 

『せめて、人間サンドバックとして役に立ってくれよな。どうせどっか壊れても、何も問題ないんだし』

 

 目の前にある兄の顔が、苛立ちと憎悪と、そして一種の狂気に染まっている。怒鳴られながら、時に笑われながら、いつ終わるとも分からない苦痛を味わう。兄の機嫌が直るまで、あるいは両親に何かあって呼ばれるまで、その行為は際限なく続く。叫んでも、涙を流しても、決してそれが受け入れられることなく、ただの人間サンドバックとして。

 怖い。それがとても怖い。だから来ないで。来ないで、来ないで、来ないで――

 

「おいッ、一体どこに行くつもり――」
「ゴメンなさいッ……!」

 

 思い出したくもない映像が蘇って、恐怖に駆られた亮介が咄嗟に口に出したのは、いつも兄に懇願する言葉だった。

 

「ゴメンなさい……! 僕が悪かったから、だから怒らないで……! 殴らないで……!」

 

 何度でも謝るから。何でもするから。だから殴らないで。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。人ではなく、物として扱われることも嫌だ。人なのに、生きているのに、同じように痛みを感じるのに、どうしてこんな――

 

「……何言ってんだ、お前」

 

 呆れたような声が聞こえたことで、亮介はようやく我に帰っていた。家族の影も、兄の姿も、そして幻聴も消え、代わりに目の前には淳一が立っていた。

 

――あっ……。俺、一体何言って……。

 

 淳一は何もしていないのに、どうしてあんなことを口にしたのだろう。どうして、家族の影など見たのだろう。どうして、兄に初めて殴られたときのことを思い出してしまったのだろう。

 淳一からしてみれば、とんでもなく失礼な話だ。

 

「ご、ごめん……。俺……その……」

 

 淳一に謝らなくては。誤解のないよう、きちんと説明しなければ。そう思い、言葉を口にしたものの、その前に淳一にこう聞かれていた。

 

「お前、帰る方向とか分かんのかよ?」
「え……?」

 

 思っていた事とまったく違うことを聞かれ、どう答えたらいいのか分からなかった。帰る方向。あの家に――帰る方向。

 

「どうせ後付けてきただけで、帰る方向とか全然分かんないだろ。ていうか、ここ俺も滅多に来ないとこだし、駅とも反対方向だし」

 

 淳一はそう言ってこちらの腕を掴んでいた右手を離し、今度は顔を覗きこんでくる。それはある意味無遠慮な行為であったけど、その表情を見る限り、こちらのことを心配してくれているようにも取れた。

 

「……何か顔色悪いぞ。人のことつけ回して、こっちがその理由聞いたら逃げ出して、挙げ句の果てには体調不良かよ。ったく、世話の焼ける奴だな」

 

 こちらにも聞こえるような盛大なため息の後、淳一は独り言のようにこう呟いていた。

 

「そのまま帰られても迷惑だし、ここで話すのも迷惑だし、まぁ……仕方ないな。とりあえず俺の家に来い。話はそれからだ」

 

 そう一人で結論を出した後、亮介に向かって右手を差し出す。それは優しさからと言うよりは、仕方なくと言った感じで。

 

「ほら、何ボケッとしているんだよ。さっさと立てよ」

 

 優しさの欠片もないような言葉だけど、その言い方には幾分かの優しさが込められているかのように思えた。少なくとも亮介には、それが澤部淳一なりの優しさに見えていた。

 

「あ……う、うん。なんか……ごめん」
「ただ謝られても迷惑だ。話は後できっちり全部聞いてやるからな」

 

 ぶっきらぼうに言った淳一のその言葉は、なぜか亮介の気持ちを少しばかり楽にしてくれた。きっとその言葉に、こちらの人格を尊重してくれているかのような響きがあって、それが純粋に嬉しかったからだろう。話を聞いてくれる人が、少なくとも自分の話を聞こうとしてくれた人は、今まで誰もいなかったから。

 

 これが、澤部淳一との最初の会話。そして、初めて本当の友達が出来た瞬間。

 

 荒っぽくも真っすぐ差しのべられた、冷たくも温かい救いの手。

 

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 ふと昔のことを思い出して、少しだけ胸が締め付けられるような気持ちになった。これはほんの半年前の話。セミが鳴くよりも前の季節の話。

 

 あれから、亮介の生活は少しだけ変化した。あの後、正直に淳一を尾行した理由も、それに付随して家のことも全て話し、そして改めて謝罪をした。淳一は話を全て聞いた後、一言「アホか」と言いつつも、亮介の行為を一切咎めなかった。むしろ、それなら勉強を教えてやるとまで言ってくれたのだ。そのせいか次第に淳一と一緒にいることが多くなり、逆に太一らとは段々疎遠になってしまったが、同時にあの作りだした明るさも成りを潜め、次第に学校でも素の自分へと戻っていった。

 何かが大きく変わったのかと言われれば、それはおそらく違う。両親は変わらず自分を見てはくれないし、兄に殴られることもたびたびある。成績は少しばかり良くなったものの、目を見張るほどでもない。淳一と親しくなっても、クラス内での立ち位置や太一らとそれなりに話す関係も変わらずだ。けれど、以前よりも自分の成績の悪さを嘆くことが少なくなったし、家に帰っても少しだけ落ち着いていられる。そうしていられるのも、きっと淳一が近くにいてくれるおかげだ。淳一と一緒にいるようになって、少しだけ自分に自信が持てるようになったからだ。自分の素の姿を知った上で一緒にいてくれる人の存在が、こんなにも頼もしくて嬉しいものだとは思わなかった。淳一が何か自分の両親と話したわけでもないし、根本的な家族関係には何の変化もないけれども、それでも亮介の中で何かが確実に変わっていた。 

 

――今の俺があるのは、今こうしていられるのは、淳一のおかげなんだ。

 

 だから、淳一がこの世界を変えるというのなら、それを全力で助けよう。そのためなら命だって懸けよう。元々あってないような命なのだ。淳一が学校まで戻って来てくれなかったら、とうの昔に誰かに殺されていたのかもしれない。いや、もしかしたらこの状況に耐えられなくて、自ら命を絶っていたのかもしれない。

 自分は、あのときから生かされている。本当の意味で生かされている。だから淳一のいない生活に戻っても、きっと自分は何の役にも立たない。淳一やほかのみんなの命を犠牲にして生き残っても、きっとあちらの世界に何の利益ももたらさない。

 だから、淳一を絶対死なせないようにしよう。そして何があっても、淳一の命を差し出したりしない。裏切ったりしない。淳一はきっとこれからたくさんの人を救うのだから、彼が生きて帰れるように全力を尽くそう。

 

――そのために、俺はここにいるんだ。

 

 改めてそう決意し、ふと探知機に視線を落とす。その次の瞬間、驚きと後悔で目を見開いた。

 自分らに近づく人間がいる。探知機の中で動く一つの星マークが、それを如実に示していた。

 

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