鋼の覚悟

 

 目の前の景色が上手く認識できないほどに、周囲を警戒する余裕もないくらいに、そして勝手に息切れまで起こしてしまうほどに本気で走ったのは、一体いつ以来だろうか。きっと今の自分は、誰が見ても逃げることに必死で、そして懸命に生きようとしているように映っているだろう。妙な気分だ。死ぬことを願っていたというのに、今は生きるためにこうしている。

 矛盾すぎる矛盾。もはや自嘲するしかない。

 

――だけど、あの変な女に殺されるのだけは嫌だ! 断じてゴメンだ!!

 

 五十嵐篤(男子2番)は、そんなことを考えていながらも、走ることを止めなかった。そんなことをしたら、今も嬉々として追いかけてきているであろう真田葉月(女子8番)に追いつかれて殺されてしまう。それだけならまだいいのかもしれないが、この状況を楽しんでいるあの女のことだ。どうせろくな殺し方をしてくれない。そんなことをされるくらいなら、どんなに無様であろうと逃げた方が百万倍マシだ。

 それに、今は冨澤学(男子12番)のこともある。確か学は運動が得意ではなく、いつも妹尾竜太(男子10番)あたりに馬鹿にされていたような記憶がある(だからこそ、声だけで分かるほどにはかろうじて覚えていた)。もしここで篤が走ることを止めてしまったら、おそらく学も葉月に殺されてしまうだろう。

 勝手に巻き込んでいながら、そんな無責任なこともできない。責任感というものが自分にもあったのかと不思議に思いながらも、掴んだ手を離すようなことはしなかった。

 

――あー、何でこんなことになったんか……。そもそも俺、どっか適当なところで死ぬつもりだったのに……。

 

 生き残りたいのではなく、どこか適当なところで死にたい。できることなら、自殺ではなく誰かに殺されたい。もっと言えば、できるだけ苦しまない方法で、できるだけ痛みを感じることもなく、一瞬であの世に行きたい。大半が死ななくてはならないこのプログラムにおいて、それは決して贅沢な望みではなかったはずだ。なのに、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。

 それともこれは、生きることを望まない自分に対する、一種の罰なのだろうか。死を望んだから、敢えてその死という名の安らぎを与えないとでもいうのだろうか。

 生まれたときから今の今まで、神も仏も、そして総統という奴も、この手には何も与えてはくれなかったくせに。

 

「い、五十嵐くん……。お願いだから、と、止まって……。もう誰も来てないし……それ以上行ったら……禁止エリア……!」

 

 そんなことを考えていると、思考を中断するかのように学の声が聞こえてきた。耳をすませば、自分と学の二つの足音以外は何も聞こえてこない。走ることに必死で、背後から聞こえてくるはずの足音が途絶えていたことにまったく気付かなかった。なら、もう逃げる必要はない。その声に応える形で、篤はゆっくりと足を止めた。

 今いるところは、何もない雑木林の中。自分よりもはるかに背の高い木々たちがそこかしこにあり、足元には青々とした雑草が生い茂っている。自然豊かな場所というべきだろう。生憎、そんな景色に心が洗われるということはなかったが。

 そんな景色にかまわず、篤は後ろを振り返る。そこには、呼吸もままならないほどゼェゼェと息を切らしている学の姿があった。

 

「……大丈夫、か……?」

 

 何を話せばいいのか迷い、結果的にありきたりな気遣いの言葉をかけた。思えば、これまで学と会話をしたことがない。そのせいか、どのように接したらいいのか分からないのだ。まぁそれは、何も学に限ったことではないけれど。

 

「あ……う、うん。だ、大丈夫……」

 

 これまでろくに話をしたことがない相手だからか、もしくはこの状況だからだろうか、学は言い淀みながらもそう返事をした。もしかしたらそれはただの強がりで、本当は大丈夫ではないかもしれない。けれど、他人とほとんど関わってこなかった篤に、相手の言葉の真意を推し量ることなどできるはずもないので、ここは素直にそう受け取ることにした。

 

「あ、あのさ、さっき走ってたのって、誰かに追われていたからだよね……?」
「まぁ……そんな感じ。えっと……真田っていう女がさ、襲ってきそう、というか襲ってくる一歩手前だったから、まぁ咄嗟に……逃げた」
「真田さんが……ああ、そうなんだ……。うん、ありがとう。状況は理解できたよ。それでさ、五十嵐くんにどうしても聞きたいことがあるんだけど……聞いてもいい?」
「ん? あ、ああ……別にいいけど……」

 

 何を話そうか悩む間もなく、学の方から積極的に話を切り出してきた。逃げた状況を聞かれるのは説明すると言った手前当然として、どうしても聞きたいこととは一体何だろうか。その疑問を深く考える前に、学はこう続きを口にしていた。

 

「どうして僕のこと、助けてくれたの……?」

 

 ああ、そうか。よく考えなくても、それは大いに疑問に思うところだろう。最後の一人にならない限り、ここから生きて帰ることはできない。他人の命を踏み台にしなくては生き残れないここのルールにおいて、人を殺すのではなく助けることは、この場においてはひどく矛盾していて、かつ非合理的な行為に他ならない。論理的で、かつ現実的に考えるならば。

 

「あー、なんでって言われるとなぁー……。困るんだけど……。大体そんなこと考える余裕なかったし……」

 

 相手の質問する意図は分かっていても、言葉通り考える余裕がなかったのだから、納得させられるような上手い答えが浮かんでこない。冗談混じりにはぐらかそうとも思ったが、こちらを見つめる学の視線はやけに真剣で、そして切羽詰まっているようにも見えるせいか、そうすることはできなかった。興味本位とか、冷やかし目的などではなく、ただ純粋に知りたいのだろう。その視線に耐えられなくなり、篤は学に背を向けた。別に害があったわけでもないのだから、そこは素直に礼を言うなり、黙って立ち去ればいいものをとも思ったが。

 

「……まぁ、別にいいんじゃねぇの? 理由とかさ、そういうのなくったって」
「え? なんでそんなこと……?」
「だってねぇもん。お前を助けたちゃんとした理由なんて。あのときは逃げるのに必死だったし、そんなに深く考えていなかったし、今更考えるのも面倒くさいし」

 

 考えるのも面倒になったので、ぶっきらぼうにそう答えた。そして、それが正直な答えだった。葉月から逃げている最中、目の前に学がいて、考えるまでもなくその手を取った。多分、それ以上の理由はない。考える前に身体が動いたというか、条件反射というか、おそらくそういうことなのだろう。

 

「まぁそういうことだから。運が良かったとでも思っておけば? 別に何か見返りとかもいらないし。じゃ、俺行くから。お前も早くここから離れたほうが身のため――」

 

 そう別れの言葉を口にしつつ、ごく自然な動作でもう一度学の方へと向き直った。そして、いつのまにか変化していた状況を把握できたとき、言葉がそれ以上出てこなくなっていた。

 なぜなら、篤の目の前にいる学が両手で銃を持ち、その銃口をこちらに向けて構えていたのだから。

 

「お前……」
「た、助けてくれたことは感謝しているよ……。でも……これはプログラムなんだ……。生き残れるのは、帰れるのは、一人だけなんだ……。僕はまだ死にたくない……。だから五十嵐くんにも……本当はし、死んでもらわなきゃ……」

 

 全身を震わせながら、所々どもりながら、学は言葉を続ける。言い訳のように、自分に言い聞かせるように、その言葉は止まることなく続いていく。

 

「でも……五十嵐くんは……命の恩人だから……。今だけは……今だけは……殺さないから。でも、今度会ったら……そのときは……殺さなくちゃいけないから。だからもう……僕には関わらないで……。でないと……僕は……」

 

 見れば、学は両目から涙を流している。銃を持つ手もガタガタと震えており、ろくに照準も定まっていない。引き金に指はかかっているけど、それを引こうという意志は感じられない。もしかしたら、今銃を向けているのはただの脅しで、それは命を助けてもらったことに対する、彼なりの優しさなのだろうか。ここで逃げてもらうために。そしてもう二度と、自分を助けることなどないように――

 

――そうか。お前は……。

 

 その言葉を聞いて、全てを理解をした。学は死ぬことではなく、生きることを選んだ。そして、そのためにプログラムに乗った。けれど学にとって、おそらくそれは苦渋の決断だった。きっと彼にとって、人を殺すことはとんでもない禁忌で、けれど生きるためにはそうするしかないと悟り、そして実行することにした。

 そしてそう決断しながらも、人を殺すことにまだ躊躇いがある。学にとって、篤はただのクラスメイトであるはずなのに。たかだか一年、同じ教室で同じ授業を聞いていただけの、その辺にいる人と大して変わらない存在であるはずなのに。そんな篤を殺すことですら、学はまだ迷っている。

 

――いたんだな。本当にそんな奴が。

 

 いるだろうと思ってはいた。けれど、会えるとは思っていなかった。そんなに切望していたわけでも、目標にしていたわけでもなかったのに、会ってみたいなと思っていた人間に会ってしまった。もしかしたら、これまで何も与えなかった神様や仏様とやらが、最後の最後で叶えてくれたというのだろうか。これまで何も与えてくれなかった、かけらほどの償いとして。

 そこまで考えたところで大きく息を吸い、学に聞こえるような音量ではっきりと告げた。

 

「なら、どうして今、俺を殺さないんだ?」
「えっ……」

 

 少しばかり怒気を含んだ声に気圧されたのか、学の身体が一瞬だけ小さくビクッと跳ねる。

 

「今、殺せただろ。逃げてるときでも、俺が背を向けているときでも、それを撃つことができただろ。なのに、なんでそうしなかった?」
「そ、それは……命の恩人……だから……」
「だから?」

 

 責めるような篤の言葉に、半分萎縮、半分困惑したような表情で、学はこちらを見つめていた。それもそうだろう。銃を突きつけられたこの状態で、殺されたくないというならまだしも、今殺さない理由を問うなど、おそらく理解できないだろうから。特に、学のようなタイプの人間には。

 

「命の恩人だから殺さない? そんなことが通じるのは、お人好しが得をするような世界だけだ。そんな恩なんて、ここでは一体何の意味がある? 最後の一人以外は、全員死ぬというのに?」
「な、なんでそんなこと言うの……? だって、五十嵐くんは死にたくないでしょ? 死にたくないから、さっき真田さんから必死で逃げていたんじゃないの……?」

 

 その言葉は半分正解で、半分は不正解だ。葉月に殺されたくなかったのは事実だが、死にたくなかったというのは間違いだ。あのとき死ぬことを拒絶したことは事実だけれど、だからといって生きたかったわけではない。

 けれど、その間違いの訂正はしない。それは、学にとって免罪符になってしまうから。今の学は、おそらくそれを必死で求めているだろうから。

 

「死にたくなくても、ほぼ全員死ぬだろ。それが早いか遅いか。それと誰に殺されるか、どんな死に方をするかの違いくらいだ」
「そ、それでも……! それでもできるだけ生き残りたいって思うはずじゃない……! もしかしたら、このままうまくやり過ごせば、運が良ければ、生き残れるかもしれないじゃないか。なのに、なんでそんなこと言うの……? どうして、生きることを諦めるの……? どうして――」

 

 どうして、僕に君を殺させようとするの? だって僕は、今君を殺したくはないのに――

 

 ああ、そうではないのだ。確かに、そういう風に考えることもできるだろう。けれど、篤の場合は違う。仮に生き残っても、家に帰っても、篤には何もない。家族も、友達も、恋人もいない。帰る理由も、帰りたい場所も、会いたい人もいない。やりたいことがあるわけでもないのだから、プログラムに乗る動機が何も見つからない。いわば、生きるために人を殺すことを決めた学とは、正反対の立場にいるのだ。

 正反対の立場だから、おそらくこの議論に終わりはない。結論はでない。互いに理解し合うこともない。なぜなら、根本的な考え方が違うのだから。生きることに対する考えからして、両者はきっと相容れないのだから。

 だから、この無意味なやり取りを終わらせるために。篤は黙って学の手を掴んだ。そして向けられている銃口を、強引に自分の胸に押し当てていた。学が目を見開くにも関わらず、篤は言葉を口にした。

 

「決めたんだろ。他人の命を踏みにじっても、周りの人間の未来を奪ってでも、生きて帰るって決めたんだろ。人を殺して、自分は生き残るって決めたんだろ。なら、この程度のことで躊躇するんじゃねぇよ。たかが命を助けてもらったくらいで、見逃すような中途半端な真似をするな」

 

 わざと傷つけるような台詞を選び、わざと責めるような口調で、言い訳や反論ができないように矢継ぎ早に言葉を口にする。学が逃げられないように銃をしっかりと握りしめながら、決して彼から視線を逸らさずに。

 

「俺とお前は、赤の他人だ。たかが一年、一緒に授業を受けたりしただけの関係だ。そんな人間すら殺せないなら、いつかはもっと容赦のない奴に殺される。加害者になることを選んだんなら、誰がなんと言おうと、相手が仲のいい友達であっても、躊躇うことなく殺す。そのくらいの覚悟、できてなくて生き残れると思うな。死にたくないのは、お前だけじゃないんだ」

 

 なんで、どうして。そんな言葉が、学の口からこぼれ出る。なんでそんなことを言うのか。どうして逃げたりしないのか。きっと彼には一生分からないであろう疑問が、心の中で際限なくあふれているのだろう。けれどその疑問の一切を、解決などしてやらない。

 今必要なことは、そんなことではない。無意味な疑問の解決ではない。今の彼に必要なのは、何があっても、どんなことをしてでも、生き残るという覚悟なのだ。

 

「人を殺さない言い訳を作るな。これから誰かを見つけたら、躊躇なくこの引き金を引け。それが、お前が死なないための唯一の方法だ」

 

 そう言って、もう一度グッと銃口を胸に押し当てさせる。そして、珍しくたくさん動かしていた口を閉じた。これ以上のことは言わない。必要以上の言葉と無意味な関わりは、なおさら決意を鈍らせる。後は、すべて学次第だ。

 篤の言ったことを分かっているのか、学は泣きながら、それでも銃を持つ手は離さなかった。震えながらも、視線を逸らすようなこともしなかった。

 おそらく今、必死で覚悟を決めている。これから何があっても、加害者になる覚悟を。

 

――まったく。優しすぎるんだよ、お前は。

 

 たかがこの程度のことで恩義を感じること自体、学はとても優しい人なのだろう。これから殺すであろう人のことを想い、その人の未来を奪うことに懺悔し、それがどれだけ罪深いかも分かった上で、それでもそちら側の人間になることを選んだ。それがどれだけ自分本位の考えで、どれだけ他人のことを踏みにじる選択だということも理解した上で、それでも生き残るために人を殺すことを選んだ。おそらくこれまで学んできた倫理を、全て捨てる覚悟もした上で。

 けれど、今のままの彼では、仮に生き残ったとしてもその罪に一生苦しむだろう。おそらく、それも分かってはいるはずだ。けれど、罪悪感は想像よりもはるかに大きな力で精神を蝕む。うまく昇華しきれない限り、その罪悪感で一生苦しむことになる。そうなってしまえば、いつかは廃人のように衰弱し、悲惨な結末を辿ってしまうだろう。それでは意味がないのだ。生きるために殺すことを選んだのに、向こうに戻ってから自殺したりするような生活を送るようでは、生きたとは絶対いえない。

 それに、ここで篤を殺すくらいの覚悟ができないのなら、学はいつか誰かに殺されるだろう。プログラムに乗っているのは、学一人ではない。葉月のように楽しんでいる輩もいるのだ。他人を殺すことを決めたのなら、道徳心や倫理ははただの足枷にしかならない。もしそれをまだ捨てられないのなら、今ここで捨てさせなくはいけない。完全には無理かもしれないが、少なくともこの場を見逃すようなことがあってはならない。

 

 中途半端な覚悟は、却って身を滅ぼす。加害者になるか、それとも被害者側に回るか。生き残りたいのなら、今ここでどちらをはっきりと選ばなくてはならない。たとえ、それで彼自身が変わってしまったとしても。

 

――何も捨てないで生き残ることなんて、出来やしないんだ。命を捨てたくないなら、そっちの方を捨てるしかないだろ。

 

 そうしてお互い黙ったまま、少しの間そのままでいた。そして、篤は銃を握っていた手をそっと離し、そのままその手を下へ下ろした。それでも、銃口は自分の胸に押し当てられたままだった。

 泣きながらも、震えながらも、学は銃を持つ手を下ろさなかった。逃げなかった。

 

――それでいい。

 

 学には悟られないように、少しだけ口の端を持ち上げた。恐怖はない。これでようやく解放されるのだから。

 

「ご、ごめんね……。ごめんね、ごめんね……」

 

――謝るなよ。そんなんじゃ、これから先やっていけないぞ。

 

 謝られると、何だか妙な気分だ。こちらは、恨んでも憎んでもいない。むしろ、こうされることを望んでいた。学のような人間に殺されるのなら、それも悪くないと思っていた。これは篤にとって、ある意味望んだ形の結末なのだ。けれど、それを知らない学にとっては、クラスメイトの命を奪う暴挙に他ならないのだろう。

 もしそれを知ったら、学はどう思うのだろうか。きっとそれでも、どうしてとか、なぜとか聞くのだろう。けれど、そんな疑問が出るのなら、きっと学にとって人生とはとても楽しいものなのだろう。なら、死にたくないのも分かる気がした。

 

 もしそういう人生だったなら、自分も生き残ることを望んだだろうか。帰りたいと、心から願っただろうか。

 

――ああ……でも今さらだな。だってもう、何もかもが手遅れなんだから。こいつと違って俺は、自分で何も手に入れようとはしなかったんだから。

 

 思ったよりも早く、その瞬間は訪れた。パンッというどこか聞きなれた音が鼓膜を揺さぶり、そして銃口を押し当てられたところに一瞬だけ激痛がはしった。けれど、それだけだった。痛みにもがき苦しむことも、ろくでもない一生を走馬灯のように振り返ることもなく、銃弾が心臓を突き破るのと同時に篤は息絶えていた。本人が望んだ通り苦しまず、一瞬でこの世からいなくなっていた。わずかな微笑みだけを、その顔に遺したままで。

 

「ごめん……。ごめん、ごめんね……。僕、もう……ためらったりしないから……。だから、今だけは――」

 

 微笑む遺体の傍で、泣きながら謝罪する少年の声は、しばらくの間止むことはなかった。

 

男子2番 五十嵐 篤 死亡

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