温もり

 

「ちょっと、この家に行ってみようか」

 

 橘亜美(女子12番)にそう言われ、顔を上げた東堂あかね(女子14番)の視線の先にあったのは、どこにでもありそうな民家だった。白い壁と濃い灰色の屋根が特徴的な、二階建ての普通の民家。おそらく最近建てられたであろう、比較的新しい綺麗な民家。なぜか懐かしいとさえ思ってしまう、初めて見るはずの他人の家。

 細谷理香子(女子16番)と別れたあの後、二人はすぐに移動を開始した。亜美があかねを探していた理由については、どこかで落ち着いてから話すということだったので、こちらもそれ以上は言及しなかった。ただ黙って移動を続け、気が付いたらこの民家に辿り着いていた。現在、時刻は朝の八時。理香子と対峙していた時間を考えると、約三十分ほど歩き続けていることになる。そんなに長い時間歩き続けているわけでもないのに、なぜか妙に疲労感を覚えた。

 そんなあかねの気持ちを知ってか知らずか、亜美はその民家の敷地内へと入っていく。腰の高さほどの小さな門を開け、ドアの前まで躊躇いなく進んでいった。あかねも、自然とその後を追いかける形になる。

 

「ごめんくださーい」

 

 声をかけながら、亜美はコンコンと小さく二回ドアをノックする。日常生活において、誰かの家に訪れた時みたいに。普段とまるで変わりないかのように。

 

 そんな亜美の様子を後ろから見ながら、あかねは数時間前のことを思い出していた。休息しようと入った別の民家で死んでいた、五木綾音(女子1番)の遺体のことを。眠っているのではないかと錯覚してしまうほどの、綺麗な遺体の姿を。置いて行かれた現実を突きつけられた、あの瞬間のことを。

 反射的に首を横に振ることで、涙が流れる前にその映像を頭の中から消した。それでも鉛のような重苦しさは、心のどこかに残されたまま。

 

「……物音はしないから、多分誰もいないわね。確認のために石を投げ込んでもいいけど、ガラスを割ったらこの家の人に迷惑だし……」

 

 そんなあかねの様子に気づくことなく、亜美は一人でブツブツと呟いている。そのまま亜美がドアのノブに手をかけると、ドアは何の抵抗もなくあっさりと開いていた。

 

「とりあえず、中に入ろう」

 

 亜美に続くような形で、あかねもその民家の中へと入る。家の中も外と同様に綺麗で、物も整然と片づけられていた。玄関に靴は一足もなく、数本の傘もドアの脇にある傘立てに全てきちんと入っている。いつも余計な物で溢れかえっている自分の家とは大違いだ。その玄関から入ってすぐ左側には二階へ続く階段があって、右側にはどこかの部屋へと続くドアが二つ。階段とドアの間に廊下があって、おそらくその奥にも部屋らしきものがあるのだろう。全体的に清潔感で溢れていて、つい最近まで人がいたのではないかと思わせられた。

 

「他に誰か潜んでいないか調べてくるから、東堂さんは玄関にいて。もし私に何かあったら、かまわず逃げてね」

 

 簡潔にそれだけを告げ、亜美は玄関から家の中へと入っていった。靴を脱ぎ、小さく「すいません。お邪魔しまーす」と、誰に向けるでもない言葉をかけた上で。

 その背中を見ながら、あかねは玄関でじっとしていた。亜美を一人で行かせることに躊躇いを覚えたが、かといって後を追う勇気もなかった。夜のこと、それに先ほどの佐伯希美(女子7番)のことがある。この民家にある可能性が低いと分かりつつ、これ以上誰かの遺体を見たくはなかった。万に一つ、もしあったらと思うと、とても――

 

「どうやら誰もいないみたいよ。ここでしばらく休もうか」

 

 少ししてから、亜美はこちらへ戻ってきていた。その言葉に安堵し、あかねも同じように靴を脱いでから、その家にお邪魔することにした。

 

「靴、履いたままでもいいのよ? 私は、この家の人に失礼かと思ったから脱いだだけだし」
「ううん。私もそうしたかったから。黙ってお邪魔するんだもん。せめてこれくらいは……」

 

 当然だ。そう思った。亜美がそうするまで正直失念していたことだが、そもそも勝手に民家に入ること自体犯罪行為だ。ならせめて、できるだけ家を汚さないように配慮することは、最低限の礼儀というべきだろう。本来家に入るとき靴は脱ぐのだから、それくらいはしなくてはいけないだろう。たとえ誰かに襲われたとき、そのせいで逃げにくくなったとしても。

 亜美の後に続くような形で、玄関のすぐ右手にあるドアから部屋の中に入る。その先には、リビングというべき広い空間があった。カーテンが引かれてあるせいか、部屋の中は薄暗い。それでも、今は日が昇っているおかげか、ある程度部屋の中の様子は分かる。少なくとも、家具に足の小指をぶつけることはなさそうだ。

 

「そう。まぁ、東堂さんらしいといえばらしいわね。とりあえずそこに座って。といっても、私は家主じゃないから、この言い方もちょっと違うけど」

 

 そう言って亜美が指し示したのは、リビングに鎮座されているソファだった。色は、落ち着いた感じの薄い緑。自分の家にあるものより一回り小さく感じる。二人並んで座るくらいが、丁度いいサイズだろうなと思った。

 言われるまま、そのソファに腰を下ろす。思ったよりも柔らかくて、その感触にどこか安心感を覚えた。あかねが座るのを待っていたのか、亜美からまた声をかけられる。

 

「ちょっとそこの台所で食べ物とかないか探すから、その間見張りお願いしてもいい?」
「見張り……? 窓から外を見ればいいの?」
「ううん。それは却って見つかるかもだし、どうしたって死角が存在するからね。聞き耳を立てて、誰かの足音っぽいのが聞こえたら教えてほしいの。なるべく物音立てないようにするけど、うるさかったら言って」
「う、うん……分かった」

 

 あかねがそう返事をすると、亜美は早速と言わんばかりに台所へと入っていった。リビングに面したキッチン。料理をしながらテレビを見たり、家族と会話ができる対面式キッチンというやつだろう。亜美の頭が時々出たり引っ込んだりするのを見ながら、周囲の音を聞き洩らさないように、耳に神経を集中させる。

 カチャカチャという、食器がぶつかりあうような小さな物音。時折聞こえる、チュンチュンという雀の鳴き声。それに混じってザワザワという風の音も、ほんの少しだけ耳に届く。自然の音をこんなに鮮明に聞いたのは、いつ以来だろう。見張りのために聞き耳を立てているというのに、その音にどこか懐かしさを感じていた。少しだけ、心が洗われたような気がした。

 

「お待たせ」

 

 いつの間に終わったのか、亜美がすぐ近くに立っていた。彼女の抱えられた腕の中には、いくつかのお菓子の袋があった。

 

「はい。賞味期限は大丈夫だったから」

 

 亜美はそう言って、ソファのすぐ近くにあるテーブルの上に、持っていたお菓子の袋を置いていた。チョコレート、ポテトチップス、煎餅など、いつも食べているものがそこにはあった。

 

『じゃーん! これ、この間出た新商品! みんなで食べよー!!』
『あっ、また学校に勝手にお菓子持ってきて……』
『まぁ、この際食べて証拠隠滅するしかないんじゃない?』
『じゃ、じゃあいただきます……。ありがとう……』
『しょうがないから、証拠隠滅に協力してあげるわ。おっ、結構美味しい』
『んっ、これおいしー! ありがとねー!! 今度は私が持ってくるからね!!』

 

――そういえば、たまに誰かがお菓子持ってきて、こっそりみんなで分け合って食べたっけ……。

 

 そんな他愛ないことを思い出し、ほんの少しだけ涙がこみ上げてくる。ついこの間まで、そんな光景のある日常にいたはずなのに、どうして遠い過去の出来事のように思えてしまうのだろう。

 そもそも、どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして、みんないなくなってしまうのだろう。何度考えても、答えなど出るわけがない。それでも――

 

「今からお湯沸かすから、その間これでも食べてて」

 

 そんなあかねの思考を遮るかのようなタイミングで、亜美が話しかけてくれていた。そのおかげで、涙を流れる寸前で止めることができた。

 

「えっ……? コンロとか使えるの?」
「コンロはコンロでも、カセットコンロがあったから」

 

 亜美に隠れて目に溜まった涙を拭きながら、そう聞いた。彼女はさらっとそう答えてくれたが、あかねにはその意味が理解できなかった。そもそもカセットコンロというものが、どんなものか分からない。そんな心の中を読み取ったかのように、亜美は加えてこう答えてくれた。

 

「ガスボンベをセットして使うコンロのことよ。ボンベさえあれば、ガスを止められても使えるの」

 

 百聞は一見に如かずと思ったのか、亜美は少し離れたダイニングテーブルに何か四角いものを置いていた。確かにそれは、コンロ一口分が持ち運べるようにしたかのような形をしている。次に亜美はそのコンロの丸く膨らんだところの蓋を開けて、何か殺虫剤のような缶をセットしていた。そしてその蓋を閉じ、つまみのようなものを右に回すと――ボッという控えめな音と共に、小さな青い火が灯されていた。

 

「す、すごい……」
「これくらい普通よ。でも良かった。問題なく使えそうね」

 

 そう言いながら、亜美はつまみを左に回して火を止める。そして今度はペットボトルを持って台所へと行き、少しの間何か作業をしてから、こちらに戻ってきていた。左手には水が半分ほどにまで減ったペットボトル、右手には銀色のやかんを持って。

 

「一度軽く洗ったから、衛生的には多分大丈夫よ。まぁ、本当は洗剤使いたいところだけど、さすがにそこまで水持ってないから」

 

 彼女はそう言ってコンロの上にやかんを置き、支給されたデイバックから新たなペットボトルを取り出していた。封を切り、蓋を開けたやかんの中へと注いでいく。蓋を閉めてから、もう一度コンロのつまみを回して火をつけていた。

 

「沸騰させちゃうと音がするから、まぁ飲める程度まで温めたら火を止めましょう」

 

 それだけを告げると、亜美は再び台所へと入り、両手にカップを持ってきていた。灰色の寸胴型のマグカップを二つ。自分達の世代が使うような可愛らしいものではなくて、どちらかというと親世代や、あるいは祖父祖母が使いそうなものだと思った。

 

「ここの家の人。多分、かなり高齢じゃないかしらね」
「えっ? なんで、そんなことが分かるの?」
「台所にある食器がかなり渋いものばかりだったし、子供が使いそうなキャラクター物の食器が一個もなかったもの。シンクやガスコンロの高さも私の家よりかなり低いし、家具やカーペットもシンプルでどこか渋い感じがする。階段や廊下に手すりもあったしね。老後の暮らしのために購入したという感じかな」

 

 老後の暮らしのため――。もし亜美の言っていることが正しいのならば、おそらくこの家の住人は、老後の人生をせわしない都会ではなく、落ち着いた離島で過ごそうとここへやってきたのだろう。家を買うには、かなりのお金が必要だと聞く。もしかしたら、ずっと前からこの島に住もうと決めていて、家の購入のために長い時間をかけてお金を貯めてきたのかもしれない。

 そう思うと、途端に申し訳なくなってきた。その人達の家に、勝手にあがっている自分。そこにある食器を、黙って使っている自分。置いてある食糧を、許可なく食べている自分。本来なら、そんな権利も資格もないはずなのに。

 

「でも、私たちのために、これ全部用意してくれたのかもね」
「ど、どうしてそう思うの?」
「だって、ドアに鍵がかかっていなかったし、食べ物も分かりやすいところに置かれていたもの。置いてあったものも、高齢の方が食べるようなものではなくて、どちらかというと私たちの世代が好みそうなものばかりだったし。もしかしたら、私たちに多少は同情してくれたんじゃないのかなぁ……って。まぁ、本当はどうだか知らないけど。急いで出て行ってもらったとも言ってたし、たまたまかもね」

 

 亜美に言われてハッとした。思えば、確かにここに入るのに何の労力を要していない。ドアから普通に、何の障害もなく入ることができた。それに、どこか招き入れられているような気もする。まるで、“大変でしょう。せめてここでは休んでいきなさい”と言われているような――そんな錯覚すら抱いてしまうほどに。

 それは、単なる想像にすぎないのかもしれない。けれど、今はそう思うことにした。真実は確かめようがないのだから、自分の都合のいいように解釈してもバチは当たらないだろう。

 

「そろそろかな」

 

 いつのまに温まっていたのか、やかんから少しだけ湯気が立ち上っている。音が鳴るか鳴らないかのところで、亜美はつまみを回して火を止めていた。そしてやかんの蓋を押さえながら、カップにトクトクとお湯を注ぐ。二つとも注ぎ終えると、一つをあかねのところへ持ってきてくれた。

 

「はい、熱いから気をつけてね」

 

 そう言ってテーブルに置かれたのは、何の変哲もない透明な液体。何も混ぜられていない、ただのお湯。そこから少しだけ立ちのぼる湯気が、少しだけ肌を温めてくれる。

 

「お湯のことは、別名白湯というのよ。変にコーヒーとか飲むより、こっちの方が身体にいいから」

 

 飲むのを躊躇っていると思ったのか、亜美はコンロのあるテーブルで白湯を飲みながら、そう一言付け足していた。確かに、いつもはお茶やジュースを好んで飲むので、何も入っていないまっさらなお湯は飲んだことがなかった。水を温めただけの飲み物。一体どんな味がするのだろうか。

 カップを両手に抱え、フーッフーッと息を吹きかける。ある程度冷めたかなと思ったところで、カップを傾けて一口だけ口に含み、それからコクリと飲みこんだ。

 

――温かい……。

 

 何も入っていないはずなのに、少しだけ甘いような気がする。次に喉を通り抜けたお湯――白湯が、胃に到達するのを感じる。同時に身体の中心から、じんわりと温かくなるような気がした。両手に持ったカップと、飲んだ白湯が、同時に身体を温めてくれている。その温もりがとても優しくて、思わず涙が零れていた。

 

――温かい……。お湯って、こんなに美味しいんだ……。

 

 一度流した涙は止まらず、そのままポロポロと流し続けていた。思えばプログラムが始まってから、一体どれだけ涙を流しただろう。けれどこの涙は、これまで幾度となく流したものとはまったく異なっていた。

 誰かに温もりに触れたとき、誰かの優しさに触れたとき。そんなときに流れる涙。あのときと、同じような涙――

 

「口にあったようで良かったわ。ただのお湯も、悪くないでしょ?」

 

 一瞬何かを思い出しそうになったが、亜美の言葉でその思考も中断される。何だろう。とても大切なことだったような気がする。決して、忘れてはならないことだったような――

 少しだけ思い出そうと試みたが、まるでもやがかかったように、どんなものかすらはっきりしない。考えても思い出せそうになかったので、その思考を中断することにした。本当に大切なことなら、きっとそのうち思い出すだろう。

 

「う、うん。ありがとう……。すごく美味しいよ……」
「まぁ、ただお湯を沸かしただけなんだけどね」

 

 あかねの言葉に、亜美の表情が少しだけ柔らかくなる。きっと、あかねが少しでも元気になったことで、彼女もホッとしてくれているのだろう。そんな彼女の優しさが、とても嬉しい。

 思えば、三年になって初めて同じクラスになって、しかもこれまでほとんど関わったことがなかったので、亜美のことはあまり知らない。名前で呼べなくて、いつも名字で呼んでしまうくらいの距離感。普段からもっと彼女と接していればよかったな、と心の片隅で思った。

 

「飲みながらでいいから、聞いてほしいことがあるの」

 

 しばしの沈黙の後、亜美はコンロが置かれているテーブルから離れつつそう言った。そして、ソファに座っているあかねの横に腰かける。その表情は、先ほどより少しだけ固くなっている。これからする話が穏やかなものではないと、その表情からは読み取れた。

 

「さっき、東堂さんのこと探していたって言ったでしょ?」
「うん。どうして……私のことを……?」
「正確には、別に探している人がいるの。その人に大事なことを伝えるために、東堂さんに協力してほしい。だから、今から話すこと。信じられないかもしれないけど、最後まで聞いてね」

 

 その重い口調に、反射的に唾を飲みこむ。そのままあかねがコクリと頷くと、亜美がそっと口を開いた。

 同時に――何だかとても嫌な予感がしていた。 

 

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