私はあなたを信じている

 

「須田くんだ……! あれ、絶対そうだよ!」

 

 確信を持ったかのような口調で、東堂あかね(女子14番)はそう口にする。そんなあかねを横目に、橘亜美(女子12番)は必死で目をこらしていた。何せ、彼女はそう言っているものの、亜美には制服を着た男子が歩いていることしか分からないからだ。

 

「……えっと……。私には、制服を来た男子が歩いていることしか分からない……」
「えっ……? でも、あれは須田くんだって! 背だってあのくらいだし、髪とか見ても、絶対間違いないって!」

 

 亜美の質問に、あかねは先ほどよりも強い口調でそう断言する。そう言われても、亜美には、まだその人物が須田雅人(男子9番)だという確信が持てなかった。けれど、あかねが言うのだから、おそらく間違いではないだろう。三年間同じクラスであった亜美の方が、知り合ってからの期間は長いが、一年間クラス委員として一緒に仕事をしてきたあかねの方が、より深く関わっている。亜美には分からなくても、あかねには雅人だと確信できる何かがあるのだろう。

 そんな二人のやり取りを知る由もないその人物は、どこかに向かってゆっくりと歩いている。亜美たちから見て右手の方。けれど、ややこちらに近づくような形で。

 

「ほら、もう少しこっちに来たから、橘さんにも見えるんじゃないかな?」
「えーっと……。ちょっと待って……」

 

 目を凝らして見ると、その人物は確かに須田雅人のようだった。亜美たちとほぼ同じ背丈。眉の高さまでの前髪。襟足が短めの短髪。今生きている男子の中で、あの容姿に当てはまる人物は他にいない。あかねの言う通り、少し先にいるあの人物は、雅人と見て間違いないだろう。

 あかねの話では、雅人はプログラムには乗っていないはず。なら、事情を話して仲間に引き入れることができる。信頼できる仲間が増えることは、決して悪いことではないし、今後のことを考えれば、彼が味方でいてくれるのは心強い。クラス委員の二人がいれば、仮に加藤龍一郎(男子4番)と合流できないまま、辻結香(女子13番)に会ったとしても、説得は十分可能だろう。

 あかねにもそう告げて、すぐにでも声をかけよう――そう思ったのと同時に、違和感を感じた。

 

「待って……!」

 

 雅人の元へ駆け寄ろうとしたあかねの腕を、反射的に左手で掴む。咄嗟の行動だったせいか加減ができず、あかねが痛みで少しだけ顔を歪めるのが分かった。そんな彼女を気にする余裕はなく、そのまま近くの茂みに身を潜める。何が起こっているのか理解できないせいか、あかねは成すがままにそれに従っていた。

 

「えっ……橘さん? 一体どうしたの?」
「須田くんの様子が……おかしい」

 

 腕を掴んだまま、強い口調で制止の言葉をかける。あかねは訳が分からないといった感じで目を丸くしていたが、再度雅人の方に視線を向けた時、その意味が分かったのか反論はしてこなかった。生唾を呑み込む音が聞こえるところから、あかねも同じような感想を抱いているのだろう。

 

 そう、姿形はまぎれもなく須田雅人だ。いくらか近づいたおかげか、その正体に関してはもはや疑いようがない。

 問題は、その彼がまとう異様な空気だ。

 

 須田雅人という人は、亜美の知る限り、争い事とは程遠い、とても友好的で穏やかな人物だ。頼りないところはあるものの、彼が誠実な人間であることは誰もが認めている。仮に悪く言う者がいたとしても、そのときに少し悲しそうな表情を浮かべるだけ。決して、怒りや嫌悪感をむき出しにしたりしない。

 けれど、今の彼をまとう空気は、どこか狂気をはらんでいる。遠目で見ただけでも、背筋が凍りつきそうなほど冷たい。怖い。逃げたい。身体が、勝手に冷や汗を流す。まぎれもなく、彼に対して畏怖の感情を抱いている。もちろんこれまで雅人に対してそんな感情、抱いたことはない。

 表情にしても、完全なる無表情だ。何の感情もない。あかねが抱いたであろう恐怖や悲しみ、細谷理香子(女子16番)から向けられた殺意や迷い、曽根みなみ(女子10番)からぶつけられた敵意と嫌悪感、八木秀哉(男子16番)が見せた混乱、冨澤学(男子12番)が吐露した生への執着。あるいは、弓塚太一(男子17番)が死ぬまで失わなかった優しさや慈愛、古賀雅史(男子5番)がまとっていた一種の覚悟も、何も見えない。

 そう、何も見えない。だから、彼が今何を考えているのか分からない。あかねの聞いた通り、今でもプログラムを拒絶しているのか。それとも――

 

「……橘……さん?」

 

 亜美が黙ってしまったせいなのか、あかねが不安そうに声をかけてくる。彼女の腕を掴むこの手は、少しだけ力が緩んでいる。けれど、離そうという気は起こらなかった。

 

「ねぇ、この手……離してくれないかな……? 私、須田くんのところに……」

 

 離してはいけない。行かせてはいけない。そう、思ったから。

 

「……このまま、やり過ごしましょう」

 

 亜美の言葉に驚いたのか、あかねは目を大きく見開いていた。けれど、さすがに簡単には納得できなかったようで、すぐに反論していた。

 

「なんで……? 大丈夫だよ? ちょっといつもと違うかもしれないけど、須田くんは絶対プログラムに乗っていないから……。小山内さんからも、そう聞いたし……」
「普段の彼なら、私もそう思うわ。けれど、今の須田くんは、明らかに様子がおかしい」

 

 まとっている異様な空気。感情の読みとれない表情。この二つだけでも、雅人は明らかにいつもと様子が違う。あかねもそれは分かっていたのか、否定はしてこなかった。

 

「きっと……私や橘さんみたいに色々あったんだよ……。でも、大丈夫だって……。須田くんは誰かを殺すような人じゃないから……絶対……」
「私だって……そう信じたいわ。けれど、私やあなたのようなことがあったとして、もしそれが……彼自身を変えてしまうほどのものだったとしたら……?」

 

 亜美の言葉に、あかねは息を呑む。こちらの言わんとすることが、何となく伝わったせいなのだろうか。

 

「須田くんが小山内さんに会ったのは、一体いつ? 少なくとも、あなたが会う前よね? 時間的にいえば、丸一日以上経っている。その間に、私たちの知らないようなことが起こったのかもしれない。誰かに殺されそうになったとか、誰かに裏切られたとか……」

 

 “裏切られた”という言葉を口にしたとき、すぐに孝太郎の顔が浮かんだ。もし雅人が、孝太郎の本性を知ってしまったとしたら? 信頼している友人が、自分をよく見せるために、ただ利用していただけだと知ってしまったら? 彼は、どう思うのだろう。一体――どうなってしまうのだろう。

 そんなの、想像できない。できないほど――絶望的だ。

 

「それで……もう自暴自棄になってしまったとしたら……。いいえ、それだけでなく、もう無差別に殺すことを考えていたとしたら……。だって彼は――」

 

『どうしても……参加しないとダメですか?』

 

 死にたくないはずだ。教室でのあの言動は、殺し合いに参加することの拒絶であり、彼が誰よりも死の恐怖を抱いていることを、示唆しているものでもあったから。

 

「だから……私は正直怖い。ここで下手に彼に近づいて、いきなり襲われたりでもしたら――」

 

 おそらく無事では済まないだろう。なぜなら亜美は、決して運動神経がいいわけではない。銃だって、まだ一度しか撃ったことがない。しかも、誰かに向けて撃ったわけではない。あかねは、運動神経はいい。けれど、武器は一つも持っていない。

 そして、二人に殺意はない。もし雅人に殺意があったとしたら、痛手を負うのは間違いなく自分たちだ。殺す覚悟のあるものに、殺意のないものは必然的に負ける。躊躇いが生じるからだ。

 

「それに……私たちの目的は、辻さんと加藤くんを探すこと。冷たいことを言うようだけど、須田くんは最優先するべき人じゃない。幸い、彼はまだ私たちには気づいていない。このままじっとしていれば、何事もなく別れることができる」

 

 注意力が散漫なせいなのか、雅人はこちらにはまったく気づいていない。声をかけたり物音を立てたりしない限り、おそらく気づかれることも、攻撃されることもない。

 

「ここで何かあったら、これまでが全部無駄になる。私は、無駄にはしたくない。だから、ここは私の言うことを聞いて」

 

 あかねに対する後ろめたさからか、言いながら視線を下へと逸らす。ひどいことを言っているなと、我ながら思う。あかねにとって、雅人は信頼に足る人物。そして、会って一緒にいたい人物。それを、ただ様子が変だという理由で見捨てる。それは、おそらく彼女にとって一番望まない選択。分かっていながら、そうさせようとしている。

 けれど、これはプログラムにおいて間違った選択ではない。死にたくないのなら、不確実な方法は取らないに越したことはない。生きなくてはいけない理由があるのだから、尚更行動には慎重にならなくてはいけない。

 

――ごめんなさい……須田くん。けれど、私はまだ死ねないし、東堂さんにも死んでほしくないの……。もしかしたらあなたは、今まさに誰かの救いを求めているかもしれないのに……

 

 おそらく、あかねは納得しないだろう。もしかしたら、そうさせた亜美を恨むかもしれない。けれど、まだ何も目的を果たせていないのだ。全て亜美のせいだと責められることで、彼女を死なせずに済むなら、その選択を取る。

 疎まれることには、慣れている。恨まれるのも、この状況なら仕方ない。あかねにどう思われようと、ここで彼女を死なせるわけにはいかない。けれど、須田くん。本当に――

 

「……ごめんなさい」

 

 耳に、どこか聞き慣れた声が届く。一瞬、心の声を口にしてしまったのかと焦ったが、それは違うとすぐに分かった。

 

「それは……無理」

 

 掴んだまま離せなかった左手。その左手首に、そっと誰かの手が添えられる。その手に、振り払うための力は込められていない。そこには、優しさと意志の強さだけが存在していた。

 その手を追う形で、視線を上げる。その先にあったのは、寂しそうな、申し訳なさそうな、けれどどこか強い瞳だった。

 

「橘さんの言っていること……分かっている。私のためだっていうことも、結香や加藤くんのためだってことも、弓塚くんのためだってことも、全部全部分かってる。でも、それでも、私はここで須田くんを見捨てることはできない」

 

 揺らがない瞳は、出会ってから見たどの瞬間よりも強い。その瞳に吸い込まれているせいか、何も言うことができない。

 

「私ね、今まで誰も助けられなかった。日向のことも、香奈子や綾音、希美やひかりのことも。結香や理香子にも何もできなかったし、加藤くんには本当に申し訳ないことをしたって思ってる。だから、ここで須田くんまで助けられなかったら、きっと私が私じゃなくなる気がする」

 

 そう言って伏せた瞳に、影がゆらめく。それでも、意志の固さを示すかのような強さは消えない。

 

「一人は嫌だ。一人は怖い。私も、ずっと一人だったから分かる。あのとき橘さんに助けてもらわなかったら、理香子に殺されていた。ううん。死ななくても、きっとどうにかなってた。今の須田くんは、多分……あのときの私と同じなんだよ」

 

 無意識に力が入っているからだろうか。少しだけ、左手首に痛みがはしる。けれど、それを苦痛とは思わなかった。

 

「それに、私がいなくても、橘さんさえいれば、結香のことは大丈夫。加藤くんと合流して、弓塚くんの遺言をちゃんと伝えれば、結香はきっと分かってくれるはず。私にしかできないことは、きっと今だと思うんだ。だからお願い……行かせてほしい……」

 

 また、手首が痛む。同時に、胸も痛む。あかねは、おそらく全部分かっている。本当はこのままやり過ごすほうが安全だということも。亜美の言葉は、あかねや結香たちのためだということも。恨まれる覚悟で提案していることも。何もかも分かっていて、それでも彼女は、雅人のところへ行こうとしているのだ。殺されるかもしれないことも、承知の上で。

 亜美の手を振り払って、勝手にそうすることもできるのに、決してそんな素振りは見せない。それはきっと、亜美の気持ちもわかっているから。だからこそ、きちんと説得しないといけないと考えているのだろう。

 

「……殺されるかもしれないのよ?」
「分かってる」
「私たちには……やらなきゃいけないことがあるのよ」
「うん、だから絶対に戻ってくる。約束する」

 

 そう言いながら、あかねはそっと掴んでいた手を離してくれた。手首にかかる小さな圧が、静かに引いていく。

 

「須田くんは、私の相棒だから。絶対大丈夫」

 

 少し離れたところにいる雅人を見ながら、あかねはそう断言する。虚勢ではない。純粋に、心からそう信じているのだろう。あかねの瞳は、先ほどよりもずっと強く、どこか輝いているようにも見える。太陽のように眩しいものではなく、月のように静かでひっそりとした輝きを。

 そんな風にはっきりと言われ、そんな瞳で訴えられれば、もう止めることなどできない。亜美の言っていることも、あかねの言っていることも、確実な正解かどうか分からない。分からないからこそ、意志の強い彼女の言葉に、反論することができない。

 

「……分かった」
「ありがとう……」

 

 心のどこかで不安を覚えながら、そっと左手をあかねの腕から離す。確かに彼女の言う通り、雅人が積極的に人を殺す可能性は極めて低い。けれど、ゼロというわけではない。そして今は、どちらにも転ぶ可能性がある。いや、今の彼の雰囲気だと、人を殺す可能性の方が高いのかもしれない。だから怖い。だから、どうかうまくいきますよう。私には、そう願うことしかできない。

 もし、ここにいるのが亜美ではなく、友人や幼馴染だったなら、一体どんな返答をするのだろう。彼女の意志を尊重するのだろうか。それとも、それすら分かった上で反論するのだろうか。

 ただ、誰が相手であっても、おそらく彼女は折れないだろう。そう思わせるほどに、その言葉はとても強かった。言葉そのものは根拠のない感情論で、言ってみればただの綺麗事。けれどそれは、きっとここでは必要な理想論。

 

「なら、せめてこれを持って行って……」

 

 雅人のところへ行こうとするあかねに、持っていたジェリコを差し出す。使い方等については、万が一に備えて一応教えてあった。

 

「須田くんは、銃を持っている。なら、こちらが持っていても、何もおかしくはないでしょう?」

 

 あかねがこういう武器を持ちたがらないことは、何となくわかる。そんなのはいらないと言うだろう。それも分かった上で、こんな提案をしている。彼女のためではなく、亜美自身のために。

 丸腰で銃を持った人間の前に立つことなど、見ている方も怖い。だから、これはせめてもの保険。もし雅人が攻撃してきたとしても、これで少しは対抗できる。そう思えることで、亜美自身もいくらか安堵できる。それに、持っているだけで、あかねも少しは心強いだろう。当の本人に、それを使う気がまったくなかったとしても。

 

 けれど、あかねはその銃を受け取らなかった。小さく首を振って、そっと亜美の方へと押し返す。

 

「気持ちは嬉しいけど……いいよ。それは、橘さんの武器だもん。橘さんが持っていてよ」
「でも……」
「それに、銃を持っていたら、須田くんが却ってビックリするかもしれない。私は、須田くんと話をしに行くだけだもん。だから、武器も何もいらないよ」

 

 そう言って、あかねはからっていたデイバックを下ろす。入っていた栄養ドリンクが中でぶつかったのだろうか。小さくカチンという音が聞こえた。バックを下ろしたことで、あかねは完全なる丸腰になってしまった。武器どころか、身を守るものも何もない。

 

「我が儘ついでに、一つだけ約束してほしいの」

 

 立ち上がる前、あかねはふと思い出したかのように、小さくこう告げた。

 

「私に何があっても、絶対に須田くんのことは撃たないで。須田くんは、進んで人を殺しているわけじゃない。私にそうしたとしたら、きっと混乱しているだけだから。それで死んでも、私は、須田くんに死んでほしいなんて絶対思わないから。だからそのときは、私に構わずに逃げて。そして、加藤くんを探して、結香に弓塚くんの言葉、絶対伝えてね」

 

 はっきりとそう告げた後、確認するかのように、あかねはこちらの目を見る。返事など聞かずに、そのまま行ってしまってもいいはずなのに、ちゃんと亜美の答えを聞こうとしているのだ。それは少しズルいようであり、誠実でもある。約束しても、こちらが守る保証はどこにもないのに。

 改めて思う。あかねは真っすぐで、とても純粋な人なのだと。それ故に、この状況で誰よりも傷ついている。けれど、そんな彼女だからこそ、こんな選択ができるのだろう。

 

「……分かった」
「ありがとう」
「けれど……」

 

 そのまま立ち上がろうとするあかねを引き止めるかのように、亜美は口を開いた。

 

「私にとって、あなたはもうただのクラスメイトじゃない。だからこそ、黙って逃げることはできない。あなたが須田くんを説得している間、私は手を出さないと約束する。けれど、何かあったら……もしあなたが殺されてしまったら、私は須田くんをどうするか分からない」

 

 何を言っているのだろうと、心の中で自嘲する。こんなこと、本当は言う必要ない。こんな後ろ向きで、ドロドロしていて、相手を不安にさせるようなことなど。けれど、あかねは包み隠さず本音を話して、雅人を説得すると決めた。だから、こちらの気持ちを隠すのは、却って誠実ではないと思った。最悪の展開になってしまった時、どうなるか分からない自分自身についても。

 でも――きっとあかねは分かってくれている。これは、脅迫のために口にしているのではない。怖いからでもない。保険をかけているわけでもない。むしろ逆だ。

 

「だから、必ず戻ってきて。須田くんと一緒に」

 

 信じているから。これが、最良の選択であったと思わせてくれることを。

 

「……分かった。約束する」

 

 それだけを告げて、あかねは少しだけ小走りで駆けていった。今だこちらに気づかない、雅人の元へと。

 

 ギュッと拳を握りしめる。ああ、本当に怖い。どうにかしてあげたい。けれど、私には見守ることしかできない。天に祈ることしかできない。

 それが、私のすべきこと。信じて、待つこと。

 

「久しぶりだね、須田くん」

 

 だから、私はここで帰りを待つ。いつものように声をかける、あかねの姿を目に焼き付けながら。

 

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