懐かしい記憶

 

 あれは、半袖で過ごしてもじんわり汗をかく暑い日のこと。確か、夏休みに入る少し前。帰りのホームルームも終わって、細谷理香子(女子16番)が一人で教室に残っていたときのことだ。

 

『あれ? 細谷、一人なのか?』

 

 忘れ物でも取りにきたのだろうか。部活に行っていたはずの彼が、一人でふらっと戻ってきていた。誰もいないはずの教室に人がいることに、疑問を覚えたのだろう。彼は、端的にそう声をかけてきた。

 

『……まあね』

 

 相手からの質問に、ややぶっきらぼうな形で答えてしまう。それも無理のないことで、この日理香子は日直だった。本来日直は、同じ出席番号の男女がその日一日の雑務をこなすことになっている。しかし、生憎理香子のパートナーは、あの八木秀哉(男子16番)だ。人に責任転嫁をし、嫌なことから逃げる癖のある、嫌いな部類に入る男。仕事をすっぽかして帰ってしまうことも多く、この日も二人分の仕事を一人で片づけていたところだった。つまるところ、不機嫌だったのである。

 

『ああ。今日は、細谷さんと八木が日直だったのか』

 

 黒板に名前があることで日直であることを理解し、同時に理香子が一人で残っている理由を察したのだろう。腑に落ちたといった表情で、彼は静かにそう呟いていた。

 そんな彼の言葉に、また「まあね」とぶっきらぼうに答える。そんな理香子の態度にムッとすることもなく、彼はそのまま自分の席へ向かっていく。そんな彼の行動を横目で見ながら、理香子は静かに日誌を書き続けていた。

 教室に戻ってきたのは、おそらく忘れ物か何かを取りにきただけ。だから、その目的さえ果たせば、そのまま教室から出ていくだろう。部活もあることだし。そう、理香子は思っていた。だから、彼の存在を大して気にしてはいなかった。

 しかし、理香子の予想に反して、彼はゆっくりとこちらに近づいていた。そして、理香子の目の前に立って、はっきりとこう言ったのだ。

 

『何か……手伝おうか?』

 

 その彼の言葉があまりにも意外で、一瞬キョトンとしてしまう。これがクラス委員の須田雅人(男子9番)や、彼の友人である有馬孝太郎(男子1番)だったなら、ここまで驚くこともなかったかもしれない。けれど、今しがたそう提案した彼は、間違いなくそんなタイプの人間ではなかったから。

 口数も少なく、限られた人間としか会話をしない。好青年にはほど遠く、歯に衣着せぬ言い方をすることも多い。彼がにこやかに会話をする人物を、理香子はこのクラスでたった一人しか知らない。だから、ごく親しい友人としか交流を持たず、浅い付き合いは一切しないタイプなのだろうと思っていた。実際、理香子もそういうタイプだから。

 そう認識していた彼からの、思わぬ申し出。親切心からなのだろう、とは思う。ただ、三年になって初めて同じクラスになった程度の関係で、そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。誰彼かまわず手を差し伸べるような、そんな人ではないと思っていたから。

 

『でも……部活は?』
『いいよ。少しくらい抜けても』

 

 戸惑いながらも咄嗟に遠慮する理香子の言葉に、彼はさらりとそう返答する。その言葉に少しひっかかりを覚えたのだけど、それよりも彼がここまでしてくれることに、単純に疑問と驚きを隠せなかった。

 彼は、ただ忘れ物か何かを取りにきただけ。だから、おそらく部活の仲間には「すぐに戻る」と言っているはず。何も言わずに遅れるなんて、後々面倒なことになるかもしれない。なのに、わざわざ手伝ってくれるなんて、一体どういう風の吹き回しだろう。

 

『……俺もさ、相手が北村だから、こういうのよくあるんだよ』

 

 理香子が返答できずにいると、その心中を察したのか彼がこう口にしていた。ああ、確かに。あのお嬢様気質の北村梨花(女子5番)が、素直に日直の仕事をするとは思えない。理香子同様、彼もこうして一人で日直をしていたりするのだろう。

 

『そっちも……大変ね』
『まぁ、大抵は学が手伝ってくれるんだけどさ。それでも、いつもってわけにはいかないから、たまに一人でやったりしてる』

 

 他愛のない会話。そういえば、こうして二人きりで話すのは初めてか。そんなことを思いながら、理香子は少しだけ考えていた。ただのクラスメイトで、そして少しだけ会話をする、目の前の彼のことを。

 彼とこうして話すこと自体は、別に初めてではない。同じクラスなのだから、要件があればそれなりに会話はする。それに、皆が彼のことを避けたり怖がったりするので、そういう時は理香子が代わりに言伝をしたこともある。別に彼のことを怖いとは思わなかったし、そもそも見た目で人を判断すること自体失礼だ。話をきちんと聞いてくれるし、何か頼まれごとを伝えても嫌な顔一つしない。キツイことを言ったりもするが、間違ったことを言っているわけではない。あの八木秀哉と比べれば、随分マシだ。比較するのも、失礼な話ではあるが。

 

『私も、いつもはあかねとか、部活に入ってない希美とかが手伝ってくれるんだけど……。今日はみんな忙しくて……』
『そうか。まぁ、いつもいつも手伝ってもらうのも、申し訳ないもんな』

 

 会話を続けながらも、彼は静かに移動し、チョークの跡が目立つ黒板を綺麗にし始めている。雑な消し方で白い筋が目立っていた黒板は、あっという間に元の緑一色に戻っていた。黒板を綺麗にした後、彼は右端に書かれていた理香子らの名前を消して、明日の日直の名前を書く。その字はとても達筆で、一瞬見とれてしまうほど美しかった。

 そんな理香子の心中など知る由もない彼は、そのまま近くにある黒板消しクリーナーのスイッチを入れ、今しがた使った黒板消しを綺麗にし始めていた。ブーンッブーンッという音が、教室に響きわたっている。何とも無駄のない動きだった。

 五、六回前後に動かした後、彼はスイッチを切っていた。教室中に響き渡っていた音は段々小さくなり、ほどなくして消える。そして、元の静かな空間に戻っていた。

 

『他に、何かやることは?』
『えっ……? あ、ううん。後は日誌だけだから、大丈夫』

 

 無意識のうちに、彼の手際の良さに見とれてしまったらしい。声をかけられるまで、少しだけボーッとしてしまっていた。

 

『……花瓶の水、変えておくよ』

 

 終わったなら、すぐに部活に行ってもいいはずなのに、彼は自分から花瓶を持つ。その花瓶の花は、担任がいつも絶やさず持ってきてくれるもので、今はひまわりが綺麗に咲いていた。

 理香子が断る間もなく、彼は花瓶を持ったまま廊下へ出る。ほどなくして、ジャーっという水を流す音が聞こえる。理香子の視界には、廊下側の窓越しに、彼の後ろ姿だけが映っていた。

 

――けっこう……優しいところあるんだ……

 

 冷たい人だと思っていたわけではないが、単なるクラスメイトにここまで親切にしてくれる人だとも思っていなかった。彼がそういう親切心を向けるのは、ごく限られた人であると思っていたから。これが雅人や孝太郎だったなら、ここまで感心することもなかっただろうに。

 これは、あれか。不良が道端で鳴いている子猫を優しく撫でているのを見たときに抱く、ギャップというやつなのだろうか。不良と同列にすること自体、失礼だとは思うが。

 

『……あ、ありがとう』
『いいよ、これくらい。別に大したことしてないし』

 

 教室に戻ってきた彼を見て、理香子は慌ててお礼を言っていた。同時に、書きかけの日誌を仕上げるべく、急いでペンをはしらせていた。

 さすがに、これ以上やることはないと判断したのだろう。彼は、自分の机の引き出しから教科書を取り出し、通学用の鞄にしまっていた。

 

『もしさ……また一人で日直するようなことがあったら、俺手伝ったりするから』
『えっ……?』
『……その代わりといってはなんだけど、俺の時も手伝ってくれると……助かる』

 

 いつもの歯に衣着せぬ言い方をする彼には珍しい、どこかはっきりしない言葉。その意味を深くは考えず、理香子は『別に……私でよければ……』と返答していた。

 この返答に、彼はなぜかホッとしたような表情を見せていた。なぜだろう。別に、大したことを言ったわけではないのに。

 

『じゃあ……また明日』

 

 少し頭の中で考え事をしていた理香子を後目に、彼は教室を出て行った。出ていくとき、どこか顔が赤かったのはなぜだろう。その答えは、今でもよく分からない。

 何気ない日常の、何気ない出来事。それが、鮮やかな記憶として忘れられない意味を知るのは、そう遠くない先の話。

 

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 彼のことを気になり出したのは、間違いなくあのときから。手伝ってもらった数日後、恩を返す形で日直の仕事を少しだけ請け負った。そのときから感じていた、ほんのり疼くこの気持ち。それが何か、そのときにはまだ分かっていなかった。

 それから日直の仕事を手伝ったり、手伝ってもらったりしていく中で、会話をする機会が増えていって。そのうち用事がなくても、言伝でなくても、機会があれば言葉を交わすようになっていった。他愛のない中身のない話でも、彼とそうして会話をするのは楽しかった。気づけば、一緒に日直の仕事ができる日を、待ち遠しく思っている自分がいた。

 その理由に気づくのに、そう時間はかからなかった。ただ、理由は分かっても、意味は分かっていなかった。だから、東堂あかね(女子14番)らに相談した。もやもやしていて気持ち悪かったし、うまく言葉にできなかったからだ。

 

『それはですね、理香子さん。恋ですよー! 恋ッ!!』

 

 友人らに相談して、自分の気持ちが何なのか、少しだけ理解して。理解したら、どんどん気持ちは大きくなって。気づけば、あの人のことを考える時間が増えていた。勉強をしていても、一人で歩いていても、時にはテニスの練習中でさえも、彼のことを思い出す機会が増えていた。その時、ようやく確信したのだ。私は、あの人のことが好きなのだと。

 ああ、これが恋なのか。幾人もいる異性の中で、たった一人にだけ向ける特別な想い。理論的に説明できるものではなくて、代わりなど絶対に存在しなくて。一番近くにいてほしくて、けれどどこか遠い存在で。もっと近づきたいけど、近づいて壊れるのが怖くて。そんな気持ちを、自分が抱くことになるなんて思ってもいなかった。自分がする恋は、もっと静かで、理由のつく、理性的なものだと思っていた。

 それでも、どこか嬉しく思うのは、きっと純粋に好きだからなのだろう。説明できなくてもいい。理解されなくてもいい。想いが通じ合えば一番いいけど、それを一番には望まない。今はただ、ひたむきにあの人を想っていたい。そう、いつも全力で恋人を愛していた――あの子のように。

 願っていたのは、それだけ。それだけだったのに――

 

――なのに……こんなことになるなんて……

 

 仰向けに倒れたままどんよりとした空を見て、思った。もし、プログラムに選ばれることをあらかじめ知っていたら、私は一体どうしていただろう。好きな人がいても、友人らに告げなかっただろうか。いや、そもそも誰かを好きになることを、自制しようとしただろうか。

 自制できていたら、こんな結末にはならなかったのだろうか。友人を含めた三人ものクラスメイトをこの手で殺し、多くの人を傷つけ、それでも目的の一つも果たせないまま死んでいくような――孤独な結末には。

 

――私はただ、普通の生活がしたかっただけ……。あの楽しい空間に、ずっといたかっただけ……。想いが成就しなくても、ただあの人との、一時の会話を噛みしめたかっただけ……

 

 彼を優勝させようという願いは、確かに傲慢なものだったかもしれない。そのために三人ものクラスメイトを殺したことは、確かに大罪に値するだろう。その結果、一番殺すことに躊躇いがなかった相手に、返り討ちという形で殺される。誰にも悲しまれることなく、たった一人で死んでいく。それが報いというのなら、受け入れるつもりだった。

 

――でも……プログラムに選ばれるような……そんな理由なんて……。誰にもなかったはず……

 

 鈴木香奈子(女子9番)にも、五木綾音(女子1番)にも、佐伯希美(女子7番)にも、園田ひかり(女子11番)にも、そして真田葉月(女子8番)にも。まだ呼ばれていない辻結香(女子13番)や、ある意味一番傷つけてしまったあかねにも。そして――他のみんなにも。

 たった一人だけに用意された生きる権利を得るために、他人を蹴落とし、友を裏切り、その手を血に染め、醜く殺しあう。そんな大罪を犯すような人間は、このクラスにはいなかったはず。

 

――なんで……こんなことになっちゃったんだろう……。

 

 心の奥底に押し殺してきた、たった一つの疑問。決して答えの出ることのない、そしてどんな答えでも受け入れることなどできない、一番大きくて純粋な疑問。

 

――なんで……死ななくちゃいけなかったの……?

 

 グチャグチャになった感情と共に、温かいものをこみあげてくる。瞳を閉じれば、目尻からスッと雫が零れ落ちた。人を殺した私に、本来涙を流す権利などない。けれど、堪えようとしても、溢れ出すものは止まらない。香奈子を殺した時も、綾音を殺した時も、涙を止めることができなかった。頭では堪えようと思っても、堪えられるものではなかった。人を殺した罪悪感と、友人を失った悲しみは。

 頭では分かっている。失ったものは戻らない。泣いても喚いても、現状は何も変わらない。それでも、それでも――

 

「細谷」

 

 泣き続ける私の耳に届くのは、聞き慣れたあの人の声。ああ、とうとう幻聴まで聞こえるようになったのか。死に際に、幸せな夢でも見たくなったのだろうか。罰を受けるつもりだったのに、救いを求めてしまったのだろうか。

 違う。私は、救いを求めてはいけない。誰かに、縋ってもいけない。痛みと苦しみにもがきながら、誰にも看取られることなく、たった一人で孤独に死んでいくべきなのだ。

 

「しっかりしろ」

 

 ああ、また聞こえる。あの人の声が。ずっと聞きたかった、ずっと会いたかった、あの人の声が。

 

――これは、夢なの? それとも……

 

 その声が幻か、それとも現実か。確かめたくて、閉じていた目をゆっくりと開ける。幻なら、夢から醒めることができる。一人だと、再確認できる。

 けれど、もし現実だったなら――

 

「細谷、俺だ。俺が、分かるか?」

 

 視界いっぱいに映る、あの人の顔。ああ、どうして。私は、罰を受けるべきなのに。どうして、こんな幸せな結末が用意されているのだろう。

 神様、感謝します。これでもう、心残りはありません。

 

「古賀くん……よね……?」

 

 彼の質問に、かろうじて出せる精一杯の声で返事をする。そんな私を見て、彼は安堵したかのような、それでいて辛そうな――そんな表情をしていた。

 視界いっぱいに映る彼――古賀雅史(男子5番)は、その表情のまま、一度だけ首を縦に振っていた。

 

[残り9人]

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