空っぽの私たち

 

 あれからどうやって帰ってきたのか――あまりよく覚えてはいない。

 

 あのまま栗井孝(担当教官)に運ばれた状態で学校へと戻り、簡単な説明を受けてから、船に乗り込んで島を後にした。向こうに帰ってからはテレビカメラを回され(もはや自分がどんな表情をしていたのかすら覚えていない)、そのままこの病院へ入院した。それからどれだけの時が経ったのか。それすら正確に知りはしない。

 今、古山晴海(福岡県立沼川第一中学校三年一組女子5番)は、真っ白な壁や天井に覆われている病院の一室にいた。どこを見ても、真っ白でどこか無機質な部屋。その部屋の中に自分はいて、真っ白なベットに上半身だけ起こした状態で、ただ真正面にある壁の一点のみを見つめている。かつて誰も見たことのない、何の感情を映し出していない――人形のような表情で。

 

 そんな晴海の頭の中では、何度も何度も思い起こされている。プログラム――その中で起こった、たくさんの悲しい出来事のこと。

 

 くじで里山元(男子8番)が選ばれ、首輪を爆発されて死んでしまったこと。
 出発する前、教室まで銃声が轟き、それが矢島楓(女子17番)宮前直子(女子16番)を殺害したものだったということ。
 学校から出発したとき、神山彬(男子5番)が待っていてくれたにも関わらず、恐怖心から気付かずにそのまま逃げてしまったこと。
 たまたま見つけた小屋に身を潜め、その間にクラスメイトがどんどんいなくなっていったこと。
 このままではいけないと思い、意を決して小屋から出たものの、やはり一人で行動することは怖かったこと。

 

 それでも勇気を出して、銃声のした方角へ向かったら、楓に会えたこと。

 

 でも、楓から聞いた――月波明日香(女子9番)谷川絵梨(女子8番)を殺害し、さらに楓と白凪浩介(男子10番)ことも殺そうとしたこと。
 楓を守るために、浩介が明日香を殺したこと。
 けれど、それが原因となって、浩介が文島歩(男子17番)に殺されたこと。
 ようやく楓を一緒にいられるようになってまもなく、宇津井弥生(女子2番)が訪ねてきたこと。
 結果的に弥生を招きいれ、晴海が休んでいる間に、楓と弥生が戦闘になっていたこと。
 弥生がプログラムに乗っていて、乙原貞治(男子4番)を殺したということ。

 

 自分が殺される恐怖から、弥生を殺してしまったこと。
 そして――楓が弥生に殺されてしまったこと。

 

 けれど、その直後に萩岡宗信(男子15番)に会えたこと。そして、一緒にいてくれると言ってくれたこと。

 

 休んでいるとき、銃声が轟いて、宗信と一緒にそこに向かったこと。
 そこに向かっている最中、江田大樹(男子2番)に会うことができたこと。それと同時に彬とも遭遇したこと。

 

 彬の口から語られた、“お姉ちゃん”こと――東堂あかねのこと。彬が、あかねや晴海のために死のうとしていたこと。

 

 何とか説得しようとしていたとき、窪永勇二(男子7番)の襲撃を受けたこと。
 勇二の襲撃を避けながら、ようやく彬と分かり合うことができたこと。

 

 彬が囮になる形で、晴海達を逃がしてくれたこと。

 

 逃げた先で歩と遭遇し、何とか分かりあおうとしたが、結果的に決裂してしまったこと。
 殺されそうになった宗信を庇おうと、歩に銃を向けた大樹が撃たれてしまったこと。そこに、満身創痍の藤村賢二(男子16番)が現れたこと。
 賢二が標的になろうとしていたとき、宗信が賢二を庇って、それで撃たれそうになったこと。
 宗信が殺されそうになり、無我夢中で歩に向けて引き金を引いてしまったこと。
 賢二が、自身の命を投げうって、歩を押さえこんでくれたこと。そして、そのまま撃つように宗信に促したこと。
 そして、宗信が断腸の思いで引き金を引いたこと。
 しかし、歩は生きていて、宗信が立て続けに撃たれ、そのまま湖に落ちてしまったこと。
 宗信を助けたい一心で、自ら湖に飛び込んだこと。

 

 何とか宗信共々、湖から這い上がってこれたのに――そのときには何もかもが終わっていたこと。

 

 じわりと涙が浮かんでくる。何度涙を流したことだろう。何度心の中で後悔したことだろう。あのときああしていれば、もっとこうしていれば――そう思うことはたくさんある。けれど、もう戻らない。失われてしまったのだ。何もかも。

 そっと右手で、自身の髪に触れる。あのときはまったく気づいていなかったが、晴海が湖に向かって走っていく最中、歩が晴海に向けて発砲し、そのときの弾丸が丁度二つ結びの髪に当たりそのまま切り離してしまったらしい。現に、自分は人生初のショートカットになっている。

 

「どうして…?」

 

 何度も口にしたこの言葉。けれど、それは誰に届くわけもなく、ただ静かに消えていくだけ――

 

 どうして、私だけが生き残っちゃったの?

 どうして、みんないなくなっちゃったの?

 どうして、こんなものが存在しているの?一体、何のためなの?

 

 答えは出ないと、痛いくらいに分かっている。けれど、思わずにはいられない。そうして、またプログラムのことを思い出す。その繰り返しだった。

 

 その中で、意識は時に“死”へと向かうときがある。このまま生きていても、きっともう楽しいことはない。あったとしても、以前ほど笑うことはできない。人を殺して、友人も好きな人も失って、人生に何の希望も持てない。死ねば、みんなに会える。楓にも、絵梨にも明日香にも、そして宗信にも会える。そこへいきたい。みんなに会いたい。そんなことを思うことがある。青い空を見るたび、夕焼けを見るたび、みんながそこにいそうな気がして、泣きそうなくらい胸が締め付けられる。

 

 けれど、そのたびに、脳裏に浮かぶ言葉がある。

 

『でも、忘れないで。一人じゃないってこと。どこかで…誰かと…つながっているってこと…。』

『君が生きることを望んでいてもいなくても、君に生きることを望んでいる“別の誰か”がいるということ。それを、忘れないで欲しい。そして、君が生きていることで、救われる人間もいるということも。』

 

 その言葉が浮かぶたび、意識はこちらに引き戻される。命をかけて晴海のことを守ってくれた人の言葉。今死んでしまえば、その気持ちが無駄になってしまう。無駄にしないと誓ったのだから、簡単には死んではいけない。それは、痛いくらいに分かっている。

 

 でも――そうしたら、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだろう?

 

「晴海…」

 

 そのとき、静かに戸を開ける音と共に、母が病室に入ってきた。こちらに帰ってきたとき、久しぶりに見る母の顔は、どこかやつれているように思えた。そして、それは今でも変わっていない。

 

「気分はどう…?大丈夫…?」

 

 そんな母の言葉には、「大丈夫。」と短く返すに留めた。

 

 実際のところ、晴海は大した怪我もしていないし、この入院にしても、様子見ということで一週間ほどということになっている。そう、身体的には何の問題もない。ただ、おそらく母の言葉には、“精神的に大丈夫か”という意味が込められているのだろう。

 そんな晴海を見て、母は心配そうな表情を崩すことなく、小さくこう言った。

 

「栗井先生が…晴海に話があるって来られているけど…どうする?」

 

 その一言に、心がざわめく。静かな水面に一枚の木の葉が落ちるかのように、晴海の心に波紋を広げていく。無意識のうちに呼吸が荒くなり、心拍数が少しだけ上昇するのが分かった。

 会いたくはない。けれど、話があるのなら会わなくてはいけない。逃げてはいけない。そう思った。

 

「いいよ。通して。」

 

 それだけを告げると、母は「分かった。」とだけ言って、静かに病室から出て行った。

 

――話って何だろう…?

 

 いいことではない。けれど、悪いことでもないような気がしていた。何となく。そう――何となく。

 

 ほどなくして、母と一緒に栗井が入ってきた。そのまま晴海の近くに腰かける。それから、母は音もなく出て行った。おそらく、二人きりにしてほしいと、栗井に頼まれたのだろう。晴海としても、そのことに関して特に異論はなかった。

 

「疲れているときにすまないな。いくつか本人に伝えていかなきゃいけないことがあってな。」

 

 そう言って、持ってきた鞄から何かを取り出そうとする。そのとき、勝手に言葉が口から飛び出していた。

 

「先生は…大丈夫なんですか…?」

 

 晴海の言ったことが意外だったのか、栗井が目を丸くしてこちらを見つめている。晴海自身、どうして労わるような言葉を口にしたのか、正確には自覚していない。ただ――最後に会った時よりは、少し痩せたような気がしていたから。

 そんな晴海の言葉に、栗井は「大丈夫だ。」と軽く答えていた。その言葉に、多少なりとも嘘が混ざっていることはすぐに分かったが、それ以上追及はしなかった。

 

――嘘つき。本当は大丈夫なんかじゃないくせに。

 

 そんな晴海をよそに、栗井は淡々と説明を始めた。

 

「まず、優勝者に支給される生活保護の話だが、これに関してはご両親に詳しく説明してある。指定の口座に、毎月決まった額だけ振り込まれることだけ理解してくれればいい。それと、これが総統の色紙だ。」

 

 そう言って、晴海にその色紙を差しだす。晴海は、ただ黙ってそれを受け取った。色紙には、よく分からない言葉が大きく書かれてある。あまり綺麗な字ではない。文字が読み取れないのだ。――分からない。この人は、一体何が言いたいのだろう?

 次第に、色紙を持つ手に力がこもるのが分かる。このちっぽけなもののために、こんなわけのわからないもののために、クラスのみんなは犠牲になったのではない。この手にある色紙が、みんなを死に追いやった元凶のような気がして、壊したくなる衝動に駆られる。その感情を、何とか押さえようと呼吸を整える。耐えなくては、今は栗井がいるから耐えなくては。今は、今は耐えて――

 

「好きにしろ。」

 

 まるで、晴海の心を見透かしたように、栗井が口を開いていた。

 

「お前の手に渡った時点で、お前のものだ。後はどうなろうと俺の知ったことではない。捨てるなり、壊すなり、お前の好きにしろ。少なくとも、隠れてやれば問題ない。」

 

 その言葉を聞いた途端、なぜかふっと力が抜けた。そして、もう一度だけ色紙を見る。今度は黙って、花が活けてある花瓶に立てかけるようにして、そっと色紙を置いた。

 

「それと、優勝者には例外なく他県に転校してもらう。こっちの手続きも、詳しくはご両親に説明してあるから。早く退院して、必要な過程を終えないと、もう一度中学三年生をやることになるぞ。」

 

 転校――その言葉に、心臓が大きく音をたてる。そう、もう福岡にはいられない。いや、強制的に転校させられなくても、もうここにはいられなかっただろう。“転校”という事実は、どこか晴海をホッとすらさせていた。

 

「わかりました。」

 

 そうはっきりと告げると、視線を栗井から窓へと移す。窓にたたきつける雨音が、やけに大きく聞こえる。雨は窓をたたき、いくつもの筋ができて下へと流れ落ちる。その単調な流れに、晴海はただ見入っていた。そういえば、今は梅雨の時期なのだ。

 

――梅雨が明ければ…夏がやってくるんだ…。

 

 いつもなら心待ちにする季節。テニスの練習はきついし、暑いのは正直苦手だが、夏休みがある。アイスがおいしい季節だし、花火とか夏祭りとか、楽しいことはたくさんある。そして夏を迎えれば、晴海は晴れて十五歳になる。

 

 けれど、今は嬉しくもなんともなかった。

 

 そばに友人がいるから、一緒にいてくれる誰かがいるから、だから素敵な思い出になるのだ。多くのものが欠けてしまった今、何を楽しみにすればいいのか分からなかった。そして――これからどうしたらいいのかも。

 

「要件は以上だ。それじゃ、俺はこれで失礼するよ。」

 

 そんな晴海の様子を少しだけ見つめた後、栗井はそう静かに告げる。そして、そのまま病室を出て行こうとした。

 

「先生。」

 

 視線を栗井へと戻し、思わず声をかける。栗井は、少しだけ目を見開いた状態で、上半身だけこちらに向けてくれていた。

 

「先生は、どう思っているんですか…?プログラムのこと…」

 

 深く考えるまでもなく、口から出たこの言葉。晴海自身にも、どうしてこんなことを聞いているのかは分からない。担当官という立場を考えれば、賛成しているに決まっている。けれど――何となく、栗井は違う回答をもっているような気がしていた。

 栗井は、すぐには答えなかった。しばし黙って晴海のことを見つめてから、静かに口を開く。

 

「古山。お前はどう思っている?」
「え…?」
「多分…俺もお前と同じだ。」

 

 今までで一番優しい声で、栗井はそう答える。晴海が目を丸くしていると、そのまま病室を出て行った。

 

――同じ…?同じって…?

 

 少なくとも、よくは思っていないということだろうか。担当官という職務に就いておきながら、賛成はしていないということだろうか。

 

――本当に賛成している人間なんて…いるの…?なら、何でこんなもの…

 

 そのとき、荒々しく戸が開かれるガラッという音が聞こえた。

 

 いきなり大きな音がしたことに驚き、一瞬身体がビクンと反応する。そして、すぐに音のした方向に視線を向ける。その瞬間、目を見開いた。そこには、あまりにも意外な人物が立っていたのだ。

 

「どうして…ここに…?」

 

 どうして、晴海がここにいると知っているのだろうか。ここ二年ほどは連絡すら取っていなかったのに、今どこに住んでいるのかすら知らないのに、どうしてここに立っているのだろうか。

 

 晴海の“お姉ちゃん”である――東堂あかねが。

 

 あかねは、そのまま晴海のところまで駆け寄り、両腕でギュッと抱きしめてくれた。何も言わずに、ただ晴海のことを抱きしめてくれていた。

 

「お姉ちゃん…どうして…」

 

 彬がくれたあの紙は、湖に飛び込んだ際に紙がふやけてしまい、文字を読み取ることができなかった。せっかく彬がくれたものなのに、会ってほしいと言われていたのに、それはもう叶わない。全て無駄にしてしまって、本当にごめんなさい――そう思っていた。少なくとも、こちらからは何も連絡していないのだ。

 晴海を抱きしめる腕に一層の力を込めて、あかねは小さくこう言った。

 

「神山彬くんは…私の従姉弟なの…」

 

 その一言で、あぁと思った。

 

――うん、知ってる。知ってるよ。だって、神山くんが教えてくれたから…

 

「彬くんのご両親から、プログラムに選ばれたことを聞いて…。彬くんと晴海ちゃんが同じクラスだってことは、前に彬くんから聞いて知っていたから…。そしたら、いてもたってもいられなくて…。こっちに帰ってくるのは怖かったけど…私なんかには何もできないって分かっていたけど…それでも…二人が心配で…」

 

 続きは言わなくても分かる。自分も選ばれたプログラムに、従姉弟や妹みたいな子が選ばれて、じっとしていられなくて、どうしたらいいのかわからないけど、とにかくこっちに戻ってきたのだ。少なくとも、辛い過去が起こったこの土地に戻ってくること自体、晴海には計り知れないほどの勇気が必要だったに違いない。

 

「お姉ちゃん…私…私っ…」

 

 言わなくては。彬がどんな気持ちでいたのかとか。どれだけあかねのことを大事に思っていたのか。最後まで、あかねのことを思っていたこととか。あかねのために――晴海を優勝させようとしていて、彬自身は死ぬつもりだったこととか――

 けれど、言葉は中々出てこない。彬が、自分たちのために死ぬことを選んだ――それを知ったとき、あかねは一体どう思うのだろう?

 

「いいよ。何も言わなくて。」

 

 何も言えずにいる晴海に代わって、あかねがはっきりとこう口にした。

 

「何となくね…分かっちゃうんだ…。彬くんがどんな気持ちでいたのかとか、どんな風に行動したのかとか。私が望んでいなくても、多分そうするんだろうなって。彬くんはね、そういう人なんだよ。私の自慢の…優しくて…思いやりのある…大事な…従姉弟…だっ…たんだ…」

 

 そう言って、晴海の存在を確かめるかのように、あかねはより一層強く抱きしめる。

 

「色んなこと…たくさんあったよね…?辛かったよね…?きつかったよね…?口に出せない辛い思い、いっぱいしたと思うの…。私はね、きっとその気持ちを全部は分かってあげられない。でも…でもね…プログラムで優勝した…。そのことだけは…晴海ちゃんと同じだから…。だから…」

 

 あかねの声が、次第に嗚咽を含ませたものへと変化していく。もしかしたら泣いているのかもしれない。自分もプログラムを経験して、大事な従姉弟を失って、今もなお辛い思いをしているに違いない。その気持ちは、きっと晴海には計り知れない。

 少なくとも、“プログラム”というシステムのために、二人は共に傷ついている。

 

「泣きたいなら、たくさん泣いたらいい。言いたいことがあるから、全部吐き出してしまえばいい。何があっても、私…晴海ちゃんの傍にいるから…。何があっても、私はもういなくならないから…。だから…もう我慢しなくていいんだよ…。」

 

 泣きそうな声で、優しい声で、あかねはそう言ってくれた。それがより一層、晴海の涙腺を緩くする。泣くまいと涙をこらえるけれど、次第に息が苦しくなる。

 本当は、大丈夫だと言おうと思った。いつかまた遠いところへ行ってしまうあかねに、これ以上の心配をかけないためにも、元気な姿を見せようと思っていた。大丈夫だと言えば、きっとあかねも楽になれる。これ以上の負担を背負うこともなくなる。

 

 けど――

 

「お姉ちゃん…」

 

 意志に反して、言葉が中々出てこない。言いたいのに、大丈夫だって言いたいのに、上手く言葉が紡げない。思いとは裏腹に、涙が勝手にたまっていく。

 

「私…私っ…!」

 

 堪え切れない涙が、スッと頬を伝う。それがきっかけだった。

 

「う、うぅ…うわぁぁぁぁぁぁぁ――!!」

 

 あかねにすがりついて、晴海は大声で泣いた。何も考えられずに、ただ涙をボロボロと流していた。迷惑になるかもしれないとか、そんなことは一切気にすることができなかった。抱きしめてくれる体温がとても温かくて、晴海が泣いたことであかねが一層強く抱きしめてくれて、それでまた涙が溢れだすのが分かった。

 

 ありったけの涙を流すかのように、抱えていた感情を吐露するかのように、堪えていた悲しみを全て吐き出すかのように、しばらく間、晴海の泣き声が止むことはなかった。

 

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