“親友”との最後の別れ

 

 気がついたらここにいた。真っ白で何もない世界に。

 自分が死んだのだと理解したのは、割とすぐだった。だって、撃たれたはずの傷が存在していなかったのだから。

 

――俺…あのまま死んじまったのか…

 

 ギリッと唇を噛みしめる。悔しかった。もう会えない。守れないと思うと――とても。

 

――俺は…結局何も果たせないまま…死んでいくのか…

 

 誓ったのに。守るって、生きるって、あれだけ誓ったはずなのに。

 

――あれからどうなったんだ…?古山さんは?江田や文島は…?ここは一体…

 

 キョロキョロと辺りを見渡す。ここは一体どこなんだろうか。天国なのだろうか。いや、人一人殺した自分は、天国になどいけないのだから、ここは地獄なのかもしれない。その割には、あまりに何もなさすぎる空間だと思った。

 そんなことを思いながら、萩岡宗信は、思わず拳をギュッと握りしめる。約束が果たせないことが申し訳なくて、そんな自分があまりに不甲斐なくて、溢れだしそうになる感情を抑えるために。そうやって一人途方に暮れていた、そのときだった。

 

「宗信。」

 

 背後から声をかけられる。振り向けば、そこには一人の人物が立っていた。

 背が高くて、運動も勉強もできる。いつだってクールで、時にはアドバイスだってしてくれる。いつも憧れと、嫉妬の混じった感情で見ていた人物が、宗信のすぐ近くに立っていた。

 

「…浩介。」

 

 そこに立っている人物――白凪浩介に、そう返事をする。すると、浩介は何とも軽い調子で、「よっ。」と言って、小さく右手を挙げていた。

――あぁ、変わらないな。そういうところは。

 

「俺…死んだんだな…」

 

 そう小さく呟く。浩介は、何も答えない。ただ、寂しさと悲しさを折り混ぜたような表情で、宗信の方をじっと見つめているだけ。

 

「情けない…よな…。お前のことも、貞治のことも、他のみんなのことも、全部抱えて生きていくって誓ったのに。古山さんには、簡単には死なないって約束したのに。何も守れないまま、こうやって死んでいくなんて…。俺は…本当にバカだよな…」

 

 口にすると、より一層情けなくなってくる。好きな人である矢島楓を守りきった浩介とは違って、自分は古山晴海が無事かどうかすら分からない。約束も果たせなかった。好きな人を守ることすらできなかった。浩介の顔をまともに見ることができなくて、宗信は思わず視線を落とす。

 そんな宗信のことを、浩介はただ黙って見つめていた。そして、宗信の言葉が切れるのを待っていたのか、やがておもむろに口を開いていた。

 

「あぁ、お前は本物の馬鹿だよ。」

 

 淡々と告げられたその言葉。その言葉が胸に突き刺さり、思わずより一層の力で拳を握りしめる。そんな宗信にかまわず、浩介はすぐに続きを口にしていた。

 

「無理に決まっているだろ。全てを抱えて、全部を理解して、それでも生きていくなんて。そんなパーフェクトな人間じゃないだろ。俺も、お前も。」

 

 思わぬことを言われ、浩介の顔を凝視する。宗信の言っている“バカ”と、浩介の言っている“馬鹿”は、まったく違うものなのだ。

 

「それに、俺から言わせれば、暑苦しくて、正義感の固まりのような性格をしている萩岡宗信という人間が、俺や文島のことを一方的に非難しなかったことが一番意外だ。迷っているのが一番変だ。でも…ちょっと嬉しかったのも事実だけどな。」

 

 だからそれで十分だよ。そう言って、浩介は少しだけ笑った。あの出来事がなければ、親しくならなければ、きっと一生見ることのなかった優しい微笑み。けれど、なぜか今は、その笑顔を見て泣きそうになる自分がいた。

 少しだけ分かったような気がしたから。それは――惜別の微笑みなのだと。

 

「一つだけ……聞いてもいいか?」

 

 少しして、浩介の顔を真正面から見ながら、こう口を開く。もし、浩介に会えることがあったなら、いつか自分も死んで浩介に会えたのなら、一つだけ聞きたいことがあった。

 そう口にすれば、浩介は「何だ?」と返してくれる。促してくれているかのような優しい口調のおかげで、思ったよりもすんなり口にすることができた。

 

「後悔、してないよな?」

 

 本当は聞かなくても分かっている。きっと、思った通りの答えが返ってくるはず。

 そしてその通り、まるで宗信の心を読み取ったかのように、浩介は静かにこう答えていた。

 

「あぁ、後悔してない。」

 

 あぁそうか、そうだよな。そう、宗信は思った。

 

――お前はそういう奴だもんな。いちいち振り返るような奴じゃないもんな。俺と違って…

 

 けれど、それは口に出さず、「そっか。」と言うだけに留めた。それ以上言うことはなかったし、言うべきではないと思ったから。浩介との付き合いは中学三年生になってからだが、そんな短い付き合いでも、分かるべきところは分かっているのだ。

 これ以上は何も言わなくても、互いに理解しているのだということを。

 

「俺のからも、一個聞いていいか?」

 

 今度は、浩介から話の口火を切る。同じように「何だ?」と返すと、すぐに浩介は質問を口にしていた。

 

「古山さんのどこが好きなんだ?」

 

 あまりにも意外で、そして答えるのがとても恥ずかしい質問をされたせいか、勝手に顔が真っ赤になるのが分かる。きっとあのときと同じように心拍数は上昇し、体温もどんどん上がっていることだろう。

 

「今まで聞く機会がなかったからな。この際、ちょっと聞いておこうと思って。」
「ど…どうって言われても…」

 

 つっかえながらも、質問の答えを必死で考える。自分は、一体晴海の“どこ”が好きなのだろう。少なくとも、容姿や一目ぼれとかではない。背丈も多分――関係ない。

 性格。中身。そういうところなのだろうとは思う。けれど、はっきり“これ”というところはない。優しいところも、芯の強いところも、テニスを頑張っている姿も、他愛ないことで笑っている笑顔も、全部好きだとはっきり言える。プログラムで一度だけ泣いた――親友を失って泣いた姿さえ、愛おしいと思ったのだから。

 

「浩介は…?矢島さんのどこが好きなんだよ…?」

 

 浩介の方はどうなんだろう。そんな疑問から、敢えてオウム返しで質問した。確かに楓も優しい人だし、芯もきっと強くて、友達思いのいい子だ。けれど、宗信は楓に対して恋愛感情を抱いたことはない。宗信には分からなくて、浩介には分かる楓の魅力とはなんだろう。

 そんな宗信の言葉に、浩介は「質問返しかよ。」と少しだけ皮肉めいたことを言ってから、すんなりこう答えてくれた。

 

「多分…お前と同じだよ。“これ”というのはない。」

 

 一緒だった。まさに、宗信が考えていることとまったく同じだった。性格的にはほぼ正反対の立ち位置にいる浩介と、こと恋愛に関しては同じ答えだったのだ。

 

「もっといえば、俺も古山さんはいい子だと思うし、お前が好きになる気持ちも分からなくはない。けれど、俺は彼女に対して恋愛感情を抱いたことはないんだ。」

 

 その答えに、あぁと妙に納得した。きっと宗信にとっては晴海からしか、浩介にとっては楓からしか、感じ取れない何かがあるのだろう。それが何か――まだ上手く説明できない。“運命の赤い糸”とやらかもしれないし、もっと理論的に説明できるものかもしれない。もう少し大人になれば、分かることなのかもしれないが。

 

――妙なとこ似てるな…。俺達…

 

「お前の人生だからな。」

 

 そう思ったのもつかの間。浩介はいきなり真剣な表情になり、こう口を開いていた。

 

「抱えて生きるも、古山さんのことも、俺のことをどう思うかも…全部お前の自由だ。けれど、決して自分を見失うなよ。お前は“萩岡宗信”という人間であって、他の誰でもないんだ。お前は誰の代わりでもないし、誰もお前の代わりにはなれない。お前は、俺や、貞治や、武田や藤村にだってなれないし、同じように誰もお前にはなれない。それを、絶対忘れるな。」

 

 そうはっきり口にする浩介を見て、あぁと思った。これで最後なのだと。浩介とこうして面と向かって話すのは、本当に最後なのだと。もう一緒にいることはできないのだと。あのとき交わしたダブルデートの約束が叶うことは――決してないのだと。

 それが悲しくもあり、寂しくもあり、そして――

 

「あと一つ。俺のことはさっさと忘れろ。」

 

 そんなセンチメンタルな気持ちになったのもつかの間、浩介から予想だにしなかったことを言われ、思わず「はぁ?」と返事をしてしまう。たったそれだけで、胸の中に抱いていた悲しみや寂しさといった感情が一気に抜けてしまっていた。

 

「いつまでも覚えていられて、思い出されるたびにいちいち泣かれるのは大変迷惑だ。そんなことをされるくらいなら、とっとと脳内メモリから消去されたほうがいい。何も考えずに突っ走る方が、はるかにお前らしいからな。うじうじするのは…らしくないだろ?」

 

 そう言って、意地悪そうな顔でニヤリと笑う。それは、今まであまり見たことのない、中学三年生らしいともいえる子供っぽい表情。いつもの端正でクールな表情からは想像もつかないほどの、あどけない少年の顔。

 けれど、腹は立たない。そう言う理由も分かっているから。けれど、宗信は敢えてこう返していた。

 

「忘れられるわけ…ねぇだろ。こんな…ムカつくほど背が高くて、勉強も運動もできる。見た目パーフェクトなくせに、意地が悪くて、言葉もきつくて、モテるくせに女の子には冷たい。そんな…そんな二度会えないようなダチのことなんか…忘れたくても忘れられるかよ…!」

 

 言いたいことを思いっきり言ったら、なぜか妙にスッキリした。それはきっと、伝えることで決意を新たにできたから。言いたいことを全部伝えることができたから。今まで言えなかったこと、言いたかったことも――全部。

 すると浩介は、ニヤリと笑いながら「言ったな。」と言い、こう反論した。

 

「まぁ、勝手にしろ。この単純熱血馬鹿。…ついでに“チビ”」

 

 浩介の口から、宗信にとっての最大禁句である“チビ”という単語が出ても、なぜか腹は立たなかった。思えば、浩介は一度だって、宗信に向かって“チビ”と言ったことがない。親しくなってからも、その前もだ。それを、今わざと口にした。それが何を意味するのか――それも、宗信には全部分かっていたから。

 

「いいんだよ!いつか伸びるんだから!見てろよ!お前の身長絶対越してやるんだからな!!」
「ま、せいぜい頑張れ。ちなみに、俺の身長178センチだからな。あと…50センチくらいか?」
「ば、馬鹿!一体何センチだと思ってんだよ!!あと35センチくらいだよ!!」
「…にしたって、遠い道のりだな。毎日牛乳でも飲んで、せいぜい努力しとけ。それと…」

 

 ふっと言葉が途切れる。浩介の表情は先ほどのふざけたようなものではなく、真剣なものへと変わっていた。

 

「生きろよ。」
「ああ。」

 

 別れは辛いけど、いつまでもここにはいられない。帰らなくてはいけないところが、宗信にはあるのだから。

 

「じゃあな。」

 

 そう浩介が口にした途端、世界が歪んでいく。もう、ここにはいられない。何もかもが消えてしまう。いなくなってしまう。もう――二度と会えない。もう――

 

「でも!!」

 

 消えていく浩介に届くように、今までで一番大きな声で叫んでいた。一番大事なことを、はっきりと伝えるために。

 

「お前は一生、俺の親友だからな!!」

 

 この言葉が、届いたかどうかは分からない。けれどその瞬間、浩介がふっと笑ったような気がした。それは、意地の悪そうな笑顔ではなく、子供っぽいものでもなく、ただ純粋に、嬉しそうに、そして少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。

 浩介の口が動いている。宗信は、必死にその言葉を聞き取ろうとした。けれど、その姿はどんどん見えなくなっていく。次第に宗信の意識も遠くなっていき――

 

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 気がつけば、宗信は仰向けに倒れていた。もう真っ白な世界はどこにもなく、視界には灰色の空が広がっていた。雲に覆われた、すっかり日が暮れた空。背中にわずかな揺れを感じながら、宗信はしばらく空をじっと見ていた。

 目が覚めて一番に思ったことは、今の状況がどうなっているのかとか、自分は一体どんな状態なのかではなく――浩介が最後に言った言葉のことだった。

 

――あぁ…最後にあいつは、こう言ったんだ…

 

 一筋の涙が、スッと目じりから伝っていく。もう会えない親友が、あまり人を褒めることのない親友が最後に言った言葉は――本当に一生忘れられないものだった。

 

『お前も、俺にとって一番大事な、自慢の…親友だからな。』

 

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