“旅立ち”

1996年3月17日

 

 寒さがようやく和らいできた今日この頃。『福岡県立沼川第一中学校』と書かれた校門の前に、一人の少女が立っていた。

 

――もう…あれから九か月も経つんだ…

 

 古山晴海はそこで足を止め、久しぶりとなる沼川第一中学校をじっと眺めていた。本来ならば、みんなと一緒に卒業するはずだった――母校のことを。

 

 白い壁に囲まれた校舎が、何棟もそびえ立っているこの学校。校門のすぐ右手にある大きな玄関は来客用で、そこから校長室へ職員室へと行くことができる。二階には図書室や美術室、三階にはバソコン室や吹奏楽部が練習する音楽室がある棟だ。その左隣の棟、つまりは校門に正面にあるのが、晴海達が毎日通っていた教室のある校舎だ。正面にあるのがA棟、その左手にあるのがB棟と、教室のある棟は二つ存在する。さらに右手の奥、A棟と職員室のある棟の間を抜けると中庭があり、その突き当たりには体育館があった。といっても、体育館は二階にあるので、一階には剣道をする武道場や生徒会用の部屋が存在するものだ。そして、それぞれの棟は、各階にある渡り廊下でつながれている。そして運動場は、校門からは見えない体育館の右手に存在している。

 

 ここから離れて九が月経つが、今だに鮮明に覚えている。

 

 晴海達三年一組の教室はA棟にあった。A棟とB棟をつなぐ二階以上の渡り廊下には大きな窓があり、外からは誰が通っているのかよく見える。けれど、今は昼時なのに誰一人通ってはいない。それどころか、人の気配がほとんどない。当然なのだ。今日は日曜日なのだから。

 

 だからこそ、今日ここに来たのだ。

 

 校門の脇にある扉から、こっそりと中に入る。一応鍵は開いていると聞いてはいたけれど、正直不法侵入になりはしないかと、内心冷や冷やしていたものだったが。

 

「お邪魔しまー…す。」

 

 小さく断りを入れ、ゆっくりと敷地内を歩いていく。あんなに通い慣れた場所だったのに、たった――たった九ヶ月離れただけで、こんなに違和感を感じてしまうものだったのだろうか。それほどまでに、歳月というものは人を変えてしまうのだろうか。

 

 あの人は――変わってしまっているだろうか。

 

 校門の正面にあるA棟の靴箱へと続くガラスの扉を開ける。一か所だけ鍵を開けてあるということだったが、確かに三つある扉のうち、真ん中の扉だけ開くことができた。そこからするりと中へ入り、そのまま真っすぐ靴箱と靴箱の間にある道を通り、段差のあるところで履いていた靴を脱いだ。持っていくのも何だと思い、靴箱の空いていたところに放り込んで置く。既に卒業式も終えている今、自分達の学年の上履きは一つも残ってはいなかった。

 

 校内に一歩踏み出すと、冷たいフローリングの感触が、足の裏から伝わってくる。その冷たさに一瞬だけ鳥肌が立つのが分かったが、かまわず一歩、また一歩と歩き出す。

 まず目に入ったのが、特に何もない、フローリングが敷き詰められたホールと言うべきものだ。ストレッチや軽い運動くらいならこなせるほどの広さはある。晴海自身も、雨で部活の練習ができないとき、ここで筋トレをしたりしていたものだった。そのホールの右横には、奥の教室へと続く廊下がある。晴海は、ゆっくりとそこへ向かって歩いていった。向かうは、かつて自分達が慣れ親しんだ三年一組の教室だ。

 廊下まで行き、左へと曲がる。少し奥へと歩いていけば、三年一組の教室があった。ゆっくりと奥へ進み、教室のドアの前に立つ。少しだけ、緊張感が増す。

 

 いつもなら、プログラムに選ばれる前までは、このドアを開ければみんながいるはずだった。「おはよう。」と声をかけてくれる、クラスの誰かがいるはずだった。そんな当たり前の日常が、瞬間的に思い起こされる。

 

 気を抜けば流れそうになる涙をこらえ、晴海はゆっくりとドアを開けた。

 

 ガラガラという音が、やけに大きく響く。三十八人分の机と椅子、黒板の前には教卓、けれどそれ以外には何もない教室。何もない、殺風景だとすら思える光景。時へ経て、教室まで様変わりしてしまったのだろうか。

 そう、そこには誰もいなかったのだ。

 

「誰も…いないの…?」

 

 誰一人いない教室へ向かって、そう小さく声をかける。当然ながら、返事はなかった。

 

――まだ…来てないのかな?

 

 そんなことを思いながらも、足は自然と教室の中へと進んでいく。そのまま、かつて自分が座っていた席へと向かっていく。ドアから見て一番奥、前から四番目の席。そこまで辿り着くと、晴海はそこの椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 

 教室を見渡せば、自然と思いだされる記憶。クラスのみんながいて、そこには笑顔があって、ずっと続くと思っていた――日常の光景。

 

 すぐ後ろに座っている荒川良美の席では、良美と香山ゆかりが楽しそうに何か話している。明るい性格の良美と、おっとりとしていたゆかり。一見正反対の二人だけれど、だからこそ気も合ったのだろう。良美が「ゆかりとは高校違うだろうけど、ずっと仲良くしようって決めてるんだ!」なんて言っていたことも、一度や二度ではない。

 笑い声が聞こえれば、その中心にはよく武田純也がいた。その周りには、鶴崎徹野間忠がいることが多くて、二人は何か言いながらも純也の冗談によく付き合っていたような気がする。徹と忠がいるときの純也は、いつも楽しそうに笑う。その底抜けの明るさは、クラスにいい雰囲気をもたらしていた。

 その純也らよりも晴海に近い席にいた日向美里。晴海よりも小柄な彼女は、日頃おとなしく、料理やら裁縫関連の本をよく読んでいた。実際、家庭科の成績はクラストップだったし、こっそりお菓子を持ってきたときなんかは、おすそ分けをもらったこともある。その美里の席には、仲の良い西田明美七海薫がいて、二人であーだこーだと話している。その二人といるときの美里は、いつも楽しそうに微笑んでいた。

 どこからともなく、若山聡が、誰かの名前を呼ぶ声が聞こえる。その声を追いかけると、そこには一人の人物がいた。いつも一人でいた印象が強いけど、そういえば聡は彼によく話しかけていたなということも思い出していた。きっと時が経てば、もっと仲良くなることだってできただろう。聡だけではなく、もっと多くの人と関わりを持つことだってできただろう。きっと聡は、彼が本当は優しい人だと知っていたのだ。

 その人物――神山彬。聡が話しかけても、いつもすげなく返していた彼だれど、その表情は少しだけ微笑んでいるようにも見えた。もしかしたら、心のどこかでは嬉しかったのかもしれない。本人すら自覚しないところで、聡のことを受け入れていたのかもしれない。生きていれば、きっと今頃は――

 

 一つ、また一つと思い起こされる記憶。目に映る映像は、果たして幻覚なのだろうか。それとも――

 

 そのとき、ペタンという足音が聞こえた。それと同時に、目に見えていた映像がふっと消える。

 

――来たの…?

 

 教室の窓に映る人影。そのシルエットは、待ち人によく似ているような気がした。その人影は迷わずこの教室へと近づいていき、そのままドアのところまで歩いていく。そして、教室に入ろうとしたところで足を止めていた。

 

「来て…くれたんだ…」

 

 ドアのところに立っている人物は、晴海を見てそう口にしていた。晴海がいることに驚いているのか、目は見開かれたまま、そこに呆然と立っていた。その姿は、以前と変わっていないように見えた。

 

「本当に…生きていたんだね…。萩岡くん…。」

 

 今ドアのところに立っている人物――萩岡宗信は、晴海の姿を見るなり、微笑んでくれた。

 

「栗井と白石っていう奴のおかげでな。古山さんこそ、元気にしてたか?」

 

 コクコクと頷く。既に手紙に書かれていたことなので知ってはいたけれど、それでもこの目で見るまでは信じられなかった。死んだと思っていた人が、ずっと好きだった人が生きているなんていう事実が。だからこそ、今日――3月17日、気が向いたら来てほしいという手紙の通りに、ここまでやってきたのだ。

 

「俺のこと、助けてくれたんだってな。後から聞いたよ。遅くなったけれど…ありがとう。」

 

 続けて宗信が発した言葉に、ブンブンと首を振る。あのときは本当に必死で、何も考えていなかったから、お礼を言われることなど何もない。それよりも、今ここに、自分の好きな人が立っている。死んだと思っていた人が、もう二度と会えないと思っていた人が、今自分を見ていてくれている。そのことが、何よりも重要だった。

 よく見てみれば、宗信は少しばかり背が伸びただろうか。少しばかり成長した姿は、月日が流れたことを痛感させてしまうが、同時に宗信が同じ月日を生きていてくれたことを証明してくれる。きっとプログラムを経て、ここまで生きてきて、嫌でも変化しているのだろう。けれど、きっと本質的な部分は変わっていない。それは、宗信の立ち振る舞いからにじみ出ている。

 そのことが、何よりも嬉しかった。

 

「手紙もらったとき…信じられなかった。萩岡くんと江田くんは生きているって…。どうして…私が今住んでいる住所知っていたの?」

 

 晴海は今、兵庫県神戸市に住んでいる。希望も出せるということだったので、わざとそこへ転入できるようにお願いしたのだ。既にそこに住んでいた東堂あかねと、今は互いに支え合って生きている。そう、かつて彬が望んだ通りに。

 

「栗井に聞いたんだ。失礼かなと思ったけど、生きていることだけは伝えようと思って。だけど、会うかどうかは古山さんの判断に任せることにしたんだ。だから…正直来てくれるかなって不安だったし、迷惑じゃなかったかなと思っていた。…ありがとう。嬉しいよ、会いに来てくれて。」

 

 その言葉に、「ううん。」と答える。迷惑なわけはないし、こちらにしても生きていることを伝えてくれたのは嬉しかった。下手をしたらそこから足がつく可能性があるというのに、そんな危険を省みず、宗信は晴海のために、伝えることを選んでくれたのだ。

 

「私の方こそ、会ってくれてありがとう…。今、どうしているの?…江田くんは?」

 

 てっきり二人一緒に来るかと思っていたのに、今ここにいるのは宗信だけ。この殺風景な教室にいるのは、たった二人だけ――

 

「古山さん。」

 

 ふいに真剣な表情へと変わり、はっきりとした口調で宗信はこう言った。

 

「俺の話…聞いてくれるか?」

 

 その口調につられるかのように、反射的にコクリと頷く。きっとこれから、とても大事な話をする。そう直感し、晴海は黙って宗信の言葉を待った。

 

「今回のプログラムで、古山さんも、俺も、江田も…たくさんのものを失ったし、たくさん後悔したし、とても辛い思いをした。だから俺は、もう後悔しないように、古山さんに伝えておきたいことがあるんだ。」

 

 そう言って、少しの間沈黙が流れる。宗信は一回深呼吸してから、しっかりと晴海の目を見つめ、はっきりとした口調でこう口にしていた。晴海にとっては、あまりに意外すぎる言葉を。

 

「俺は、ずっと前から、古山さんのことが、誰よりも好きだ。」

 

 そう言われた瞬間、頭の中が真っ白になる。だから言われたことを、すぐに認識できたかどうか分からない。それほどまでに嬉しかったし、何よりも信じられなかったから。

 

「ずっと…言えなかった。古山さんに相応しいかどうか自信がなかったし、俺よりももっといい人はたくさんいたから、告白して迷惑なんじゃないかって思っていた。それに、本当なら…今言うべきじゃないかもしれない。世間では俺は死んでいる存在だし、生きていることがバレたら…多分殺される。それに、古山さんを巻き込みたくないのも事実だ。けど、これからどうしたいかって考えたときに、一番に思うのは…古山さんの傍にいたい。近くにいて、できる限り守りたいってことなんだ。俺の身勝手で、我がままな気持ちだってことは分かっている。けれど、古山さんの好きな気持ちは本物で、誰にも負けないくらい強いんだ。」

 

 流れる洪水のように、宗信はどんどん言葉を発していく。その一言一句聞き洩らさないように、晴海はじっと宗信の言葉に耳を傾けていた。

 

「本来なら、俺はこの国にいてはいけない存在だ。海外に行くのが一番いいと思う。けど…それは、俺自身が嫌なんだ。この国に残って、この国でしかできないことをやりたい。きっと、俺みたいな人間でも、できることはたくさんあると思うんだ。だから俺は、この国に残る。そう決めたんだ。」

 

 言いたいことを言い終えたのか、宗信はそこで大きく一度フーッと息を吐く。しかし、言っていることに違和感を覚えたのか、すぐに慌てて訂正していた。

 

「も、もちろん、これは俺の気持ちだから、全然拒否してもらってもかまわないんだ。ただ…この気持ちだけは、伝えておきたかったから…」

 

 そう言って、宗信は少しだけ顔を赤くしながら、口をつぐむ。次に何を言ったらいいのか、どうしたらいいのか、迷っている様子だった。

 言うべきことは決まっていた。返事はもう決まっていた。宗信に先に言われるとは思っていなかったけれど、晴海にだって伝えたいことがあったから。

 

「私も…私もなの…。私も、ずっと前から好きだったの。萩岡くんのこと。」

 

 晴海の言葉が想定外だったのか、宗信は「えっ…」と小さく呟いた後、目を丸くしていた。それは、中学生らしいあどけないもの――晴海がよく知っている、いつもの宗信の姿だった。

 

「最初は、ちょっといいなって思ってた。けど…時間が経つにつれてどんどん好きになっていった。どこかって言われたら…上手く言えないけど、でも…萩岡くんを好きな気持ちは本物なんだよ。プログラムが終わって、死んだって聞かされて、最初は忘れようって思った…この気持ち。でも…できなかった…。だって、この気持ちは、たった数カ月で忘れされるほど軽いものじゃなかったんだもん…。だから、いつかきちんと気持ちの整理がつくまで、持っていようって決めたんだ…。だから…だから…」

 

 次第に涙がこみ上がってくる。少しずつ、言葉尻がはっきりしなくなっていく。それでもまだ言いたいことはあったから、必死で言葉を紡いでいた。

 

「嬉しいんだ…。萩岡くんが生きていたことも、こうやって私に会いに来てくれたことも…、好きだって言ってくれたことも…。私ね、今日萩岡くんに会ったら、気持ち伝えようって決めていたんだ。たとえ両想いになれなくても、気持ち伝えようって決めていたんだ。それとね、もう一つ伝えたかったの…」

 

 堪え切れない涙が、頬を伝っていく。今の自分の姿は、きっととてつもなくみっともないだろう。涙に濡れてぐしゃぐしゃな顔をしているだろう。けれど、そんなことはかまわない。言いたいことを言う――それができたのだから。後悔は一切なかった。だから、最後に言うべき言葉も、はっきり口にすることができた。

 

「生きていてくれて…会いに来てくれて…。…好きになってくれて、ありがとう…。」

 

 そう言いきった途端、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。その涙を止める術が分からず、晴海はそのまま俯いていた。次第に嗚咽がこみ上げてくる。その涙は、決して嬉しさだけからくるものではない。もっと複雑に絡み合った気持ち――言葉では説明することができない、様々な感情が入り混じった涙だった。

 

 生きている――自分と、宗信と、江田大樹は生きている。けれど、三十五人の他のクラスメイトは生きていない。果報者だと思う。自分は生きていて、好きな人も生きていて、両想いになれて、これ以上ないくらい果報者だと思う。けれど、嬉しさの中に、罪悪感や申し訳なさが存在していたのも事実だった。

 

 そっと肩を掴まれ、思わず顔を上げる。すぐ目の前には、宗信が立っていた。泣いている晴海を見つめながら、嬉しそうな――けれど辛そうな、申し訳なさそうな、そんな複雑な表情をしている。

 

――あぁ…きっと同じ気持ちなんだ…

 

「俺の方こそ…ありがとう…」

 

 そう言って、宗信はそのまま晴海の身体を引き寄せてくれた。両腕で、しっかりと晴海のことを抱きしめてくれる。少しばかり逞しい腕で包んでくれて、優しく背中を撫でてくれる。宗信に触れている部分からは温かい体温が伝わってきて、生きていることを実感させてくれる。その全てが愛おしくて、また涙が溢れ出すのが分かった。

 

――良かった…。私、言えたよ…。萩岡くんのこと、ちゃんと好きだって確信持って言えたよ。きっと、きっと…喜んでくれるよね…?

 

 ふいに、身体が引き離される。一瞬驚いて宗信を見ると、真剣な表情で晴海のことを見つめていた。晴海の肩に両手を置いた状態で、何も言わずに、ただじっと晴海のことを見つめていた。その真っすぐな眼差しから、目を逸らすことができない。まるで金縛りにでもあったかのように身体が動かずに、ただその瞳に吸い寄せられているだけ――

 

「晴海。」

 

 初めて呼ばれる、自分の名前。今まで何度も人から呼ばれているのに、今までとは違う響きを持っている。まるでとても綺麗な音楽であるかのように、その言葉には美しい響きがあった。自分の名前が、こんなにも綺麗だと思ったことはない。ただ宗信が名前を口にしてくれただけで、心臓が高鳴るのを感じた。

 そのまま、宗信が一度だけ、晴海の髪をゆっくりと撫でてくれる。その手は、プログラム以後決して伸ばすことのないショートカットの襟足に触れた部分で止まった。少しの間、時が止まるのを感じる。

 

――もしかして…こ、このまま…キスとかするんじゃ…!

 

 しかし、止まった時は思わぬ形で動き出した。

 

 コンコンと二回、小さくノックする音が響く。

 

「俺がいること、忘れているだろ?」

 

 その言葉には、聞き覚えがありすぎた。

 

「江田くん?」

 

 すると、後ろにあるドアから野球帽を深く被った一人の人物が現れた。教室に入った途端、その人物はすぐに野球帽を取る。プログラム時よりも少し髪が伸びているが、それが大樹であることはすぐに分かった。やれやれといった様子で、少々呆れた表情をしている。

 

「…ったく。“告白するから待っててくれ”っていうから素直に待っててやったのに、OKもらって完全に浮かれていただろ。正直、このまま帰ってやろうかと思ったぞ。」

 

 そんな大樹の悪態に、「悪りぃ。」と宗信は返していた。二人の間には、まるで十年来の友人を相手にするかのような、そんな親しげな空気が流れていた。

 

「久しぶりだね、古山さん。思ったよりも元気そうで安心したよ。」

 

 そう言って、大樹は視線を宗信から晴海に移し、笑顔を向けてくれていた。晴海は、「うん。江田くんも元気そうで良かった…。」と笑顔でこう返す。今ここにいる大樹も、プログラム時よりも随分大人っぽくなったように感じた。

 

「もう…あれから、九か月も立つのか…。」

 

 大樹はそう小さく呟くと、すぐ近くにある横山広志の席へと腰かけていた。それに習うかのように、晴海も宗信も、それぞれ近くの席へと腰かける。

 

「色んなこと…ありすぎたな…」
「うん…」

 

 それから、しばしの沈黙が流れる。プログラムでそれぞれ何が起こったか、正確には知り得ない。晴海の知らないところで、宗信も大樹も辛い思いをしたに違いない。十五歳が抱えるには、あまりには残酷な現実。

 けれど、同時に分かっている。ここにあるのは、“絶望”だけではない。少なくとも、互いの存在が“希望”となっている。一緒にいることは叶わないだろうけど、生きている人がいる。

 

――私は、一人じゃないんだ…。

 

 その事実がどんなに救われることか。今の晴海には痛いほどに分かっていた。

 

「俺は…海外に行こうと思う。」

 

 沈黙を破るかのように、大樹が口を開いていた。

 

「海外に行って、色んなことを知ろうと思う。この国のことも、他の国のことも。それで、いつかこの国に戻ってきて、中から変えていく。武力行使じゃなくて、なるべく人が傷つかないような方法で。多分、時間はかかると思う。けれど…どんなに時間がかかっても、俺はそれをやり遂げたい。それが、広志の願っていたことでもあるから…」

 

 そう言って、大樹は自身が座っている席の机を一度だけそっと撫でる。きっとその机の持ち主は、今の大樹の言葉を聞いて喜んでいるような気がしていた。何となくだけど、確信的に。

 

「けど…やっぱり最後にここに来たかった。プログラムに選ばれなくても…もう別れの季節だから。みんなにちゃんと“さよなら”をしてから、前へ進もうって決めていたんだ。」

 

 そうはっきり告げた後、大樹は教室を見渡していた。自然と、晴海と宗信も同じ行動を取る形になる。

 

 何度思ったか分からない。プログラムに選ばれなかったらと――

 

 きっと、もっとたくさんの思い出が出来ただろう。部活で切磋琢磨して、中体連に向けて必死で練習して、もしかしたら活躍できたかもしれない。体育祭でクラス一致団結して、もしかしたら学年で一番になれたかもしれない。受験に向けて必死で勉強して、残り少ない日々を満喫できたかもしれない。矢島楓との友情だって、もっと深めることができたに違いない。

 そして――プログラムに選ばれなくても、大半のクラスメイトと別れることになっていただろう。同じ高校に進む人だっていただろうし、卒業しても付き合っていく人だっていただろう。けれど、“別れ”の季節であることは確かなのだ。

 それぞれが、それぞれの道を行く。自分の足で踏み出していき、決して振り返ることなく――

 

――私は…?

 

 宗信も大樹も、これからどうするか決めている。それぞれの道を、歩き出そうとしている。けれど、自分はどうだろうか。これからどうするか、きちんと決めているだろうか。新しい環境に慣れていくのに必死で、そこまで明確に考えていなかったのではないか。そう気付いた途端、なんだか急に恥ずかしくなった。

 

「そのままでいいよ。古山さんは。」

 

 そんな晴海の気持ちを察したのか。大樹が、優しく声をかけてくれた。

 

「古山さんは、そのままでいいと思う。これから色んなことが起こって、次第に変わっていくんだと思う。それにさ…」

 

 そこで一度だけ、大樹は言葉を切った。少しだけ言いにくそうに、続きを口にする。

 

「俺が色んなことを知っていくうちに、歪んだ考えを持つかもしれない。間違った方向へと変わってしまうかもしれない。その時きっと思うんだ、古山さんのこと。君が今得られている幸せを壊してはいけないってね。いわばストッパーって言うのかな?俺にとって、古山さんはそんな存在でいてほしいんだ。俺の勝手な気持ちなんだけどさ。」

 

 そう言って、大樹は少しだけ笑ってくれた。少しだけ――

 

「だから古山さんには、幸せになってほしい。生きられなかったみんなの分まで、幸せになってほしい。プログラムで優勝したからといって、幸せになってはいけないなんてことはない。それに…そう思っているのは、多分俺だけじゃないから。」

 

『君が生きることを望んでいてもいなくても、君に生きることを望んでいる“別の誰か”がいるということ。それを、忘れないで欲しい。』

 

――神山くん…

 

 プログラムで彬が言ってくれたこと。この言葉に、一体何度救われたのだろう。彬や、そして楓が望んでくれたように、自分は生きているだろうか。二人の思いを、無駄にしてはいないだろうか。

 きっと、これから生きていく上で、色んなことがあるだろう。今よりもっと辛いと思うことだってあるかもしれないし、逃げ出したくなるときだってあるかもしれない。たくさん傷つくだろうし、悲しい思いだってきっとする。けれど、時には立ち止まりながら、乗り越えていき、前に進まなくて行けない。そして――できることなら、たくさん笑っていたい。

 それが“生きること”で、二人が望んでいることだと思うから。

 

「俺も、同感だな。」

 

 隣に座っている宗信が、そう言ってくれている。その言葉に、自然と笑顔がこぼれる。自分には味方がいる。生きることを望んでくれている味方がいる。それだけでも、救われるような気持ちになっていた。

 

「おいおい。お前の場合は、“幸せになってほしい”んじゃなくて、“幸せにする”んだろ?」

 

 やれやれと呆れた様子で、大樹が宗信に向かってこう告げていた。

 

「そのために告白したんじゃなかったのか?こっちに残るんなら古山さんのこと、幸せにしてやれよ。それは宗信、お前にしかできないことなんだからさ。」

 

 まったく世話の焼ける奴だと言わんばかりに、大樹は大きく溜息をつく。けれど、その表情はほころんでおり、どこか嬉しそうな、そんな穏やかな表情をしていた。

 そんな大樹の言葉に、宗信は「あったり前だろ。大樹。」と返していた。いつのまにか名前で呼び合うようになっていた二人のやり取りは、随分長い付き合いの友人同士がするようなものに見えた。晴海の知らない九か月の間に、きっと二人の仲は深まったのだろう。それが、何だかとても嬉しく思えた。

 

 晴海は思った。プログラムで失ったものは、あまりにも多すぎた。それはどんなに願っても、もう取り戻せない。けれど、宗信と大樹を見ていると、得たものもあるかのように思えた。代償としてはあまりに大きすぎたけど、残っているのはそれだけではない。“絶望”だけではない。

 

――大丈夫。きっとそうだよね。

 

 そのとき、ふいに大樹が立ち上がる。座っていた椅子を元に戻して、教室を出て行こうとしていた。

 

「行くの?」

 

 晴海は、勢いのまま椅子から立ち上がり、大樹を引き止める。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。だからこそ、思わず引き止めてしまった。

 

「不器用なお二人さんの恋が成就するのも見届けられたし、なるべく早く行動に移したいから。二人とも、元気でな。」

 

 そう“別れ”の言葉を口にする大樹と見て、思わずこう問いかけていた。

 

「また…会えるよね?」

 

 本当に会えるかどうかは分からない。もしかしたら、二度と会えないかもしれない。けれど、今大事なのは、嘘でもいい、果たせなくてもいいから“約束”することだった。先の未来に少しでも“希望”を残すことだった。この“約束”さえあれば、きっと大丈夫なのだと。

 そんな晴海の気持ちは伝わったかどうかは分からない。けれど、次に大樹は発した言葉は、晴海にとっては十分すぎる返事だった。

 

「会えるさ。だって俺達、“仲間”なんだからさ。」

 

 そう言って笑うと、大樹はそのまま教室を出て行った。その足音は、次第に小さくなっていく。

 

――仲間…

 

 その言葉がどれだけすごいものなのか、今さらながら知る。“仲間がいる”、その事実が、自分達を救ってくれている。その事実に、救われている。自分達は――

 

「俺達も、行こうか。」

 

 宗信はそう言うと、すっと立ち上がり、椅子をきちんと戻してから、晴海に向かって左手を差しだしてくれている。晴海も椅子を戻してから、右手でその手をギュッと握りしめた。

 

――大丈夫。

 

 そのままゆっくりと歩き出す。宗信に引かれていくような形で、教室を後にする。

 

――私は大丈夫。

 

 寂しい気持ちがないといえば、それは嘘になる。けれど、前に進むためには、いつまでもここにはいられない。

 

――だって、一人じゃないから。

 

 あと一歩で教室を出る。その手前で二人とも立ち止った。そして、自然と後ろを振り返る。見えないけれど、そこにみんながいるような気がした。見送ってくれているような気がした。

 

 だからこそはっきりと口にする。みんなに向かって、“別れ”の言葉を。

 

「さようなら。」

 

 そのとき、ふわっと優しい風が吹いた。春の訪れを予感させるような――優しくて温かい風。返事は聞こえなかったけど、それだけで十分だった。

 少しだけ、繋がれている右手をギュッと握りしめる。それだけで、宗信がこちらを向いてくれる。優しく微笑みながら、宗信はその手をギュッと握り返してくれた。

 

――あなたがいれば、それだけできっと…私は幸せだよ。

 

 そして、そのまま教室を出て、ゆっくりと歩き出す。決して振り返らずに、二人とも真っすぐに歩いていく。

 

 生きていこう。どんなに辛くても、私は生きていこう。

 逃げ出したくなるときがあっても、振り返りたくなるときがあっても、前へ進んでいこう。

 私に生きることを望んでくれた人のためにも、望んでくれている人のためにも、自分らしく生きていこう。

 そう――決めたのだから。

 

〜Fin〜

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