一人のものではない命

 古山晴海(女子5番)は、萩岡宗信(男子15番)が湖に落ちた途端、なりふり構わず走りだした。

 

――萩岡くんを助けなきゃ!!

 

 今の晴海には、そのことしか頭になかった。他のことには一切構わなかった。自分の命がどうとか、そんなことは頭の中から完全にぶっ飛んでいた。だからこそ、江田大樹(男子2番)の制止の声も、文島歩(男子17番)が自分に向かって引き金を引いたことも、その銃弾が自分の髪を切り離してしまったことも、晴海はまったく認識していなかった。

 

――絶対助ける!!

 

 そう決意すると、躊躇することなく湖に飛び込んだ。冷たい水の感覚が、容赦なく晴海を襲う。まともに見えない視界の中で、急いで宗信の姿を探す。すぐに見つかった。

 宗信は、浮かびあがろうと必死でもがいている。けれど、それはかえって逆効果なのだ。現に、身体はどんどん下へと沈んでいっている。一刻の猶予もない。そう思った。

 

――待ってて!今引きあげるから!

 

 すぐに平泳ぎの要領で、宗信へと近づいていく。焦る気持ちを必死に押さえ、少しずつ距離を詰めていく。慌ててはいけない。ここで晴海まで焦ったりすれば、二人とも沈んでいってしまうのだ。

 宗信は、まだ晴海には気づいていない様子だった。一種のパニック状態に陥っているのだろう。そうしている間にも、少しずつもがく力が弱くなっている。

 

――早くしないと!!

 

 少しだけ速度を上げ、宗信の元へと泳いでいく。今さらながら、テニス部じゃなくて水泳部に所属していればよかったと後悔したが、そんなことを思っても仕方がない。とにかく、今は持てる力を全部使い切ってでも、宗信を助ける。そのことだけしか考えないようにした。

 

――こっちに気づいて!!

 

 宗信がこちらに気づくことを願いながら、確実に距離を縮めていく。あと十メートル、八メートル、六メートル…

 そのとき、宗信の顔がこちらを向いた。ようやく晴海の存在に気付いたのかと安堵したが、それはほんの一瞬の出来事だった。

 

 その次の瞬間、宗信はゴポッと息を吐き――完全に動かなくなったのだ。

 

――萩岡くんっ!!

 

 グッと両足を蹴り、宗信の元へと辿りつく。沈んでいく宗信の身体を、慌てて両腕で支える。宗信は完全に目を閉じ、ぐったりとして動かなくなっていた。おそらく水を大量に飲んでしまい、気を失っているのだろう。そう――信じた。

 

――すぐに引き上げて、人工呼吸をすれば…絶対助かる!!

 

 そう考えると、宗信の身体をそのまま両腕に抱え、水面に浮上しようと上へと方向転換し、必死で足を動かし始めた。

 

 けれども、身体は中々上へと上っていかない。人一人抱えている上に、晴海は防弾チョッキを着たままなのだ。湖から上がるには、それ相当の体力が必要。そんなことは、晴海にもよく分かっていた。

 それでも、晴海は決して諦めようとはしなかった。生きて帰らなくていけない。宗信の共に生きて帰らなくていけない。死んでしまっては、みんなの気持ちが無駄になってしまう。矢島楓(女子17番)が守ってくれたことも、神山彬(男子5番)の願いも、藤村賢二(男子16番)の犠牲も――何もかもが無駄になってしまう。

 

――もう、私一人の命じゃない!!

 

 大樹が言っていた通り、もう自分だけの命ではない。勝手に死ぬことなど、許されるわけがない。どんなに辛くても、生きていかなくていけない。生きたくても生きられなかった――他のみんなの分まで。

 

――お願いだから…!今だけでいいから、萩岡くんを助けられるくらいの力を下さい…!お願いだから…神様…!

 

 いるかいないか分からない神様に向かって、必死で祈る。最初で最後の、一生に一度の願い。これが叶うのなら、何でもするから。だから今だけ。今だけいいから。大切な人を守る力を。生きている人を救う力を。もう二度と、大好きな人の命が失われることのないように。

 その願いが届いたのか、少しずつ水面が近付いてくる。必死で身体を上へと持ち上げていく。けれども、晴海の体力も限界に近かった。身体が水面に浮かぶのが先か、晴海の体力が尽き、二人とも沈むのが先か――

 

――あと少しなのに…。もう少し…なのに…

 

 両腕に抱えていた宗信の身体を、右手だけで抱える形にし、左手を水面に向かって必死に動かす。とにかく、陸に手さえつけば、左手だけでも水面から出れば、きっと大樹が引き上げてくれる。とにかく、この手だけでも届けば――

 

 必死にもがいていたそのとき、誰かの手が湖の中に入ってきた。勢いよく手を入れたのか、大量の泡が視界全体に広がる。その手を、晴海は必死な思いで掴んだ。掴んだと同時に、身体が思いっきり上へと引っ張られる。あまりの力の強さに、宗信の身体を離してしまいそうだった。

 

――江田くん…?けど、こんなに力あったの?

 

 そのまま、晴海の上半身が水面から出る。すぐにその人物は、晴海の左手を湖の縁の地面へと掴ませてくれた。そして、その人物はそのすぐ後に宗信の身体を引き上げてくれたようで、右手にあった宗信の身体の感触はなくなっていた。陸に両手を起き、ゼェゼェと呼吸を整える。そのまま、晴海は自力で湖からはい上がった。陸に上がった途端、ドッと全身から力が抜け、地面に仰向けに倒れる。視界には、雲に覆われた灰色の空が広がっていた。

 

――良かった…。萩岡のこと…助けられたよ…。二人とも助かったよ…

 

 そのとき、視界に広がる空を遮る形で、一人の人物が入りこんだ。てっきり大樹かと思ったが、それは違うとすぐに分かる。しかも、あまりにも意外な人物だったのだ。

 

「く…栗井…せんせ…?」

 

 そこには、晴海達の担任であり、今は担当教官である栗井孝がいた。どうして、担当教官である栗井がここにいるのか。どうして、自分達を助けてくれたのか。そんな疑問が次々と浮かんでは、頭の中に積もっていく。

 

 けれど、晴海がそれを口にする前に、栗井は静かにこう告げた。

 

「古山。もう…終わったんだ…。」

 

 何のことを言っているのか、晴海にはまったく理解できなかった。

 

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