一歩踏み出す勇気

 崖の下に広がるのは、大きくうねる波。天気は悪くないはずなのに、なぜか台風のように荒れている海。それはきっと今の悲惨な状況を示している。

 

――ここまで来れば、邪魔は入らないわよね。

 

 芹沢小夜子(女子7番)は、エリアF-7にいた。学校を出てから、どこに行こうかと悩み、このエリアに足を運んだのだ。その目的は、パートナーともいえる友人岸田育美(女子4番)を探すためではない。

 

――育美、怒るかな…。こんなことしようとしてるなんて。

 

 学校を出たとき、育美が待っているかと思ったが、それはなかったようだ。けれどそっちのほうが都合がいい。待っていたら、どうしようかと思っていたから。一緒には、決していられないので。

 

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

『いっぽーん!』

 

 あれは冬の新人戦のこと。晴れてレギュラー入りを果たした小夜子と育美は、ダブルスの試合で必死でシャトルを追いかけていた。コートを縦横無尽に駆け回り、ラケットを振るってはシャトルを相手に打ち返す。汗も気にならないくらい、二人とも集中していた。相手は何度も練習試合をした見知った相手。勝ったこともある。練習も一生懸命やったし、いつも通りやればおそらく勝てる試合だった。けれど…

 

『ゲームセット!』

 

 試合終了を告げる審判の声。その瞬間、小夜子はコートにバタンと倒れこんだ。仰向けに倒れると、体育館のライトが眩しくて思わず目を細める。倒れた身体に襲うのは疲労感と脱力感、それと―敗北感。そう、相手に負けたのだ。

 

――あんなに練習したのに…負けちゃった…。

 

 思わず泣きそうになる。これが最後というわけでもないのに、むしろこれからもっと練習すればいいのだからと思えばいいのに、涙は勝手にたまっていく。腕で目を覆っても、歯を食いしばっても、涙は止まらない。悔しいのだ。だって負けず嫌いなんだから。

 

『小夜子…。』

 

 頭上から声がふってくる。顔を見なくったって育美だってわかった。だって一年のときからのパートナーで、一番の友人なのだから。

 

『気持ち分かるけど…最後の挨拶しなきゃ。』

 

 育美の言葉で、涙をぬぐう。こういうときだけ、育美がやけに大人っぽく見える。めったに人前で泣かない育美は、小夜子の目から見ればとても強い子に見えた。羨ましいくらいに。

 

『ありがとうございました。』

 

 何とか挨拶を終え、コートを後にする。コートのあるフロアを出て、学校別に割り当てられた席へと向かう。完全に脱力した状態で、顧問の激励の言葉も、後輩の気遣いも、まるで耳に入っていなかった。涙を止めようと歯を食いしばり、何度も目をこする。それでもこらえきれない。このまま声を上げて泣きたかった。抱え込んでいる感情を全て吐き出してしまいたかった。けれどもそれをしてしまえば、周りに迷惑をかけてしまう。

 

――どこかでひっそりと泣けば、誰にも迷惑かけないよね。

 

 そう思い、席から一番遠い小さなトイレへと向かう。誰かに見られないように注意しながら移動し、トイレへとこっそり入る。入り口から右手の方に個室が二つある程度の、本当に小さなものだった。

 一応誰かいないか確認する。一つの個室は開いていて、一つは閉じられていた。どうしようかと思っていると、ふいに声が聞こえたのだ。

 

『う…うぅ…』

 

 誰かが泣いている。小夜子と同じように、試合で負けて悔しいのだろうか。私だけじゃなかったんだ、と少しばかりホッとしたが、次の瞬間涙が止まるほどびっくりした。

 

『悔しいよ…。小夜子と…あんなに練習したのに…。』
『育美?!』

 

 小夜子が名前を呼んだ瞬間、泣き声はピタリとやんだ。

 

『小夜子…。』

 

 消え入りそうな声で、育美が答える。その声は、先ほどの大人のようにしっかりしたものではなく、小さな子供のような頼りない、小さなもの。めったに見せない一面に、戸惑いを隠せなかった。

 

『ごめん…。もっと私が上手く返せていたら…。あんなに練習したのに…、ごめんね…。』

 

 ミスをせめる育美に、小夜子は何も言えなかった。育美のせいじゃないのに、小夜子自身だってたくさんミスしたのに…。

 

『違うよ…。私がもっと相手に打たせないようなスマッシュを返せていたら…。』
『ううん…。私がもっとシャトルを落とさないように気をつけていれば…。』
『育美のせいじゃないよぉ…。私がもっと…』

 

 顔を合わせずに、ただ責任を感じながら、お互いに自分をせめる。次第に二人の声に嗚咽が混ざり、言葉尻もはっきりしなくなる。涙が勝手に溢れ、視界がぼやけて何も見えない。けれども、それすら気にならなかった。

 

『ごめんねぇ…。』
『ううん、うちこそごめんねぇ…』

 

 ついには言葉すら発せずに、ただ泣き声だけがこだましていた。二人の悔しさがにじみでるような、絶え間ない嗚咽が混じり合ったものだった。これからもっと練習して、次こそは勝とうと誓い合った、最初で最後の涙だった。

 

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 ほんの半年ほど前の話。夏にある中体連に向けて、二人とも必死に練習していたはずだった。まさか出場すらできないなんて、夢にも思わなかった。プログラムに選ばれるなんて、思ってもいなかったから。

 

――でも、選ばれてしまった。

 

 優勝者は一人だけ。育美と二人で戻ることはできない。もし仮に小夜子が優勝できたとしても、育美はいない。大事なパートナーは、もうこの世にはいない。

 

――育美がいないなんて…。私には耐えられないよ…。

 

 だから決めたのだ。優勝する気がないのなら、今ここで命を断とうと。誰かに手にかかる前に、自らの人生に幕を下ろそうと。だから、こんな崖までやってきたのだ。

 

――こんなことなら、教室で私の首輪を爆破してくれって言えばよかったな…。そしたら里山君は死なずにすんだのに…。藤村君、あんなに悲しい思いしなくてよかったのに…

 

 教室で死んでしまった里山元(男子8番)に心の中で謝罪する。そして、藤村賢二(男子16番)にも。

 

――藤村くん、大丈夫かな。学校の前で松川くんが待ってたみたいだけど、松川くんちょっときついとこあるからなぁ。喧嘩とかしなきゃいいけど。まぁ佐野くんとも合流するだろうし、上手くやっていってほしいな。

 

 そう考えると、少しばかり苦笑した。あぁ、まだ好きな人のことを心配できるんだなって。少しばかり賢二に好意を寄せていたなんて、絶対本人は気づいてなかっただろうけど、それでも、淡い恋心は抱いていたのは事実だ。告白なんて恐れ多いし、正直同じクラスってだけで嬉しかった。だからこの恋は、きっと永遠に打ち明けることはなかっただろう。小夜子だけが知っている、秘めた想いのまま。

 

――早くしないと、誰かが来るかも。

 

 少しばかり、焦りを感じた。別に気配を感じたわけでもないのに、何かに追い立てられるような感覚がした。せっかく命を絶つと決意したのだ。その決意が揺らぐ前に、実行に移さなくては。

 教室でもらったデイバックを持ち上げ、崖の下へと放り投げる。あっという間に、荒れ狂う波に飲み込まれていった。

 

――次は、私だ。

 

 そう思い、崖の先へと一歩踏み出そうとした。足を持ち上げ、その先の空中に踏み出す。たったそれだけでバランスを崩し、身体は海へと落ちていくだろう。そうすれば、全てが終わる。

 

――踏み出せばいい。一歩、一歩だけ…

 

 しかし、意に反して身体は動かない。まだこの世に未練があるのか。プログラムに参加したくないなら、今ここで死ななくてはいけないのに。

 

――今、今じゃなきゃ。後でだったら意味がない。

 

 だって誰も殺したくないから。みんなの死なんて知りたくないから。誰かが誰かを殺しているなんて知りたくないから。自分のままでいたいから。だから、だから―

 

――私を、終わらせなきゃ。

 

 ガサッという草を踏み分けるような音が聞こえる。誰かが来ている。近くにいる。

 

 もう、考えなかった。

 

 一歩踏み出す。そのことをすぐに実行した。小夜子の身体は、ゆっくりと前に倒れていき、支えていたもう一方の足が地面から離れた。そして頭を下にして、ゆっくりと落下していった。大きくうねる波という、荒れ狂う怪物に向かって。

 

 小夜子のいた場所に、一人の人物が走り寄る。その人物が崖から海を覗き込んだときには、ただ波がザーザーと暴れているだけだった。

 

女子7番 芹沢小夜子 死亡

[残り34人]

next
back
試合開始TOP

inserted by FC2 system