たった一つの小さな願い

 抱えている香山ゆかり(女子3番)の息は荒い。藤村賢二(男子16番)は、とにかく必死で走り続けた。

 

――とにかく…とにかく文島から離れないと…!

 

 賢二自身も、まともに走れる状態ではない。走るたびに痛む右足に鞭を打ち、ただただ必死で動かす。本来なら、走るどころか歩くことすら禁じられるほどの傷だろう。けれど今は、自分のことよりもゆかりのことで頭がいっぱいであった。たとえ足がぶっ壊れても、二度と歩けなくなったとしても、走ることを止めるわけにはいかなかった。

 

――俺の…俺のせいで…

 

 自分が人を殺さなければ、殺したところを文島歩(男子17番)に見られていなければ、ゆかりと会わなければ、ゆかりに隠し事などしなければ、あの時躊躇わずに嘘をついていたら、こんなことにはならなかった。関係ないゆかりが傷つき、自分はおめおめと生き延びている。どうして、どうして――

 

「ふ、藤村…くん。」

 

 苦しそうな様子で、それでも何かを言おうとするゆかりに気づき、賢二は急いで足を止めた。

 

「多分、もう…追ってこないよ…。神山くんなら…こっちに来させないようにしてくれているだろうし…。とりあえず…下ろして…くれないかな?」

 

 そう言われ、後ろを振り返る。確かに誰かが追ってくる様子はない。それに、ゆかりにとってもこの体勢はきついのかもしれない。賢二は、言われた通りに地面に下ろすことにした。

 比較的草木の生えていないところを選び、ゆかりに負担がかからないようにゆっくりと下ろす。白日の元に晒されると、改めて目についてしまう傷の深さ。気づけば賢二のカッターシャツには、ゆかりの真っ赤な血がべっとりとついていた。

 

「…大丈夫か?」

 

 本当は分かっている。大丈夫ではないことくらいは。でも、他に何と言っていいのか分からない。言うべきことが多すぎたからかもしれないし、言うべきことを口にはできなかったからかもしれない。とにかく、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 

「藤村くんこそ…大丈夫…?足、撃たれたんでしょ…?」

 

 ゆかりの言葉に、思わず首を振る。どうして、賢二の心配などするのだろうか。どうして、自分のことを顧みないのだろうか。どうして、何も聞こうとしないのだろうか。どうして、何も触れてこないのだろうか。

 

 どうして――歩の言っていたことに関して、賢二を責めたりしないのだろうか。

 

「香山さん…ごめん…。俺…俺…」

 

 今度は、自然と口から謝罪の言葉がこぼれ出る。けれど、“何”に対して謝ればいいのだろうか――

 

 人を殺したことを黙っていたことだろうか

 親友の荒川良美(女子1番)を殺してしまったことだろうか

 君を庇えず、ひどい傷を負わせてしまったことだろうか

 

 多すぎた。ゆかりに謝るべきことは、たくさんある。どれも謝罪すべきなのだろう。けれど、それ以上口に出すことは出来なかった。

 そんな賢二を寂しそうな目で見つめた後、ゆかりが静かに口を開く。

 

「私…藤村君に…謝らなくちゃいけないこと…あるの…」

 

 思わぬ一言に、ゆかりを凝視する。ゆかりが賢二に謝ることなど、何一つない。むしろ賢二に対して、文句や恨み言の方が、たくさんあるに違いないのに。どうして、そんなことを言うのだろうか。

 けれどゆかりの言葉に、そう返事することすらできなかった。ゆかりがスカートのポケットから何か端末のようなものを取り出すのを、賢二はただ黙って見ていることしかできなかった。

 

「私の…本当の武器は…これなんだ…。」

 

 そう言って、その端末を賢二の方へと差し出す。訳が分からずに、賢二はそのままそれを受け取った。

 

 大きさは、手の内にギリギリ治まる程度。旧式ゲームボーイみたいな感じだろうか。ずっしりと重いその端末の表面は、液晶が三分の二ほど、その下には三つのボタンがついているだけの簡素なものだった。液晶は真っ黒のままで、電源すら入ってないことを示している。

 ゆかりがゆっくりと手を伸ばし、端末の左横に付いているボタン――おそらくスイッチだろう、それを動かし電源を入れた。真っ黒な画面に、少しばかり眩しい光が差す。少ししてから、画面には地図のようなものが現れた。画面の中央に、ダブるような星マークが二つ。

 

「探知機っていうの…。画面に表示される星のマークは、私たちを示している…。着けている首輪に反応して…居場所が分かるようになっているんだ…。ただ…誰かまでは…分からないんだけどね…。」

 

 つまり、このダブるような二つの星マークは、賢二とゆかりのことを示している。そして、他に同じマークがないということは、近くに誰もいないことを示しているということになる。そこでゆかりがこれまで誰にも遭遇せずに、かつ何事もなく過ごしてこれたのは、この端末の存在があったからだと分かった。

 しかし、なぜゆかりはこれを隠していたのか。こんな便利な代物を隠す理由が分からない。この端末そのものに、何か害があるわけでもない。どうして言わなかったのか、それを聞こうと思った。そのときだった。

 並んでいる三つのボタン。それぞれに何か文字の表記があるのを見つけた。中央のボタンには“地図”。そして左端のボタンには書かれていたのは――

 

“退場者”

 

 恐る恐るそのボタンを押す。すると画面がパッと切り替わり、何か表のようなものが現れた。

 

 その表の一番上、左側には“加害者”、右側には“被害者”と表記されている。そしてその下には、何人ものクラスメイトの名前が、それぞれ対を成す形でズラッと並んでいた。どうやら退場した――つまりは死んだクラスメイトが、誰に殺されたかを示しているらしい。そして見る限りでは、上から新しい情報となっているようだった。なぜなら“被害者”の上二人、間宮佳穂(女子14番)横山広志(男子19番)は、まだ放送で名前が呼ばれていないのだから。この表によれば、残りはもう八人。

 一度会った広志が、知らないところで死んでいることにも驚きを隠せなかったが、それよりも気になることがあった。これを持っていれば、誰が誰に殺されたか、つまりは誰がやる気かどうかが知ることができるのではないか。それが示すことは――

 ふと視線を落とすと、並んでいる三つのボタンの右端。まだ押していないそれに、目を奪われた。

 

“順位”

 

 ゴクリを生唾を飲み込みながら、そのボタンを押す。すると画面は再び切り替わり、先ほどと同じ表が出てきた。

 

 その画面を見た瞬間、賢二は目を見開いた。

 

 先ほどと同じように、左側が“加害者”、右側が“被害者”となっている。しかし“加害者”に対して、“被害者”の名前が多すぎる。そして、その“加害者”の名前の一番上には“藤村賢二”と表記されていた。その右側には、確かに賢二が殺した七人の名前が書かれてあった。

 つまり、これは殺した人数が多い順に並んでいるのだ。半ば予想していたことではあるが、賢二の名前が一番上にくるということは、このクラスの中で一番殺害人数が多いということになる。続いて日向美里(女子12番)が四人、矢島楓(女子17番)が三人となっていた。

 

 思わず端末を持っている左手に力が入る。そう、ゆかりは、最初から――

 

「知って…いたのか。俺が、荒川さんを含めて…七人殺していることを。」

 

 もう隠す必要はない。確実な証拠がここにあるのだから。そして、これを賢二に見せたということは、もうゆかりも隠さないことを決めたのだろう。

 

 賢二の言葉を肯定するかのように、ゆかりが首をゆっくりと縦に動かした。

 

「どうして…」

 

 その動作を認識した途端、自然と言葉が口からこぼれ出た。

 

「どうして俺を助けたんだ!親友の荒川さんを殺したんだぞ!香山さんには責められるべきなんだ!それに、どうしてさっきは俺を庇ったんだ…。俺には…そんな資格…ないのに…」

 

 分からない。どうしてゆかりが探知機を隠してまで、賢二と一緒に行動しようとしたのか。どうして賢二を助けたりしたのか。そこまで親しくなかったはずだし、そこまでされるほどの恩があるとも思えない。本来ならば、賢二が眠っている間に、殺されてもおかしくないのだ。

 

 次々と疑問が浮かんで、完全に混乱している賢二に向かって、ゆかりは小さく微笑んだ。どうしてこんな状況で、そんな穏やかな表情ができるのか、賢二には分からなかった。そして、ゆかりがゆっくりと口を開く。

 

「ずっと…藤村くんのこと…好きだったんだ…」

 

 一瞬、何と言われているのか本当に分からなかった。――好き?賢二に対して、そんな感情を抱いていたとでもいうのだろうか。

 

「どうして…」

 

 その告白ともいえる言葉に対する返事は、疑問だった。もっと他に言うべきことがあるというのに。“ありがとう”だとか“嬉しい”だとか、ゆかりを喜ばせるような気の利いた言葉が出てこない。こんなとき、他のみんなならどうするのだろう。

 

 ゆかりが眉を寄せ、少しだけ困ったような顔をする。そして再び口を開き、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「どうしてって…言われても…上手く説明できないよ…。ただ、私は…ずっと、ずっと前から…藤村くんのことが好きだったんだ…。だから、ずっと…会いたかった。良美が死んだってわかったとき…最初はどうしようって思った。でも、どうしても、藤村くんのこと…恨めなかった。良美の仇を取りたいとか…思えなかった…。何か理由があるって、そう…信じたかったの。きっと…里山くんが…あんなくじで選ばれたせいだって…。」

 

 苦しそうに言葉を紡ぐゆかりに、賢二は何も言えなかった。そんな賢二にかまわず、ゆかりはそのまま続きを口にしていた。

 

「ごめんね…。私が選ばれていれば…里山くんは死なずにすんだのに…。」

 

 謝罪の言葉を口にするゆかりに向かって、賢二は大きく首を横に振った。それは違う。絶対違う。ゆかりのせいではないのに。

 

――香山さんのせいじゃないんだ。あんなくじを作った政府の奴らが悪いんだ。でも…それで香山さんを含めたクラスのみんなを逆恨みしたのは…事実だ。俺の逆恨みでみんなを殺してしまったのに、香山さんが責任を感じている…。そんな…そんな必要はないのに…。

 

 クラス全員、里山元(男子8番)が死んだことでホッとしていると思っていた。でもよく考えたら――いや、よく考えなくても、そんなわけはないのだ。誰だって悲しんだに違いないのに。

 佐野栄司(男子9番)は、あの時泣きそうな声で『元がいたら…よかったんだけどね…。』と言っていたのに。松川悠(男子18番)だって、口ではあんなことを言ってはいたが、心の中ではきっと悲しんでいたはずなのに。そんなことにも気付かず、ただの逆恨みで、自分の思い込みで、クラス全員を殺そうとした。

 

『けど、あの時悲しんだのはみんな同じなんだ。里山が死んで喜んでいる人間なんて、いなかったんだ。それでも、お前はクラス全員を殺すのか?』

 

 そう――賢二の思い込みこそ、自分勝手なエゴだったのだ。

 

「ごめん…。俺のせいで…香山さんや他のみんなを傷つけた…。香山さんは何も悪くない。香山さんのせいじゃない。悪いのは、俺なんだ…。」

 

 賢二がそう告げると、ゆかりは口の端を持ち上げてにっこりと笑った。それは心から笑っているかのような、嘘偽りなどない、純粋で綺麗な微笑みだった。

 

「良かった…。やっぱり藤村くんは、最初から乗っていたわけじゃなかったんだね…。信じて…会えて…本当に良かった…。これで、心おきなく…天国に行けるね…。良美にも、会ったらちゃんと伝えておくから…」

「死ぬな!香山さん!死んじゃダメだよ!」

 

 でも、本当は分かっている。ゆかりがもう助からないことは。顔面は色白を超えて蒼白だし、身体は寒さに震えるかのように小刻みに震えている。目も、どこか焦点の合わないかのように虚ろだ。もしかしたら、賢二のことすらよく見えていないかもしれない。

 けれど、認めたくなかった。自分のことを好いてくれる女の子が、自分の痛みを分かろうとしてくれた女の子が、もうすぐ死んでしまうという――その事実に。

 

「ふ、藤村くん…お願いがあるの…」

 

 かすかに届く小さな声で、ゆかりが何かを言おうとしている。その言葉をきちんと聞くべく、賢二はゆかりの口元まで自身の耳 を寄せた。ゆかりの口から出される言葉と共に、温かい吐息が賢二の耳に吹きかかる。

 

「私のこと…好きにならなくても…いいから…。だから…一度でいい。一回で…いいから。下の…名前で…呼んで…。ゆかりって…呼んで…」

 

 ゆかりが賢二に願う、最初で最後の願い。それは、プログラムに巻き込まれていなければ、日常の中でならいくらでも叶えられそうな――そんな小さな願い。

 賢二は、ごく自然にそれを口にした。最期の願いを叶えようとか、せめてもの償いだとか、そんなことを考えるまでもなく、賢二自身が最初からそうしたかったかのように。

 

「ゆかり…」

 

 そう口にした途端、ゆかりの目に涙が浮かぶ。微笑みの表情を浮かべながら、スッと一筋の涙を流していた。それは壊れやすい繊細なガラス細工のように――とても綺麗なものだった。

 その表情のまま、ゆかりは大きく息を吸い込むと、一言こう口にした。

 

「…ありがとう。」

 

 それが、ゆかりの最期の言葉となった。そのままゆっくりと目を閉じ、全身を地面に預けながら、ゆかりは静かに息を引き取った。とても満足そうな、穏やかな微笑みを残したまま。

 

「ゆかり…?」

 

 思わず抱きかかえる。その身体にはまったく力が入っておらず、先ほどの何倍もズッシリと重く感じられた。首はガックリと後ろに傾き、それにつられて長い髪が二、三束パラッと揺れる。持ちあげた際に血が流れ出したせいか、濃厚な血の匂いが鼻についた。

 いくら揺すっても、いくら名前を呼んでも、ゆかりはもう何も反応しなかった。

 

「ゆかりっ…ごめん。ごめん…ごめんな…。俺の…せいで…。」

 

 勝手に溢れてくる涙を拭おうともせずに、賢二はそのままゆかりの身体を自身に引き寄せていた。

 

 それはまるで、愛しい恋人を――抱きしめるかのように。

 

女子3番 香山ゆかり 死亡

[残り7人]

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