『矢島さん…だよね?』
中学三年生になって数日経ったある日。背後から話しかけてきた誰かがいた。振り向けば、その顔には見覚えがあった。
『あっ、その説はどうも。』
『だから、敬語使わなくていいって。同じクラスなんだから。』
二年の時、一度だけ忘れ物を取りに、日曜日に学校へ行った。その時に出会ったあの人が、自分の目の前に立っている。あの一時の思い出の中にいる、少しだけ特別な色に染まったあの人が。
『というか、本当に同じクラスになるとは思わなかった。てか、今頃気づいた?』
少しだけ意地悪そうな顔を浮かべるその人は、あの時よりも子供っぽく見えた。
『ごめんなさい…。気づいていないわけじゃなかったけど、話しかけるのも迷惑かと思って…。』
『そんなことだろうとは思ったけどね。』
なんだか見透かされているみたいだ。そう思うと、少し恥ずかしい。
『いや、俺もどうしようかと思ったけどね。でもせっかくの縁だし、存在くらいは認識して欲しいなと。』
こんな自分に存在を認識してほしいなんて、随分変わった人だ。いや、随分変わった人だと言うことは、何となく聞いてはいるけれど。
『あの…これからよろしくお願いします。』
『あ、また敬語じゃん。まったく、矢島さんって結構面白いね。』
そう言って笑う彼は、噂とは全然違う印象を抱く。
『じゃ、改めて。俺は白凪浩介。まぁ、色々言われているけど…よろしくね。』
その時の表情は、とても優しかった。切れ長の目は細められ、口元は緩やかな弧を描いている。先ほどまでの子供っぽいものではなく、大人びた静かなもの。自然と表情が綻ぶ。
ロボットなんて、嘘。感情がないなんて、嘘。この人はこんなにも笑う人。こんなにも穏やかで優しい人。子供っぽいところも、大人びたところも併せ持っている人。きっと、私よりもちゃんとした人。
思えば、ここから始まっていたのかもしれない。たまたま知り合った相手が、クラスメイトから親しく話せる人へ、そしてたった一人に抱く恋心を向ける相手へと、除々に変化していくのは。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
その彼が、ゆっくりと仰向けに倒れていく。腹部に、大きな赤い華を咲かせて。
――え?
一瞬の出来事なのに、スローモーションのように、一コマ一コマまで分かるくらいに、ひどくゆっくりと流れていく。それでも、何が起こっているのか分からなかった。動けなかった。
「白凪…くん…?」
ようやく絞り出した声。けれどその声に、彼は返事もしない。彼の身体が地面に吸い込まれてから、ようやく自分の身体の呪縛が解けていた。
「白凪くん!」
「大丈夫かい?矢島さん。」
背後から、声が聞こえる。自分のものでもない、浩介のものでもない、第三者の声が。
「月波さんは間に合わなかったけど、矢島さんは助けられてよかった。」
その人物の言っていることは、楓には分からなかった。
――助けた?私を?
ゆっくりと振り向く。そこに立っている人物の正体が分かった途端、目を見開いた。
そこにいるのは、あまりにも意外な人物だった。楓が無条件には信用できないと思っていた人物。普段からほぼ関わりない人物。楓と同じ出席番号で、楓よりも前に出発した数少ない人物。
「文島くん…?」
わずか五メートル先に立っていた人物は、右手に銃(レミントンダブルデリンジャー)を持った文島歩(男子17番)だったのだ。
「銃声がしたから、何事かと思って来てみたけど…まさか白凪くんがやる気だとはね。」
「白凪くんが…やる気…?」
何を言っているのだ。この人は。
「だってそうじゃないか。たった今、君の友人の月波さんを殺したんだから。」
歩の言っていることは、起こった出来事だけ汲みとれば、決して間違っているわけではない。傍から見れば、そうかもしれない。何も知らない人間からしたら、そう思っても無理はないかもしれない。
けれど―
「違う…」
「でも、現に彼は月波さんを…」
「違う!!白凪くんはそんな人じゃない!」
決めつけないで。勝手に決めつけないで。
「あなたは何を見ていたの!一体何を見ていたのよ!!」
彼はそんな人じゃない。進んで殺したわけじゃない。仕方がなかった。それなのにこの人は、浩介は明日香を撃ったというだけで、“やる気”だと決めつけている。浩介がどんな気持ちで、どんな思いで引き金を引いたか、この人は分かっていない。理解しようとすらしていない。
「見てたんでしょ!なら明日香が銃を向けたことだって知っているんでしょ!明日香が撃とうとしたことも分かっているんでしょ!これは正当防衛よ!どうして白凪くんを撃ったのよ!!」
いつになく大声をあげてしまったせいか、ゼェゼェと息切れがする。立ちあがって、歩の方へと睨みつけるかのように視線を合わせる。そんな楓の言葉にも、視線にも、歩は眉ひとつ動かさない。
「でも、白凪くんは月波さんを殺した。これは事実だよ。」
先ほどの楓の訴えを、完全に無視したこの言葉。事実だけを汲みとったこの言葉。そこに至る心境や経緯を、まるで意に介さない言葉。
「なら、白凪くんは人殺しだ。クラスメイトを殺した悪だよ。そんな危険な人は排除しなくちゃ。」
“悪”、“危険”、“排除”。その全ての言葉が、あまりも彼に似つかわしくない言葉が、浩介のことを差している。
「何言ってるの…?」
浩介が悪?浩介は危険?排除しなくちゃいけない?この人を?
「あなたは…違うとでも言うの…?」
楓が小さく言った言葉に、歩は明らかに表情を変化させた。眉を潜め、不愉快な表情へと。
「あなたは無抵抗の人に対して撃ったじゃない!白凪くんはあなたには何もしていないのに撃ったじゃない!私にだって何もしていなかった!そんな人をあなたは殺そうとしたのよ!そっちの方が、よっぽど人殺しよ!!」
「…庇うのかい?」
一層低い声で告げられたその言葉が、矢継ぎ早に罵倒する楓の口をつぐませた。
「人殺しを、庇うのかい?」
そう告げるなり、歩は持っていた銃を楓に向けた。今でもなお、うっすらと煙が出ているその銃口を。
「僕は、悪を裁く正義の使者なんだ。だから、この世の悪を裁いているだけなんだよ。…邪魔するっていうんなら、矢島さん。君も悪に加担する者として、容赦なく排除させてもらう。」
「何言ってるの…?」
狂っている。人殺しに、正義も悪もあるわけがない。そんなことは分かりきっているのに、どうして正義の使者などと言える?
けれど、そのことを深く考える前に、口が、身体が勝手に動いていた。
「…させない。」
小さくそう告げた後、持っていたワルサーの銃口を歩へと向ける。情けないほどに、その銃口は震えている。まったくブレていない歩とは、傍目から見れば大違いだろう。
「矢島さん…。君も悪なの…?」
少しだけ困ったような表情を浮かべる歩は、いつも見ている姿と何ら変わりない。それが、何よりも恐ろしかった。
けれど、怯むわけにはいかない。守らなくてはいけない人がいるから。
――今度は私が守る!白凪くんには手出しさせない!
両手で保持して、震えを精一杯止めようとする。もう人は殺さないと決めたのに、また殺そうとしている自分が怖いのだ。今度はそれをしたくはないのに、それをしようとする自分が怖いのだ。
「矢島さんは人を殺していないんでしょ?白凪くんとは違うんでしょ?」
「何がよ!何が違うのよ?!だって私は…」
「止めろ!!」
楓の言葉を遮るかのように、声を出した人物がいた。その声には、かなり荒い息遣いが混ざっている。
「矢島さんに…手を出すな…。」
少しだけ振り向くと、浩介が歩に銃を向けていた。撃たれた腹部を押さえながら、ゼェゼェと息を切らしながら、それでもその銃口は少しもブレてはいない。そしてその眼差しは、しっかりと歩を見据えている。
「傷一つでもつけてみろ。俺は死んでも…お前を殺すぞ。」
先ほどと同じくらいに低い声。けれど、今度は泣きそうになった。抉られるような痛みも、冷たさも感じなかった。あまりに必死な彼の姿が、どうしようもなく痛々しかったから。
きっとすごく痛いのに、とても苦しいのに、それでも私を守ろうとしてくれている。
「何言ってるの。死んじゃったら殺せないじゃん。」
そんな浩介の言葉に、歩は呆れたような声で、至極まっとうなことを言う。浩介に向けていた視線を、再び歩に戻す。歩の瞳に映る自分は、今まで見たことがない表情をしていた。
けれど次の瞬間。楓は目を見開いた。
歩が銃口を下げたのだ。
「でも、さすがに無謀なことはできないかな。矢島さんのワルサ―も、白凪くんのコルトガバメントも、確かそこそこ装填数があったはずだし。この場合はちょっと不利だね。まだまだ裁かなきゃいけない悪はいることだし、ここで死ぬのは本意じゃない。」
そう言って浩介の方をチラッと見やり、小さく呟いた後、楓に視線を合わせると口の端を持ち上げた。笑ったのだ。
「矢島さん。君に免じて、ここは見逃してあげるよ。」
急ぐわけでもなく、歩はゆっくりと歩いて去っていった。その背中が見えなくなってから、楓の全身から緊張が抜け、そのまま地面にペタリと座りこむ。
――何…?何なの…?一体何なのよ…?
歩は、自分のやっていることを正しいと信じている。間違っているなんて、微塵も思っていない。先ほどの笑みにも、まるで悪意は見えない。
けれど、その瞳に宿る純粋さは狂気。限りなく綺麗な漆黒の瞳は、決して終わりの見えない深い闇のよう。
今まで会った誰よりも、歩のその純粋さが恐ろしかった。
「矢島さん…」
ハッとして、浩介の方へと視線を向ける。そうだ、浩介の手当をしなくては。とにかく、彼を助けなければ。
けれど改めて、その傷を見て愕然とした。
浩介の腹部には、思ったよりも大きな穴が空いている。そこからドクドクと血が流れており、地面の草の間にも少しずつ広がっていく。傷口を押さえる手は真っ赤に染まり、もはや白い肌は見えていない。そして荒い息遣いは、肩を揺らすほどに大きくなっていた。
そう、歩はただ見逃したのではない。敢えて手を加える必要がなかったからだ。
『どっちにしても、目的は果たせたしね。』
「矢島さん…無事で良かった…。」
その言葉に、今度こそ涙が溢れ出そうだった。
[残り13人]