違う次元に立つ人

 遠ざかっていく神山彬(男子5番)の足音を聞きながら、萩岡宗信(男子15番)はもう一度だけ後ろを振り向いた。そこには変わらず、探していた友人が横たわっている。

 腹部の傷さえなければ、こんな状況でなければ、寝ているだろうと思ってしまうほどに、穏やかな笑みすら浮かべた友人の―遺体が。

 

「何で…何でだよ…。」

 

 低い声で浩介に問う。けれど、何も反応を示さない。それが、とても、悔しい。

 もう、何もできない。話すことも、動くことも、守ることも、何も―

 

「もう一度会おうって…、絶対会おうって…約束したじゃないか…。」

 

 口にはしなかった約束。言葉ではなく、互いの視線だけで交わした約束。だからあのとき、袂を分かつ決意をしたのに。

 

「生きて…生きて会うって意味だぞ…。こんな形じゃなかったはずだろ!お互いの好きな人、探して守るって…そう決めたじゃないか!矢島さん、矢島さんどうするんだよ…?おまえが守るんだろ?!何やってんだよ!死んでんじゃねぇよ!」

 

 友人を失ったことによる悲しみよりも、沸き上がるのは怒り。約束も守らず、死んでいるというのに、今まで見たことがないくらいの穏やかな笑みを浮かべている。やるべきことを果たせていないのに、友人に会えなかったのに、どうしてそんな表情ができるのか。今の宗信が知る由もない。

 思わず、ガッと学生服の襟元をつかむ。いつもなら、「何するんだよ。」とか言って、この手を簡単に振り払うのに、不愉快そうな表情を浮かべるのに、今はもちろんこの手がどけられることはない。その微笑みが崩れることも、ない。

 

「馬鹿野郎…。」

 

 こみ上げる涙が頬を伝う。何度流したかもしれない涙が、再び流れ落ちていく。ポタポタと流れ落ちる涙は、浩介の学生服にじんわりと染みを作っていく。次第に染みは広がっていき、襟元をつかむ右手にまで、その冷たさを感じるようになっていた。

 

 何度泣いても、きっと涙が枯れることはない。そしてその涙は、留まるところを知らない。

 

 先ほどまでは彬がいたから、だから何とか堪えてきた。けれど、今はもうそれはできない。誰もいないから、我慢する必要もない。だって、一番の友人が死んでいるのだから。

 

――何でだよ…。

 

 どうしてこんなにも探しているのに、友人に会えないのだろうか。どうして死んでほしくないのに、みんないなくなってしまうのだろうか。どうしてみんな、自分を置いていってしまうのだろうか。

 

――もう一度会うって…。絶対、会うって…。

 

 わずか一日前に誓ったこと。それはこんなにも儚いものだったのか。ただ会いたいだけだったのに、それは決して叶わないほどの願いだったのだろうか。決して望んではいけないほどのことだったのだろうか。

 

――俺は、これから…どうしたら…?

 

 まだ古山晴海(女子5番)は生きている。浩介の想い人である矢島楓(女子17番)も生きている。同じ修学旅行の班でいえば、江田大樹(男子2番)も生きている。希望はまだ、潰えてはいないのに―

 

『こんなところで、泣いてる場合じゃないだろ。』

 

 そんな声が聞こえる。何度も何度も、自分のことを叱咤してくれる声。

 

『今できること、やるべきじゃないのか?』

 

「分かってるよ…。」

 

 そんなことは分かっている。でも、今くらいいいじゃないか。きっと自分は、そんなに強くはないのだから。

 そう、今だけでいい。泣かせてほしい。もう少ししたら、また頑張るから。まだ生きている人、守りたい人、探すから。もう誰も死なないように頑張るから。だから…今だけ…

 

 そのとき、カサッという物音が聞こえた。それはなぜか、自分を呼んでいるかのように聞こえた。

 ゆっくりと振り向く。振り向いた途端、視界には一人の人物が入り込んでいた。

 

「んだよ。驚かすんじゃねぇよ。」

 

 宗信から十メートルくらい先、窪永勇二(男子7番)が慌てた様子で足を止めていた。その右手には、家で見たことのある包丁が握られている。

 

「窪…永…?」

 

 普段から関わりはないし、どちらかというとあまり好いてはいない人物だ。けれどこの状況では、生きている人間に会えること自体が奇跡に近い。普段の関係性などどうでもよくて、勇二が無事だったことに、宗信はただ素直に安堵した。

 先ほどの彬だってやる気ではなかったのだから、勇二もきっとそうなのだろう。知らなかっただけで、乗るような人間ではないのだろう。

 

「よかった…無事で…」
「せっかく後ろからぶっ刺してやろうと思ったのに。」

 

 けれど、次に勇二から出た言葉は、あまりにも信じがたいものだった。 

 

――え…?今…なんて…

 

「武器がこんなんだからしょうがなくじっとしていたけどよ。大分人数も減ったし、もうそろそろ殺したいなーって思ってたとこだったんだよなー。そしたら丁度いい獲物がボケッと座っていたからよ。まったく、気づいたりしなけりゃ、楽に殺してやったというのに。」

 

 つかみかけた希望が、音を立てて崩れ落ちていく。やっと出会えたと思ったのに、それは全て甘い幻想。目の前にあるのは、今までで一番信じたくない現実。

 

――嘘…だろ…?

 

 彬はやる気ではなかった。藤村賢二(男子16番)は確かに自分を殺そうとしたけれど、彼にはまだ理由があった。納得できるようなものではなかったけれど、最初から乗っていたわけではなかった。泣きたくなるほどに、悲しい理由があった。

 

 けれど、勇二はそのどれでもない。おそらく彼は、最初から乗っている。

 

「そこに転がってんの、白凪だよな?おもしれぇな、そいつも死んだのか。じゃああと厄介なのは、藤村と横山くらいか?霧崎殺せなかったから、せめて横山だけでも殺してやりたいな〜。顔とかぐちゃぐちゃにしてよ。」

 

 まるで楽しそうに―いや、きっと彼は本当に楽しんでいるのだろう。口は大きな弧を描いて笑っており、殺したくて殺したくてうずうずしているかのように、包丁をぶんぶんと振り回している。それに合わせて、包丁の刃が太陽の光に反射し、鈍く光った。

 

「萩岡が持ってんのってさ、刀?あ〜あ、銃とかじゃないのかよ。せっかくいいカモを見つけたっていうのに。まぁいいや。いいかげん殺したくなったし、慣れときたいし、小手調べって感じでやっとくか。」

 

 そう告げるなり、包丁をスッと宗信に向ける。その距離、わずか十メートル。

 

「ぶっ殺してやるよ。あぁ、せっかくだから、死んだら白凪の隣に並べてやるよ。お似合いじゃねぇの?」

 

 そう言って、勇二はケラケラと笑う。その笑い声は、嫌というほど耳に入ってくる。まるで悪魔が笑っているかのような錯覚にさえ陥った。

 

 そんな勇二に、宗信は何も言い返せなかった。ただ見ていることしかできなかった。

 

 悲しかった。こんな殺し合いに笑いながら乗る人間がいるなんて、信じたくなかった。心のどこかでは、みんな仕方なく―そう、賢二みたいに、何かしら理由があるのだと信じていたから。

 

――どうして…どうしてそんなに笑えるんだよ…。どうして…そんなに簡単に殺すなんて言えるんだよ…。

 

 勇二が、右足を少しだけ前にずらす。いつでも宗信を殺せるように。その表情は喜々としていて、宗信には歪んで見えた。

 

――俺は、そんなことできないのに…。絶対…できないのに…。

 

 頭では分かっている。これからのことを考えれば、勇二を殺すべきだ。まだ生きている晴海、浩介の想い人である楓や、修学旅行で同じ班だった大樹や他のみんな。彼らの命を思えば、勇二を殺してでもくい止めなくてはいけない。

 でも、宗信にはできない。決してできないと分かっている。それは、自分に殺す勇気がないからなのか。それとも、手を汚すことが嫌なのか。それとも、殺してしまったときに、晴海に拒絶されるのが怖いのか。それとも、これからどうしたらいいか分からなくなってしまうからなのか。

 

 きっと、どれもが当てはまる。きっと、全てが複雑に絡み合っている。

 なんて自分勝手なのだろう。自分は、こんなにも利己的な人間だったのだろうか。

 

――どうすればいい…?

 

 浩介ならどうする?乙原貞治(男子4番)ならどうする?武田純也(男子11番)なら?鶴崎徹(男子13番)なら?野間忠(男子14番)なら?

 

 彼らは、いざとなれば人を殺せるのだろうか。今の状況なら、人を殺せるのだろうか。守るためなら、その手を汚すことを厭わないだろうか。

 

――けど…

 

 できないから、だから彼らは既にいないのではないのだろうか。今生きているからといって、晴海や楓や、大樹がそうであるかは分からない。けれど、既にこの世にいない彼らは、きっとそれができなかった。できなかったから、だからもう会うことは叶わなくなってしまった。

 

 なら、今も生きている自分はどうするべきだろうか。

 

 彼らはもういない。いつまでも友人に頼ってはいけない。そう、自分で決めなくてはいけない。

 

――けど…、もし俺が…ここで死んだら…?

 

 自分がここで死んでしまったら、晴海はどうなるのだろう。楓はどうなるのだろう。大樹はどうなるのだろう。

 

 おそらく勇二は、全員にその凶刃を向ける。なら、その次の餌食になるのは、晴海や楓や、大樹かもしれない。

 

 みんな、ここにはいない。いないなら、探さなくてはいけない。探して、殺させないようにしないといけない。殺せないのなら、せめて守らなくてはいけない。

 

 それは、死んでしまったらできないこと。

 

 なら、今選択すべきは―

 

――逃げること

 

 そう決意すると、右方向に一目散に走り出した。なりふりかまわず、とにかく走り出した。陸上部である勇二に追いつかれる可能性を心のどこかで考えていながら、それでも走る足を止めなかった。

 後ろの方から、勇二の「待ちやがれ!」という怒号にもかまわず、ポケットに入れていた方位磁石を頼りに、禁止エリアに引っかからないように、全速力で走り続けた。

 

『軽率なことをするな。』

 

 いつのまにか遠くなっていく勇二の声にも気付かずに、ただ一筋の涙を流しながら、宗信は決して走る足を止めなかった。

 

 死ぬわけにはいかない。死んではいけない。

 

『生きて―』

 

――生きて、大事な人に、会いたいのなら。

 

[残り12人]

next
back
中盤戦TOP

inserted by FC2 system