世界で一番大好きなあなたへ

 

――守らなきゃ

 

 矢島楓(女子17番)は、腹部から流れ出る血を目の当たりにしながら、そう決意した。傷の具合からして、もう永くはない。けれど、親友である古山晴海(女子5番)だけは、絶対に死なせるわけにはいかない。

 

――絶対…絶対…死なせない…。

 

 宇津井弥生(女子2番)の注意が、完全に晴海に向けられたことを確認してから、ゆっくりと後ろの方角へと身体を引きずり、他の武器が入っているデイバックへと向かう。

 

――互いに武器が一つずつって言っておいてよかった。おそらく、宇津井さんは私がもう攻撃できないと思っている。晴海には防弾チョッキを着せているから、胴体を狙ってくれれば死ぬことはない。とにかく、晴海を殺させないように、私が宇津井さんを殺さなきゃ…

 

 物音を立てないように慎重に、けれどなるべく急いで移動する。焦る気持ちを必死で押さえながら、身体は少しずつデイバックへと近づく。そして楓が通った道筋には、はけで乱暴に書いたかのような、一本の赤くて太い線が出来あがっていた。けれど、それを楓が知ることはなかった。とにかく、晴海を死なせない。その決意だけが、出血多量で意識も朦朧としている楓を動かす、ただ一つの動力だった。

 

――あと少し。もう、少し…。

 

 永遠とも思える長い時間をかけて、ようやくデイバックへと辿りつく。音を立てないように、慎重にデイバックを開けた。もう銃の種類を選んでいる余裕などなかったので、適当に掴んだものを取り出す。それは、かつて白凪浩介(男子10番)が持っていたコルトガバメントだった。

 

「じゃあね。古山さん。」

 

 そのとき、弥生の声が聞こえた。その最後の通告に、慌てて銃を構える。

 

――お願い!一発で当たって!

 

 勢いのままに、地面に背中を付けた状態で、ろくに照準も定めずに引き金を引いた。その瞬間、この空間に“三発”の銃声が鳴り響いた。

 

――しまった!遅かったかも…!

 

 想いが通じたかどうか―その銃声の末路を、楓はすぐ目の当たりにすることになる。

 

 楓の放った弾は、弥生の後頭部を直撃していた。弾けたように頭部の一部が飛び散り、弥生の身体が一度だけビクンと動いた。晴海に当たらないような箇所に命中したので、少なくとも楓の銃弾で晴海は傷つかない。しかし楓にとって、この状況は素直に安堵できることではなかった。

 欠けた頭部とは別の所。弥生の左の首筋からは、血が吹き出していた。それはまるで、噴水とかシャワーと思わせるかのような、それくらい勢いのあるものだった。それは絶え間なく流れ続け、周囲を真っ赤に染めようとしている。

 

 どう考えても、弥生は“二発”被弾している。それは両方とも、致命傷になり得るものだった。楓の他に弥生に撃った人間は、どう考えても一人しかいない。

 

――晴海には、人を殺してほしくなかったのに…。私がもう少し撃つのが早かったら、もう少し上手くやれていれば、晴海が手を汚すことはなかったのに…。ごめんね…。私が撃たれたりしたから…。

 

 弥生の身体が、ゆっくりと前へと倒れていく。それにつられて、晴海の姿が視界に入る。見る限りでは、怪我をしている様子はなかった。

 

――良かった…。良かった…。無事で…

 

 こちらに気づくように、「は、晴海…。」と小さく呟く。その瞬間、全身から力が抜けた。もう銃を持っていることもできず、手からこぼれ落ちる。カツンという無機質な音が、静かな空間に響き渡った。

 

「…楓!」

 

 そんな楓に気付いたのか、晴海が慌てた様子で駆け寄ってくる。次第に近付いてくる晴海を見て、初めて胸のあたりに穴が空いていることに気がついた。やはり、弥生も引き金を引いていたのだ。

 

――良かった…。防弾チョッキ…着せておいて…。悔しいけど、岡山には感謝しなくちゃいけないのかな…。晴海の命を…助けたことになるんだしね…。

 

 駆け寄った晴海が、楓の怪我の状態を見て、息を飲むのが分かった。それもそうだろう。おそらく、教室で死んだ里山元(男子8番)に負けないほどに、大量に出血しているのだから。

 

「怪我は…ない…?」

 

 もう、自分のことなどどうでもよかった。晴海が無事かどうか、どこか怪我をしていないか。そのことだけが重要だった。

 

「私は…大丈夫だから…。それより楓…。は、早く…手当しなきゃ…。」

 

 涙をこらえながら必死でデイバックを漁る晴海を見て、なぜかフラッシュバックしたかのような感覚に陥った。そしてすぐに、その原因に辿りつく。

 

――そっか…。私、今、あの時の白凪くんの…立場なんだ…。

 

 自分のことより、楓のことを気遣ってくれた浩介。あのとき彼も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

――ねぇ、白凪くんにとって、私は“大切な人”だった…?自分のことがどうでもよくなるくらい…“大切な人”だった…?

 

 脳裏に浮かぶ愛しい人。初めて好きになった大切な人。彼は自分のことを、こんな風に思っていてくれていたのだろうか。

 

――だったら、今なら、あのときの白凪くんの気持ち…分かるよ…。自分にとって“大切な人”が無事だったから、あんなに…穏やかな顔をしていたんだね…。

 

 なら、これから自分がやるべきこと、伝えなくてはいけないことも分かる。晴海がこれからも晴海らしく生きていくために、最期に楓がしなくてはいけないこと。

 

「晴海…私が言ったこと…覚えているよね…?」

 

 泣きそうな晴海は、ただコクンと頷く。

 

「ここを出たら…江田くんと横山くんがいる…C-5に行って…。二人なら、きっと晴海を信用してくれる…。上手く合流して、萩岡くんにも会って、みんなで…ここから…脱出してほしい…。」

 

 最期に楓が願うこと。それは、晴海がこれからも晴海らしく生きていくこと。優しさや強さを持ち合わせたまま、生きて大人になっていくこと。それが、楓がいるかいないか分からない神様に願う、たった一つの願い。

 

「でも…宇津井さんだって…乗ったんだよ…?江田くんや横山くんが…乗っていないとも限らないじゃない…。私、もう、誰を信じたらいいか…。」

 

 俯きながら、聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で、晴海はそう言った。弥生の裏切りともいえる行為は、晴海に不信の種を生んでしまった。それもそうだろう。初めから疑っていた楓とは違って、晴海は弥生のことを、心の底から信じていたのだから。

 

「江田くんはね…。私、一か月くらい隣の席だったの…。傍から見ても、分かりやすいくらいの…“いい人”だよ。教室で里山くんが死んだ時、その瞬間を見ないように…私を庇ってくれたんだ…。実はね私、江田くんは最初から乗ってないって…ずっと信じていたんだ…。」

 

 楓の隣の席に座っていた江田大樹(男子2番)。教室で元が死んだ時、両手で楓の目を覆ってくれた。楓と大樹では、実は大樹の方が若干背が低い。それでも楓が見ないように、咄嗟に庇ってくれたのだ。おそらく彼は、元の死ぬ瞬間を見てしまっただろう。

 

「横山くんは…冷静で、頭の回転の速い人。けどね、人のために怒れるような、そんな人情にあふれた人でもあるんだよ…。私、一度だけね、横山くんが怒っているところを見たことがあるんだ…。サッカー部の練習試合で、相手チームにラフプレーをされて…それでチームメイトが怪我をしてしまって…。それで、すごく怒ってた…。いつもの横山くんからは考えられないくらい…感情を露わにして…怒ってたんだ…。」

 

 普段はあまり関わりのない横山広志(男子19番)。その練習試合は、浩介と初めて出会ったあの日行われていたものだった。浩介と別れた後、ほんの興味本位で少しだけ試合を見た時、目にしたのは相手の選手に掴みかかろうとする広志の姿だった。同じチームメイトに必死で止められていたおかげで、殴りかかることはなかったようだが、それでも広志のその姿は、ずっと脳裏に残っていた。だから三年で同じクラスになって、普段感情を表に出さない広志を見て、ずっと不思議に思っていたのだ。おそらく彼は、普段は滅多に怒らない人なのだと。自分よりも、他人のために怒れるような人間なのだろうと。最終的にはそう結論づけていた。

 

 この二人なら乗っていない。そしてある意味、いいコンビだと思った。きっと彼らなら、脱出方法を見つけ出してくれる。そう、信じた。

 そしてもう一人、絶対に信じられる人がいる。そう―信じて欲しい人がいる。

 

「せめて…萩岡くんのことは…信じてあげて?誰も信じろなんて言わない…。むしろ…疑ってかかるべきかもしれない…。けどね、晴海は…こんな私のことを…二人も殺してしまった私のことを…信じてくれた…。私は…それで…すごく救われたの…。だから…自分の大事な人、好きな人のことは…信じてあげて…。」

 

 自分の想い人すら疑わなくていけない。それがプログラムのルール。そんなことは、痛いくらいに分かっている。

 けれど、自分が好きな人くらいは、誰だって信じたい。そして、信じて欲しい。想い人をも疑わなくていけないということは、いわば自分自身をも疑ってしまうことにもつながってしまうのだから。

 

「分かった…。」

 

 先ほどよりははっきりした声で、晴海はそう答えてくれた。それだけでも、楓は心の底からホッとした。

 

「だからさ…、楓も一緒に行こうよ…。こんな傷なんて…大丈夫だからさ…。だから一緒に…これからも一緒に…」

 

 晴海は泣きそうになりながら、そう口にする。でも、本当は分かっているはずだ。楓の命がもう永くはないことも。もう一緒にいられないことも。けれど、それを受け入れられない。信じたくない。だから、“一緒にいよう”と口にする。

 

――でも…それじゃダメなんだ…。もう一緒にいられないことも、私が死んでしまうことも、受け入れなくちゃ…。

 

 それを証明するかのように、少しずつ身体の自由が利かなくなっていく。もう話すことすら困難な状態だった。けれど、まだ言わなくてはいけないことはある。浩介が楓に伝えてくれたように、晴海が楓に伝えてくれたように、楓も晴海に伝えなくては。

 

「私のことは…覚えていなくてもいいから…。」

 

 楓の言葉に、晴海の目は大きく見開かれた。晴海が何かを言う前に、必死で言葉を紡いだ。

 

「忘れてしまっても…いいから…。でも、忘れないで。一人じゃないってこと。どこかで…誰かと…つながっているってこと…。私は、晴海がいたから、晴海が信じてくれたから、だから…満足して死んでいける…。晴海が無事だったこともそうだし、自分のことが…少しは好きになれたから…。だから…責めないで…。晴海のせいじゃないから…。私が勝手にやったことだから…。それに晴海が無事だった…それだけで…十分だから…。」

 

 楓には晴海がいたように、晴海にもきっと誰かいる。絶対に一人じゃない。楓がいなくなっても、晴海には待っている誰かがいる。

 

「晴海は…強いよ。私より強くて…優しい…。だから…私がいなくても…これからも…晴海らしく生きていけるよ…。大丈夫。私はそう…信じているから…。」

 

 だから生きて欲しい。あなたらしく、真っすぐなままで。誰かを思う、その純粋さを持ち合わせたままで。これからも生きて欲しい。そして願わくば、彼への想いが届いてほしい。そして―

 

「ありがとう…。私と友達になってくれて、信じてくれて、一緒にいてくれて…ありがとう…。」

 

 晴海の表情が大きく歪む。焦点の合わない目で見ると、その目には涙が溜まっていた。もう少しで溢れ出しそうなほどに、たくさん溜められていた。

 あぁ、悲しんでくれているのだろうか。そう思った。楓がもうすぐ死ぬ。それを受け入れようとしているのだ。だから悲しい。だからこそ、涙が止められない。

 

――やっぱり…悲しいのかな…

 

 楓の目頭が、少しずつ熱くなっていく。視界がぼやける。最期だから、ちゃんと晴海の顔を見たいのに、勝手に溜まる涙が、それを邪魔してしまう。

 

――もう…一緒にいられないのは…

 

 瞬きをすれば、それはスッと流れ落ちるだろう。一日二回泣くことなんて、いつ以来だろうか。そしてこれが、最期の涙になる。

 

――まだまだ話したいこと、やりたいこと、たくさんあったはずなのにね…。死ぬのは覚悟してたのに…

 

 今さらだ。プログラムが始まったときから、自分の命はいつ捨ててもいいと思っていたのに。晴海が生きるために、命をかけて守ると誓ったのに。晴海は無事だから、何一つ後悔することなんてないのに―

 

――今さら…死にたくないなんて…。

 

 視界もぼやけていき、晴海の顔すらまともに見られない。晴海の声すら、どこか遠く感じる。身体を起こすことすらできない。自分の意志で動くのは、もはや右手だけだった。

 生きたい。でも、それはもう叶わない。もうすぐ迎えはやってくる。たぶんー死神が。

 

――あと少し…もう少しだけ…

 

 最期の力を振り絞って、その右手を晴海の方へと伸ばす。晴海が慌ててそれをギュッと握りしめてくれた。驚くほどに、その体温は温かい。

 

――あと一言…一言だけ…

 

「は、晴…海…」

 

―私は楓が―

 

「わ、わた…しも…」

 

―大好き―

 

「大好き…だよ。」

 

 そこで、楓の意識はプツリと途切れた。既に体温を失いかけていた右手からは力が抜け、目をゆっくり閉じ、最期に一筋の涙を流しながら、楓は静かに息を引き取った。もう晴海の顔を見ることも、声を聞くことも、二度となかった。それでも、その表情はとても満足しているかのような、そんな穏やかな表情であった。

 そう、それはまるで、楓が想う彼の最期と、被って見えるかのように。

 

 

――世界で一番大好きなあなたへ――

 

――あなたがあなたらしく、いられますように――

 

 

女子17番 矢島 楓 死亡

[残り10人]

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