埋め合わせの再会

 

『大好き…だよ。』

 

 そう小さく呟いた後、矢島楓(女子17番)の右手から、ゆっくりと力が抜けていった。目を閉じ、一筋の涙を流し、とても穏やかな表情を浮かべたままで。

 

「楓…?」

 

 古山晴海(女子5番)は、もう一度楓の手をギュッと握りしめる。けれど、その手はまったく握り返さない。繋がれた右手が、ずっしりと重く感じられた。

 

「楓…」

 

 もう一度だけ呼びかけてみる。けれど、やはり返事はない。少しも表情が崩れることはない。何一つ、変化がない。

 

「楓…楓…ねぇ楓…」

 

 呼びかけながら、身体を揺する。口元に手を当て呼吸を、手首や首筋の脈を確認する。まだ生きているかもしれない。助かるかもしれない。心のどこかでそんな微かな希望を信じていたくて、何かの冗談だと思いたくて、晴海は何度も同じことを繰り返した。

 身体を揺すっても、反応はない。口元に当てた手には、まったく息がかからない。手首の脈も、首筋の脈もない。胸元に耳を近づけても、心臓の音が聞こえない。何度確認しても、結果は同じだった。

 

――嘘…死んじゃったの…?

 

 “楓が死んだ”。その言葉が頭の中にこだました途端、何かが壊れる音がした。必死でくい止めていた心の中の防波堤が、跡形もなく粉々に砕け散るのが分かる。

 

「嫌!嫌だよ!お願い目を開けて!私を一人にしないで!!」

 

 楓の身体にしがみつき、晴海は声をあげて泣いた。それでも楓は、何も応えてくれない。

 

――いつもなら返事をしてくれるのに、無視なんてしないのに、どうして何も返してくれないの?

 

 楓と会話をしているとき、分かっていたのに。もう死ぬと分かっていたのに。だから楓は、たくさん大事なことを伝えてくれたのに。どうして現実を受け入れられないのだろう。どうして自分は、こんなにも弱いのだろう。

 

「一緒にいてくれるって言ったじゃない!まだ…まだほんの少ししか一緒にいないのに…どうして!」

 

 そこまで叫んで、ハッとした。

 

『晴海を死なせることはしない。だから、一緒にいてもいい?』

 

――もしかして…最初から…最初から私を死なせないことを…一番に考えていたの…?

 

 だから、防弾チョッキを晴海に着せたのだろうか。だから、宇津井弥生(女子2番)に殺されないように、敢えて自分の身を危険に晒したというのだろうか。二階にいる晴海には、何が起こっても危険が及ばないと判断したのだろうか。晴海が生きられるのなら、自分の命はどうでもいいと思っていたのだろうか。

 そんなこと、晴海は望んでいなかったのに。

 

「どうして…どうして…」

 

 楓の真意に気付けなかった自分の浅はかさが憎かった。“そんなことしなくていい”と一言言えていたなら、きっと何かが変わっていたはずなのに。もうみんなが死ぬのは嫌だから、だから行動しようと決めたのに。結果的に、自分自身が殺人を犯した。死にたくないというエゴのために、弥生を殺した。そして挙句果てには、大事な親友を死なせてしまった。

 

「ねぇ…。これからどうしたらいいの…?楓もいなくて…私はこれからどうしたらいいの…?」

 

 楓は、江田大樹(男子2番)横山広志(男子19番)のところに行ってと言った。でも、足がここから動かない。信じたいのに、心のどこかでは二人を疑っている自分がいる。弥生の裏切りは、晴海に疑心暗鬼の種を植え付けていた。

 

「ねぇ…どうしたらいいの…?どうしたら…」
「誰か…そこにいるのか…?」

 

 泣きじゃくる晴海の耳に、聞きなれた声が届いた。

 

「頼む、返事をしてくれ。俺は…やる気じゃない。」

 

 それは誰かと考える前に、晴海にはその正体が分かっていた。楓も信じられると言った人。そして―晴海がずっと会いたかった人。

 

「萩…岡くん…?」

 

 ようやく絞り出した声で、声の主である萩岡宗信(男子15番)に返事をする。その声で、宗信も誰か分かったようだった。

 

「古山さん…なのか?大丈夫なのか?怪我してないか?俺はやる気じゃない。頼む、ここを開けてくれないか?」

 

 いつもの晴海なら、つい先ほどまでだったなら、躊躇いもなく開けるのに、今は一歩も動けなかった。自分を心配してくれる想い人が、扉を挟んだすぐ向こう側にいるというのに。

 

――楓も信じられるって言ったのに…怖いんだ…。扉を開けた途端、萩岡くんが私を殺そうとするんじゃないかって…。

 

 宗信を信じたい気持ちと、殺されるかもしれない恐怖が交錯する。動くこともできず、返事もすることもできずに、時間だけが流れる。しばしの沈黙が、ずっしりと重かった。

 

「怖い思い…したんだな…」

 

 沈黙を破ったのは、宗信だった。あまりに意外な発言だったので、思わず晴海は「え?」と小さく呟いた。

 

「一歩も動けないくらい…怖い思いしたんだろ?無理も…ないよな。こんな状況だもんな…。俺だって怖いよ。」

 

 いつもの宗信らしからぬ、小さくて覇気のない声。彼の身に、これまで何かあったのだろうか。

 

「それに…いないんだ…。貞治も…浩介も…もういないんだよ…。いつも一緒にいたダチがもう…いないんだ…。いないんだよ…。」

 

 思わず耳を疑った。どうして、まだ放送で呼ばれていない白凪浩介(男子10番)が死んだことを知っているのか。いや、その術は一つしかない。

 

――見たんだ…。白凪の…遺体…。

 

 大事な友人が死んでいるところを目の当たりにする。それがどれだけ辛いことなのか。今、同じ状況に置かれている晴海には、痛いくらいに分かった。

 

「俺のことが信じられないなら、それでもかまわない。でも、もう俺は、誰にも死んでほしくないんだ。可能なら、古山さんと一緒にいて守りたい。できれば、まだ生きているみんなを集めて、何とかこの状況を打開する方法を考えたい。きっと…江田とか…何かいい方法を考えている気がするんだ。なんなら、俺の持っている脇差…預かってもらってもかまわないから…。だから…ここを開けてくれないか…。それでも無理なら…離れてくれれば…声をかけてくれれば…俺が開けるから…。」

 

『せめて…萩岡くんのことは…信じてあげて?』

 

 宗信の言葉を聞きながら、楓の言葉が蘇る。最期の最期に、自分のことよりも晴海のこれからを案じていた楓。その真意はきっと―

 

――私が誰も信じられなくならないように…。もう一人にならないように…。楓は伝えてくれたんだ…。私が誰も信じられなくなるんじゃないかって…思ったから…。

 

『これからも…晴海らしく生きていけるよ…。大丈夫。私はそう…信じているから…。』

 

 なら、その思いに応える術は、一つしかない。

 

 ずっとつないだままの楓の右手。ほんの少しだけ温もりのある、親友の右手。それをそっと胸元に置いた。そして、ゆっくりと立ち上がって、引き戸へと歩いていく。

 

「待ってて。今、開けるから。」
「む、無理しなくていいよ。」

 

 すると意外なことに、宗信が慌てた様子で止めていた。

 

「ある程度離れたところで声をかけてくれれば、俺が開けるから。まだ…俺のことも怖いだろ?だから…無理しなくていいよ。」

 

 晴海のことを気遣ってくれる言葉。その言葉が、晴海の中にあるわずかな疑念を消し去り、代わりに一つの確信を与えてくれた。

 

 やはり彼は、プログラムに乗っていないと。

 

「大丈夫。」

 

 先ほどよりもはっきりとした声で、そう告げる。自分自身に言い聞かせる意味もこめて。

 

「私、決めたから。萩岡くんを信じるって決めたから。だから、私が開けるよ。」

 

 それが、楓の望んだことだから。晴海が信じたい人を、迷いなく信じられるように。これからも、晴海らしく生きていけるように。

 

――甘いって言われてもかまわない。だって、これが私だもん。それに、あの小屋を出るときに決めたじゃない。私らしく行動するって。楓もそう言ってくれたから。過去は変えられないけど、そう決めたから。

 

 引き戸の前に立つ。すぐ向こうには、会いたかった想い人が立っている。ずっと会いたかった、プログラムが進んでいくにつれて想いを募らせていった―あの人が。

 

――だからこれからも、私らしく生きる。

 

 引き戸に引っかけてあるつっかい棒を、ゆっくりと外した。それは弥生を招き入れた後、再び楓が置いたもの。そのただの棒にすら、まだ温もりが残っているような気がした。つい先ほどまで、楓が生きていたことを証明するかのように。

 そしてゆっくりと引き戸に手をかけた。少しだけつっかえながらも、それはあっさりと開かれる。

 すぐに、一人の人物が立っているのが目に入る。晴海よりも少し背が高くて、ワックスで立てた短い髪。その小さな瞳は少しばかり充血しているけど、揺らぎない強い意志が映し出されている。このプログラムでも、彼は少しも変わっていないかのように思えた。もちろん、そんなことはないだろうけど。

 

 そこには、確かに萩岡宗信がいた。しかも、脇差を地面に置いた状態で。

 

「古山さん…。怪我…ないか。」

 

 何よりも晴海を身を案じてくれている―その優しさに触れた途端、何かがプツリと途切れていた。足に力が入らなくなり、膝から崩れ落ちていく。そんな晴海を、宗信が慌てた様子で支えてくれた。

 

「大丈夫か?」

 

 晴海の両肩を、宗信の手が包みこんでくれている。その手はとても頼もしくて、そして温かかった。

 

――生きているんだ…。萩岡くんは、生きているんだね…。

 

 晴海のただならぬ様子に心配そうな表情を浮かべる宗信だったが、晴海の向こう側にいる楓の遺体が目にとまった途端、その小さな瞳は大きく見開かれた。

 

「や、矢島さん?!」

 

 その声は、驚きを隠せていなかった。

 

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